scene 7 本領と本性
さして驚きはしなかった。可能性の一つとして、この辺りのごろつきが入り込んでいることは最初から想定していたから。
襲ってくるなら返り討ちにするまでだ。ベルは拳を固めた。
素人だ。そのうえ、勢いよく飛び出してきたくせにベルを見て怯んだ。先に男を黙らせよう、という考え自体は悪くない。が、振りかぶりも振り下ろしも遅い。引くよりは踏み込むべきだ。相手の腕よりも内側に、大きく一歩。棒を持った手を左手で押さえ、右の拳を真っ直ぐ顔面へ打ち込む。
鈍い音が響き、男は沈黙した。壁沿いに崩れ落ちた男の手から棒を回収し、部屋の中へ放り投げる。持ち物を探ると、ポケットから折りたたみ式のナイフが出てきた。これを使わなかったということは、一応殺意はなかったらしい。まぁ、あの棒でも充分、殺そうと思えば殺せるが。ナイフも部屋へ放り込み、拘束する必要があるかどうか検討する。別にこの程度では拘束などしなくてもいいが、何せこちらには今――
ベルははっと息を呑んで振り向いた。
――そうだった、カトラがいるんだった。
倒れた男を挟んだ向こう側、階段のそばに、彼女がへたりこんでいるのが見えた。青ざめた顔。口を半分開けて、目を丸くして――明らかに怯えている。
(しまった……!)
怖がらせた、とベルは確信した。やってしまった、おしまいだ。もう彼女に顔を向けられない。できることなら幽霊のように、この壁を通り抜けて逃げてしまいたかった。
仕方がなかったんだ、黙ってやられるわけにはいかなかった、やられていたら彼女に危険が及んでいたのだし――と、正しいはずの言い訳が浮かんでは消える。取り繕うことはできなかった。どうして取り繕えよう、これが自分なのに。
壁を睨んだまま立ち尽くすベルの耳に、カトラが息を吐いたのが聞こえた。
「ああ、びっくりした……。ねぇ、怪我してない?」
「……俺が?」
「そこの人には聞くまでもないでしょう?」
ベルが恐る恐る視線を戻すと、カトラはまだ座り込んだままだったが、顔色は元に戻っていた。眉尻が情けなく下がって、ベルを見上げる。
「ね、悪いけど、ちょっと手を貸してくださらない? びっくりしちゃって、上手く立てないの」
戸惑いのあまり、ベルは頷くことすらできなかった。黙って男を跨ぎ越えて、そうっとカトラに手を差し出す。その直前で右と左を入れ替えたのは、さっき人を殴ったばかりの手で彼女に触れるのが嫌だったからだ。クッキーをつまむときみたいに、力はほとんど入れないでおく。そうしておかないと彼女の手を割ってしまうような気がした。まだ彼女をまともに見ることはできなくて、視線を床へ逃がす。その代わりとばかりに触覚が鋭敏になって、ちょこんと乗っかった手のひらの存在をしっかり感じ取った。
柔らかい。冷えているのにやや汗ばんでいる。――そして、かすかに震えている。やはり恐怖を抑え込んでいるらしい。けれど声音はあくまで明るく。
「一人で来なくて本当によかったわ」
「……一人で来るつもりだったのか?」
「ええ、いつもそうしてるから。助けになれるなら、って思って」
「やめとけよ、危ないだろ」
「だって、幽霊の声が気になります、なんて言っても、軍警さんは動いてくれないでしょう?」
「まぁ、確かに」
本当に優しい人だ。変わらぬ調子で話してくれるのがありがたくて、少しだけ切なくもある。けれど、そっちがそうしてくれるなら、こちらもきちんと切り替えなければ。
彼女が立ち上がるのを片手で支えながら、音を立てないようにゆっくりと息を吸って、吐く。声の調子を戻す。
「幽霊の声は女と子どもだって言ってなかったか?」
「言ってたわね」
「とりあえず、こいつじゃなさそうだな。ってことは、本当に幽霊か――」
口を閉じたのは、誰のものでもない声が聞こえたからだった。女性の声。小さく掠れた、今にも消えそうな声で――たすけて――と。
乗せたままだったカトラの手に力がこもった。力、と呼ぶにはささやかすぎて、こんなに弱くていいのかという困惑が先に立つ。
「き、聞こえた?」
「ああ、隣の部屋だな」
ベルは平静を装って頷き、彼女の手を離した。
念のため、カトラを背中にかばうように誘導しながら、二つ目の扉に近付く。耳を当てると、今度ははっきりと聞こえた。
「お願い、助けて! 閉じ込められているの!」
すぅっと頭が冷えた。監禁。これは立派な犯罪だ。
扉にはしっかりと鍵がかかっている。
「なぁ、もう一回鍵を開けられるか?」
「どうかしら。上手くいくときといかないときがあるの」
カトラがドアノブを握って、何度かひねる。がちゃがちゃと鳴らす。が、やがて離した。
「ごめんなさい、だめみたい」
「いいさ、どうにでもなる」
しょげた様子の彼女に頷いて、少し下がるように手で示す。それから、ドアの向こうへ声を張った。
「扉から離れて! 蹴破ります!」
気配が遠のいたのを確認してから、ベルは思い切り扉に体をぶつけた。
人の住まなくなった家は傷みが早い。思ったよりもずっと簡単に扉は壊れ、もうもうとたつ埃の向こうから、子どもを抱えた女性が現れる。
「ああ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
女性はひどくやつれ、衰弱している様子だった。そして子どもはもっと弱っている。
「病院へ行きましょう。歩けますか」
「私は大丈夫ですが、子どもが……」
「急ぎましょう。あの男があなたたちを?」
「いいえ、別の人です。あの人は見張りで、昼の間はずっとこの廊下に。夜はいなくなるので、できる限り声を出していたんですが……」
「ねえ、あなたのお名前を教えてくれない?」
急にカトラが首を突っ込んできた。ちょっと戸惑った様子の女性が、しかし素直に答える。
「ダニエラです」
「旦那さんのお名前は?」
「グイノ・ファッシですが……」
「え」
ベルは思わず驚きの声を上げた。
カトラが少しだけ得意げな顔になって、彼を見上げる。
「宝石強盗の容疑者さんと同じ名前じゃない?」
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