第11話
その弟の処遇を、他でもない劉備自身から頼むなどとは信じられなかったが、呂布は陳宮の表情を見て悟る。
張飛の処遇がいかに酷いものであるかを、呂布が察する事ができる様にわざと見せたのだ。
張飛が暴れて手に負えない時には張遼、韓玄などに任せていたが、いずれも張遼は負傷、あるいは命を落とし、他の者達もかなりの被害を受けていると言う。関羽がいれば問題無かっただろうが、荊州軍を率いて劉備と行動していた時に荊州軍は賊軍と交戦し全滅させてしまった為、今は劉備と共に漢中王に即位する為の手続きを行っていると言う。
この様な無法を見逃す事は、呂布としても到底看過出来るものではない。しかし、今の呂布にそれだけの力は無い事も事実である。
「将軍、よろしいですね?」
李儒が尋ねてくる。呂布は迷ったが、この李儒と一戦交えるのであれば、まず間違いなく勝てる相手だとは思えなかった。それに、ここは呂布の領地ではない為、ここで呂布自身が勝手に処罰を下すわけにはいかない事も分かっているので何も言わずに引き下がるしかなかった。
李儒には色々と問い質したい事もあったのだが……。
その後の宴席でも、呂布に話し掛けられる人物は皆無であったと言って良いくらい、この部屋の中では疎外感があった。それでも劉備だけは呂布に声をかけてくれたのだが、その内容が酷かったと言う他無い。
「呂布将軍、この度はわざわざ漢中に来て頂きありがとうございます。こうして会えたのも何かの縁、ぜひゆっくりと語り合いたいもの……」
そこまで言ったところで、劉備は言葉を止めた。いや、止められたと言う方が正しい。
何しろ言葉の途中で、いきなり陳宮が割り込んできたからである。
「恐れながら申し上げます。我が君がこう言っているのですから、呂布将軍の相手をして差し上げるのが臣下としてのあるべき姿かと思われますが、違いましょうかね?まさか呂布将軍のお世話をしてあげると言う恩を売っておきたいとか、そんな事を考えているのではあるまいね?」
あまりに露骨な態度だったので、その場にいた誰もが凍り付いたほどである。いや、陳宮の後ろに立っている李儒ですら、わずかに目を見開いているのだからよほど驚いたに違いない。
だが当の劉備はと言えば、困ったような笑顔を見せている。
どう見ても無理矢理愛想笑いを浮かべている様にしか見えない笑顔だった。呂布にしても内心困っているので助け舟を出して欲しかったが、この状況下ではそれも難しい。と言うより呂布自身もどう対処すればいいのか分からない。
李儒がこの場にいないので直接訊く事も出来ないが、もしこれが李儒や張遼ならこんな状況にはならないはずだ。
どうも張飛の件以来、劉備も何か思うところがあるらしく機嫌が悪いらしいが、それが何故なのかは分からない。
「あの、私如き者が将軍の御相手をするなど畏れ多い事です」
とりあえずその場を取り繕うとしたのだが、それはむしろ劉備に対して失礼なのではないかと思って口にした後で後悔したのだが、時すでに遅し。陳宮は完全に不機嫌そうに劉備を睨みつけていた。それでもなんとか場の雰囲気が悪くなる前に切り抜けられたと思い、一安心している呂布だったが、次の瞬間呂布は自分の浅はかさを思い知る事になる。
「恐れ多くも貴殿の兄である関羽将軍に代わって漢中に参った者、呂布将帥に対しなんたる侮辱!それとも私が知らぬとでも思ったか!」
怒りに満ちた陳宮の声が響き渡ると同時に、劉備の顔色が青ざめる。
陳宮が劉備を怒らせた事は分かったが、呂布としては一体何が逆鱗に触れたのだろうかと思っている。劉備の態度は明らかに呂布に対して不快感を持っているのが分かりやすいものだったが、それに対して呂布は何一つ思い当たる節がない。「呂布将軍。呂布将帥、この男に対しての処遇、どうか貴方の手でお願い致します」
陳宮は冷たい口調で呂布に向かって言う。
劉備の怒りが何であるか分かっていないものの、呂布にも分かる事がある。
それは劉備に対する処分を下して、呂布に対して友好的な関係を作ろうと言う陳宮の意図だ。劉備は確かに主君であり陳宮はその配下ではあるが、劉備自身はその権力を持っていないはずである。
その劉備に対して、ここまであからさまな嫌悪感を示すと言う事は陳宮にとってそれだけ劉備に敵意を抱くだけの要素があり、それは呂布にとっては不快に感じざるを得ない行為でもある。
しかし劉備自身にはそれを自覚していない事がさらに厄介と言える。自分の兄がこれほどまでに無能であると呂布は思っていなかったが、実際に無能である事は疑いようもない。それでも、今の状況で呂布が断れるはずもなかった。
陳宮の計略に乗って劉備を処罰するのは簡単であるが、そうなると今後の行動に支障が出る可能性がある。少なくとも劉備には、ここで呂布と対立すべき理由が無いのだ。
結局、呂布は劉備を殺さずに済んだが、陳宮には相応の報いを与える事になった。
この酒宴の場で、張飛だけでなく劉備からも手痛い反撃を食らったのだ。しかも、劉備は呂布の前でも遠慮なく陳宮を痛めつけたのである。
この場でこれ以上の騒ぎは起こせないと思った呂布は止めに入ったが、劉備は張飛以上の狂犬と化していた。劉備を止める事は出来たかもしれないが、この先劉備がまともに動く事はないだろうと呂布は判断せざるを得なかった。呂布が劉備と会う前、丁原の元に手紙が届けられた。
差出人は董卓からであり、呂布との対面後に開封する事と書かれてあった。
呂布が見た時には特に変わった様子はなかったと思うが、董卓の手元に渡った事で何かしらの変化があったようだ。
しかし丁原はそれを気にする素振りもなく、すぐに開封する。
文面を見て、眉間にシワを寄せてしばらく考え込む。
呂布と董卓が顔を合わせるのは初めての事ではなく、呂布自身が丁原の元で客将であった頃には何度も会っている。その時は気の良いおじさんと言う印象が強く、こんな物騒な人物だとは思わなかった。
「どうされました?」
張遼が尋ねる。
「……いや、何と言うべきか、相変わらず食えない爺さんだよ」
苦笑しながら、丁原は答える。
呂布は知らない事だが、呂布がこの漢王朝を去った後の漢において最大の実力を持っていたのはこの漢王であった。武力でも知略でも名高かったが、中でも恐るべきは財力だった。
当時もかなりの権勢を誇っていた漢の皇室は、外戚による専横が目立っていた。そこで当時の漢王は宦官の王甫と結託して朝廷内の粛清を行ったのだが、それによって生じた空白地を瞬く間に埋め尽くして勢力を伸ばしてきたのが漢王の軍師を務める李儒なのだ。その功績は大きく、李儒がいなければ今の漢王朝の隆盛は無かったと言っても過言ではない。
ただその性格は残忍極まりない為、敵も多かったらしい。漢王室に対しても容赦なく刃を向ける事もあったとか。
それが今では漢王に気に入られ、李儒も重用されているらしい。
その手腕を持ってしても呂布と対等に渡り合う事は出来ないのだが、呂布が去った後は董卓軍の中枢にまで食い込んでいる。
今回、董卓から送られてきた書状は李儒からの呼び出し状だった。
用件は書いていなかったが、おおよそ見当はつく。
呂布の目の前で李儒は、劉備に散々罵声を浴びせた。呂布としても陳宮の言動には思うところがあったが、それでもあの状況では劉備を守る事も出来ず、かといって陳宮を止めに入る事も出来なかった。
そんな状況下だったにもかかわらず、その張本人であるはずの張飛が一切反応しなかった事に対して李儒は激怒しており、その事に対して劉備は猛烈に抗議したと言う事だろう。そしておそらく、陳宮に対しても同様に抗議したと思われる。
張飛と陳宮を一緒に相手にすれば、いかに豪傑とは言え劉備に勝ち目はない。そもそも劉備は武人ではなく文人でしかないのだから、尚更だ。
陳宮は張飛や劉備を相手にするとは思ってもみなかったのかも知れないが、それを差し引いてもあまりにも愚かすぎる行動である。
それについては呂布自身も思うところはあったが、それは今考えるべきではない事も分かっている。
とにかく今は、董卓に会う事が最優先である。
呂布達は早速洛陽に向かい、皇帝劉弁の元に向かう。
すでに呂布達が来る事は伝えられているらしく、宮廷内には厳重警備が敷かれていた。もっとも、この程度の警戒など呂布達に通用するはずもない。
呂布は呂布で警戒しているのだが、それ以上に陳宮の機嫌が悪い事が問題である。
本来であれば陳宮も皇族であるし、宮中での発言権も強いはずだった。それにも関わらず、呂布の客将に過ぎないので発言は許されず、またそれ故に軽んじられていると言う事実は、陳宮には屈辱以外の何者でもないはずなのに、彼女はその事を全く意にも介していないどころか完全に無視しているのだ。
ここまで機嫌の悪い陳宮は珍しいので何が原因なのか聞いてみたのだが、陳宮は一言、
「あの無能に、この陳宮が侮られるような事があるとは」
とだけ答えた。
それだけで充分に理解できるが、同時にそれだけでは無いだろうと呂布は思った。
董卓には陳宮に危害を加えるつもりは無く、陳宮もそれを理解しているが為に、あえて逆らう事はしないのだ。
しかしそれはあくまで表面上の事であり、陳宮としてはこれ以上無いほどの侮辱を受けたと考えているのかもしれない。
陳宮が激怒するのは当然の事なので、呂布はそれについて何かを言う事はなかった。
それに今回の訪問には、呂布個人の問題だけではなく、漢王朝を左右するほどの意味を持つ。
呂布達が通されたのは、かつて丁原と共に入った事もある謁見の間ではなく、普段なら皇帝とその側近の者達が使う一室である。
「呂布将軍。お久しゅうございます」
部屋には董卓と賈ク、李儒、さらには護衛の為だろうか呂布の見た事の無い武将もいた。
呂布は深々と頭を下げる。
陳宮も形式的な挨拶をした。
しかし、明らかにいつもより口調が重い。
顔を上げてからも眉間にシワを寄せたままである。董卓の前に座った呂布は改めて董卓を見る。
やはり見た目は変わっていないが、以前会った時に比べると威圧感がある。呂布の印象が薄いせいもあるのだろうが、その時よりも確実に大きく見える。
「まずは、先日の件につきまして陛下からも正式に謝罪の言葉がありますので、ご承知下さいますようお願い致します」
董卓の代わりに、李儒が言う。
董卓からは直接口を開くことなく、李儒は呂布に向かって話し続けた。
先日、呂布は丁原の元を訪れた際に董卓から呼び止められた。
呂布が客将であった頃から、董卓はその武勇を評価してくれて親しくしてくれていたので、呂布は嬉しかったもののその反面恐縮していた。そこで呂布は丁原の客将としての立場ではなく、漢王朝における奉先と言う立場から、漢王朝の重臣たる李儒に面会を求めた。
もちろん李儒の方も、丁原の客将である呂布との会談に応じる事になった。
この時、李儒の呂布に対する対応は非常に冷淡なもので、まるで汚物でも見るかのような目付きで睨まれてしまったのだが、それに対しても陳宮が怒り出すほどだった。
そんな事がありながらも李儒と会う事ができたのだが、そこで李儒が言い出した事に呂布は困惑した。
李儒曰く、漢王朝は曹操の脅威にさらされているとの話だったのだが、どうやらそれは嘘であるらしい。漢王朝に刃を向ける気が無いと言う点に関しては本当のようで李儒も賛同していたが、それを隠れ蓑にして曹操を手玉に取り、さらに他の勢力に対しても影響力を高めようとしていると言うのが李儒の見解だった。
それを聞いた呂布は呆気にとられたのだが、そんな呂布に対して李儒は言う。
あなたも利用されたんですよ、と。曹操からの使者が来ていた事は知っているはずだが、実はその使者の正体こそが董卓だったのだと。
漢王室は宦官の王甫によって専横を極めているだけでなく、その勢力は宮中に留まらず各地にまで及んでいる。しかも王侯の中には外戚の影響力が強くなってきている事もあり、今現在その脅威となっているのが董卓だと言うのだ。
そして、その李儒の考えが正しければ、今頃長安で政変が起こっていてもおかしくないと李儒は続ける。
確かに言われてみるとそう考えれば納得出来る事もあった。
そもそも呂布が客将となり、その後に起こった黄巾の乱をいち早く鎮めた事も計算に入れていたとすれば、董卓のやり口に非情さが見え隠れするのも理解できる。
その話を聞いていた呂布だが、董卓が呂布に目を向けた時には既に話が進んでいた。
李儒に対し、呂布は自らの地位を使って董卓軍に入るように促した。
呂布が丁原の配下であり、呂布個人の武がどれほどのものであっても、董卓軍はあくまでも呂布に対して礼を取る必要があると言う事で、その提案を受け入れてもらえた。ただそれは呂布への待遇が良すぎると言う事も有り、実際には董卓軍が漢王朝を見限っている証拠でもある。
そこまで話し終えた所で、李儒は一息つく為に酒を用意する。
その間、呂布は何も言わずにいたのだが、やがて李儒の用意してくれた酒を注いでもらうと盃を手に取る。董卓はそれを見届けると、ゆっくりと口を開いた。
「呂布将軍。今日こうして集まってもらったのは他でもない。将軍に問いたい事がある」
「はっ」
董卓の威厳ある態度を見て、呂布は自然と身構えてしまう。
呂布に限らず、この場にいる全員が董卓という人を知っているので、その雰囲気の違いに驚いている。この場の空気を作り出しているのは、おそらく目の前に座っている人物なのだ。それ程までに、董卓は普段とは全く違う表情をしていた。
呂布は改めて居住まいをただし、董卓の言葉を待つ。
「将軍、貴殿に問う」
董卓は鋭い眼光で呂布を睨み付ける。
「将軍は今後、何を成さんとするのか?」
董卓の問いかけに、呂布は戸惑う。
まさかこのような形で董卓に呼び出され、こんな事を聞かれるなどとは思いもしなかった。
呂布が黙ったままなので、董卓の眉間のシワが深くなる。
慌てて呂布は答える。
今の漢の皇帝が暗愚であり、宮廷では群雄割拠の状態が続いている事。さらには朝廷内の主導権争いの為に、民が犠牲になっている事などを説明したが、それらは全て李儒から聞いた情報であり、実際に目にして実感したものとは異なっていた。
それらの説明を受けた上で、呂布はさらに言う。
このまま放置すれば国が立ち行かなくなる事を董卓に伝えた後で、呂布自身が望むものを告げる。
呂布個人としては、皇帝が董卓から禅譲を受け、天下万民が平穏無事に暮らす事が望みである。しかし現状、呂布は董卓の臣下なので、まずは董卓の意向に従うと。
来た。董卓の酒好きはよく知られていたものの、それでも李儒や張遼といった重臣ですら驚く程ではなかったのだろう。
呂布が董卓の前に出ると、その呂布にさえ見せつけようとした程の人なのだ。
「呂布将軍。貴殿の話は非常に参考になった」
「あ……ありがとうございます」
董卓の言葉に呂布は礼を言う。
その声にいつもの力強さが無く、呂布自身もそれに気づいてはいたが、今は気にしていられなかった。
董卓は続ける。
「私には、貴殿の様な力も無い。貴殿の様に人を導く才も、貴殿以上に持ち合わせていない。しかし、それでも出来る事はある。私は天下を望むわけではない。ただ漢が栄えて欲しいだけなのです。呂布将軍、どうかお願いします。貴殿が心の底から漢を愛していると言うならば、この私に力をお貸しください」
董卓は再び深々と頭を下げる。
この瞬間より、呂布奉先は漢の重臣となった。
それは決して悪い事では無く、董卓にとっても呂布自身にとっても良い事だと思っていたのだが、李儒はその考えには反対だった。呂布は元々呂布自身が言う通り賊将であったし、それを知る者も董卓軍の中ではそれなりにいる事でもある。
呂布自身が善政を敷こうと思っていても、呂布を良く思わない者がいる限りその逆もまた然りであり、いずれは呂布の存在が邪魔になるとまで李儒は考えていた。
李儒は呂布と二人きりで話し合い、呂布に対して忠告を行う。
李儒は呂布の能力を高く買っていたので、その呂布に危害が及ぶような事態には陥って欲しくないと思っているのだが、董卓の言う様に呂布の存在は今後必要になってくる可能性は高かった。
その事は呂布にも分かってもらい、呂布には身辺警護を強化してもらう事になる。もちろん、呂布を護衛するのは李粛と郭奕であり、その役目を担う事は呂布にとっては光栄であると共に重責であった。李儒も、いざと言う時は自分の命に代えてでも守ろうと誓う。その為にも、呂布にはさらに強くなって貰う必要があった。
「というわけで、これより鍛錬を開始します」
呂布の天幕に呼ばれたと思ったら、李儒によってそう宣言された。
呂布だけではなく陳宮も呼び出されていて、三人は困惑気味である。
ちなみに賈クは不在で、今日は見かけてもいなかった。
もっとも呂布はそんな事はお構い無しに、素振りを三百回する為に木剣を取りに行った。
李儒が言っているのは単純な肉体の強化で、陳宮が求めているのは武力そのものであって鍛える事ではないはずだが、と陳宮が口にすると、陳宮も一緒に鍛えるとの事だった。
それはいいとして、呂布は先ほど董卓の前で誓ったばかりで李儒の言葉に従うわけにもいかないし、董卓に言われてやって来たのだからここで逃げ出す訳にも行かない。
呂布は仕方なく言われた通りにする事にした。
陳宮の表情は明らかに面倒くさそうな顔だったが、その言葉とは裏腹に素直について来た。これは李儒の事を少なからず評価しているのかもしれない。
「それで、俺は何をすれば良いんですか?」
一刻ほど身体を動かした後、呂布は李儒に尋ねる。
李儒は文官だが、その能力は呂布や呂布の妻の親戚の青年と比べても遜色無い。少なくとも並みの武将では歯が立たないくらいの力量を持っているのは、董卓との一騎討ちを見ただけでも明らかだったが、それにしても呂布は李儒を軽く見すぎていたらしい。
呂布と李儒は同じ程度の実力なのだそうだ。
李儒としては自分が上だと自負していたようだが、それが事実なら申し訳ない限りだし、もし呂布の方が強かったとしても、今の呂布であればその事に気付かないだろう。
李儒は呼吸を整えた後、汗を拭きながら呂布の方を見る。
「呂布将軍は今、将軍の中で一番強いのですか? あるいはこの中でと言う意味でも構わないのですが」
李儒に尋ねられ、呂布は腕を組んで考える。
呂布軍の将兵達は呂布に畏敬を抱いていて、また妻の父である馬騰など一部の者達を除けば、誰であっても呂布に戦いを挑もうとはしない。
また、長安にいた頃に比べると圧倒的に戦場に出る回数も減っている。
と言う事は、李儒が挙げた項目は満たしていないと言う結論になる。
それを正直に話すと、李儒は大きくため息をついた。
ただでさえ厳つい顔に険しさが加わっていて迫力を増しているが、どこか悲しげでもあった。
「呂布将軍の言いたい事も分かります。確かに以前の呂布将軍は群雄の中でも突出した武将だったでしょう。しかし今ではその武勇は過去のものとなり、天下無双の称号さえ失った」
呂布は苦笑いしながら黙っている。
天下無双の肩書は別に好きではなかったのだが、董卓や呂布を恨む輩にはそれこそが最大の弱点だと思われるらしく、事あるごとに喧伝される為嫌気が差していたのだ。もちろん李儒もその一人だったが、今は別の事が気になっているらしい。
「その件に関しては後々ゆっくり話しますが、とにかく呂布将軍は強くなり過ぎたんですよ。将軍は人より頭ひとつ抜きん出た能力を持っていますが、同時に将軍はあまりにも強すぎるが故に他人から侮られる傾向にありました。そのせいで呂布将軍は誤解を受け、将軍が真に強い人間だと言う事を理解する者がいなくなってしまったのです」
呂布が何も言わないので、李儒はそのまま続ける。
「呂布将軍の強さにあやかろうとする者や、呂布将軍が弱くなることを期待する者、さらには呂布将軍を討ち取ろうと画策する者もいるはずです。そして、それは全て董卓軍が将軍に対して仕掛けてくる事なのですよ」
李儒の言葉は、呂布の胸に突き刺さる。
李儒の言葉通り、今までにも何度か董卓軍から狙われた事があったからだ。
特に黄巾党討伐の際は董卓自身が出陣し、その後始末まで行っているので董卓軍にしてみれば董卓自身が討ち取りやすい状況にある。董卓自身を狙ってくる事は当然ありえるし、呂布自身に対してもある意味同じ様な事は言える。そう考えれば、李儒の言っている事は的外れとは言えない。実際に今も呂布の身辺警護を厚くするべく、李粛と郭奕の両名が呂布の傍を離れない様に指示が出ている。
呂布がそう言うと、李儒は首を振る。
「違いますよ。呂布将軍が狙われているのではなく、周りが狙ってくるのです。今回の様に、呂布将軍自身が誰かを守るのは容易かもしれません。例えば呂布夫人をお守りするとか、あるいは奥方様のお子さんでもよろしい。それらを守ると言う事は、呂布将軍は護衛の為にそちらを警戒せざるを得なくなります。呂布将軍はその護衛をしながら戦う事ができるでしょうか?」
「…………」
呂布には出来なかった。
と言うよりも、そこまで深く考えたことが無かったと言うべきだろう。李儒に言われるまで呂布は自分で自分の身を守らねばならないとしか思っていなかったが、そうではなく周りの身内を守っている事で結果的に自分が守られている。これはまさに先ほど李儒に指摘された内容で、護衛対象が増える分だけ自分の負担が大きくなる事を改めて認識させられた気分である。
自分の身を守りつつ、護衛対象となる者を守れる程の達人になればいいのかと思いきや、護衛対象者を複数抱えて戦わなければならないとなると話は違って来るらしい。
李儒もそこまで計算している訳ではないと思うが、少なくとも今の呂布は護衛の対象が増えた時に自分が満足できるほど強くなっていないと言う現実を突きつけられたのは確かだった。
呂布は自分の不甲斐なさに呆れてしまう。
こんな状態で、妻達だけでなく子供達も守ろうなどと考えていたのだから、自分勝手極まりないと自分を責めても仕方が無い。
「だから、今からは身体作りを中心に鍛錬を行って行きましょう。まずは基礎体力を身につけ、次に剣の腕を上げ、最後に実戦訓練をやっていきます。今すぐに全てを習得するのは無理ですが、呂布将軍の実力が向上すればそれだけ呂布将軍に敵対してこようとする者が減ると思います」
李儒の狙いはそれだったらしい。
今の状態でも、おそらく並の武将であれば一蹴出来る程の武技を持っているのだが、それでもまだ李儒が認めるところまでは来ていないようだ。
実際、李儒がこの場にいると言う事は、呂布より上の存在がいる事になる。それがどんな相手なのかは分からないにしても、今の呂布はまだまだその人物に届かないと言う事は李儒の態度を見ても明らかだ。
だが、それは決して無駄にはならないだろうと呂布は思う。
李儒の狙いはそこなのだ。呂布は今のままでも並みの武将なら相手にならない強さを持っている。それは間違い無い。だがその呂布に足りないものを自覚させる事によって、今後に備える事が出来るのだ。
それに何より、李儒が言う様に呂布自身の目的の為にもその方が都合が良い事は間違い無いだろう。
「よろしくお願いします」
呂布は李儒に向かって頭を下げる。
こうして、李儒との師弟関係が成立した。
呂布は、李儒が言った通り、毎日早朝から日没までの厳しい稽古をする事になっていく。
最初のうちは妻や子供と離れて暮らす事に難色を示していた呂布だったが、それも慣れて行くと段々と気にならなくなってくる。元々、李儒の私塾にいた頃も呂布は李儒に教えてもらう為に一人で寝起きしていて他の生徒と一緒に生活していなかったので、妻や息子達に構っている暇があるくらいならばもっと鍛えて欲しいというのが呂布の本音でもあった。
もっとも妻達は寂しそうな表情を浮かべる事もあったが、呂布の気持ちは分かるだけに止めてくれとも言えず、また息子の高順は母親に似て楽天的な性格だったので、呂布の不在を気にかける事無くすくすくと育っていった。
李儒は厳しく指導していたが、基本的には理詰めの指導であり感情論で語ったり押し付けたりと言った事はしない。
その為、呂布はすぐに李儒の言う事を聞き入れられる様になり、李儒としてもその成長ぶりに驚かされる事もあった。
しかし、そんな日常の中に小さな異変が起こる。
その変化は、いつもの様に朝の稽古を終えてから朝食をとっている時に起こった。
食事中、李儒が珍しく呂布に尋ねる事があった。
「そう言えば、ご子息の名は何と言いましたっけ?」
李儒の問いに、呂布は思わず箸を止める。普段の呂布は家族以外の者に呂布の素性を隠す様な事も無かったので、李儒にも名前を伝えていたはずだ。
もちろん、呂布としては聞かれれば答えたはずなので、呂布が忘れているのだとしたらそれは李儒の方に問題のある事なのかもしれない。
李儒の方を見ると、李儒は何やら苦笑いしながら誤魔化す様に咳払いをする。「いえ、ほら、あの子ってあまり呂布将軍には似ていませんよね? それでちょっと名前を伺う機会が無くて……いやぁ、失礼しました。そうですか、陳宮の息子が高順と言うのですね。覚えておきますよ」
李儒の言葉に、呂布もようやく合点がいった。呂布の子供は二人いたが、どちらも女の子だった事もあり長男の名を特に伝える事はしなかった。長女の蓉には一応伝えてあったと思うが、末子の名は伝えなかったのは事実である。
ただ、呂布はすっかり次男の名前は陳宮の名前であると思っていたので、つい無意識のうちに長男の名前で呼んでしまったらしい。
別に次男の名を忘れていた訳ではないし、わざと黙っていた訳でもない。
呂布自身も自分の不注意が引き起こしてしまった勘違いとは言え、李儒に対して申し訳ない事をしてしまったと謝る。
「いや、まあ、こちらの不手際でもありまして。呂布将軍のお立場を考えずに勝手に名前をつけてしまい、その……本当にすみませんでした!」
深々と李儒は呂布に向けて頭を下げ、その隣では郭嘉が呆れたように首を振っていたが、これは李儒の照れ隠しでもある事は呂布も分かっている。
確かに不覚と言えば不覚で、その点においては李儒が悪い。
しかし、そう思わせておいて呂布が困るところを面白がっているのも見え透いているのも確かだった。
だが、その程度で許せない程、呂布は狭量ではない。
「いいえ、私も不勉強でした。今度、是非会ってみてください。我が家の自慢の一人息子ですので」
「おお、それはありがたい! 今度の武闘大会は、ぜひ応援に行きましょう」
笑顔になった李儒だが、その目は全く笑っていない。これは間違いなく、この次に訪れた時の口実に使われるだろうと呂布は思う。
実際、その時は思ったよりも早く訪れる事になった。
李儒が約束通り息子の試合を見に来たのである。
しかも、呂布だけではなく李粛や李蒙といった幕僚達を引き連れてやって来たのだ。
これにはさすがに面食らい、そして恐縮したのは言うまでも無い。
実際、呂布自身はそれほど気にならないのだが、呂布の身内として同行している妻の張遼などは明らかに萎縮してしまっている。
「この者はまだ若く未熟者故、大それた事は何も出来ませぬ。ただ、この一戦に賭けてだけは人一倍努力して参りました。どうかその一戦、御見届け下さい。もし万一、李蒙殿に勝ってしまった場合は、ご子息に天下無双の称号を譲りたいと愚考しております」
と言うより、呂布は最初からこうするつもりだったのだから、李蒙は丁重に断りを入れれば良かったものを、と思ったりもしたが、今更言ってみても仕方が無い。
何はともあれ、李儒が来ている以上は下手な試合は出来ないと思いながら呂布は高順と対峙するが、呂布が思っていた以上に李儒達は注目していた。
それと言うのも、呂布の次男がこの試合に参加する事がすでに噂になっていたらしく、その結果如何によって今後の曹操軍の展開が大きく変わると思われていたからである。
そう言われると、呂布も緊張してくる。
呂布の息子と言う事で、当然の事の様に無名の人物だと思われている。
それがまさかの、李粛を一方的に倒したほどの猛将で、さらには名門董卓の一族で軍師を務める程の人物である李儒のお気に入りと来たものだから、その関心の度合いも尋常では無い。
ただ当人は周囲の反応を知ってか知らずか、相変わらずやる気の無い表情をしている。
これが呂布の子なのかと疑問に思われるほどの大物ぶりは、李儒が期待していた事でもあった。高順の強さはすでに評判になっているので、その強さを疑う者はおらず、李儒と李粛を倒したと言う事も知れ渡っている。
それでも呂布の息子と言われても誰も信じていないところは、やはり呂布の子である。
試合開始と同時に高順が仕掛けるが、それに対して李蒙は冷静に対処していく。高順の動きは悪く無いどころか、李蒙にとっては戦いにくい相手である。
元々李蒙は戦場での駆け引きを得意としており、正面から正々堂々と戦う様な武将ではなく、奇策を用いてでも勝つ事を優先する用兵を好む。
その為、呂布とは相性が良く、お互いの力を引き出す事が出来る関係だったと言える。
今回高順を相手にしても互角の勝負に持ち込めているので、それは充分李蒙の実力の高さを示していると言って良いだろう。
しかし、呂布の息子として見ている限り、どうしても李蒙には荷が重い様に思える。
もちろん、李儒が望んでいるのはあくまで李克との一騎討ちであり、他の者がどう動こうとあまり関係ない。だが、それを知る術は呂布にはないので、呂布としても李儒には悪いと思うもののこのままでは息子が敗北するのは間違いない様に思えた。
しかし意外な事に、呂布のそんな心配は無用のものだった。
高順はその李粛を一撃で倒してしまうと言う実績を残しているのだが、それは高順に限った話では無く、おそらく誰であっても同じ結果に終わるのではないかと思わせるものがあった。事実、高遠は李蒙の槍を受け流し、その動きを乱したところで蹴り飛ばす。
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