第12話
体勢を崩した李蒙に追撃をかける事はせず、そのまま高遠は李儒の方を見る。
呂布にはその意味は分からなかったが、李儒は理解した様で小さくうなずいた。
それから間もなく、李蒙は場外負けを宣告される。高遠の勝利だった。
試合後、李蒙が悔しがっている事は分かったが、その理由までは呂布にも分からない。
単純に武人として負けた事が悔やまれるのか、それとも父として認めてもらえなかった事を嘆いているのか。
あるいはその両方かもしれない。
いずれにしても李蒙はまだ若いし、これからも強くなる可能性はあるのだからそこまで気にする事もないだろう、などと呂布が考えていると、李儒がやって来た。
「いやぁ、素晴らしい! 呂布将軍の御子息であらせられるだけあって、実に豪胆で力強い武人ではありませんか!」
李儒は興奮した様子で言うが、どこかしらわざとらしい演技に見えたのは気のせいだろうか。
しかし、息子の評価が上がってくれた事を素直に喜んでおこう。呂布としてはそう思ったのだけれど、李儒は更に続けて言う。
「私もこの年でまだまだ学ぶべき事が多いですな。ところで我が家の自慢の息子を紹介しておきたいのですが、御子息とお話しさせてもらう訳にはいきませんかな?」
さすがに李儒の目は笑ってはいなかった。
李儒が呂布の長男と会いたがっているのは最初からわかっていたのだから、その時に李儒の機嫌を損ねるような事だけは避けなければ、と思っていたのだが、まさか李儒自身が乗り込んでくるとは思いもしなかった。
李儒の目的は呂布の次男に会う為でしかないのだが、その目的を果たした後まで引き止めるわけにはいかない。
「ぜひ。我が子も喜ぶでしょう」
呂布は笑顔で答えると、長男を呼び寄せる。長男はまだ五歳なのだが、この年齢にしてはすでに李儒が一目置くだけの才を持っている。
武芸の腕は言うまでも無く、知略に関しても父親である呂布をも上回る才能を持っていて、将来が非常に楽しみだと呂布は思っていた。その長男はと言うと、やはりまだ幼さが残っていて感情の制御も利かない部分があり、李儒を見て驚いている。
「これは李儒殿。本日も大変にご活躍だったとか」
「いえ、とんでもない。私はただ、呂布将軍の御子息の勇姿を見に来ただけですので」
言葉とは裏腹に、李儒の表情は明らかに呂布の長男に対する嫌悪感を表している。
それに気付かない呂布ではない。
と言うより、呂布の勘の良さであれば李儒の腹の中に渦巻くどす黒い感情が読み取れないはずがない。
それでも、呂布にはそれを咎めるつもりは無かった。と言うより、そんな権利などあるはずの無い立場にあるので、出来るはずもない。
もし、李儒に殺意があるのなら既に殺されているだろう。呂布の眼力は李儒の殺意を見逃さなかった。
そしてそれは同時に、呂布の妻子に危害が及ぶ事も無かったと言う事でもある。李儒はただ純粋に、呂布の長男に会いに来てその実力を確認しようとしているだけであり、実際に手を出す理由が無かったからだ。
もっとも、李儒が呂布の息子に対して良い印象を持っていないのは明らかであり、その目的は達せられているとは言えないが、呂布としてもこれ以上は深入りする勇気も無い。
下手に首を突っ込めば李儒の怒りを買いかねない上に、最悪は呂布の家族全員の命が失われる事になりかねず、李儒がそこまで非情であるとは思えないが、そうなる可能性も捨てきれないところではあった。
結局呂布には見守る事しか出来ない事に変わりはなく、李儒の行動は予測出来ても、李儒の心の底を知る事は出来なかった。
試合を終えた高遠は李蒙と一緒にやって来ると、李蒙が礼をする。高遠はそれに応えるように軽く手を振って答えた。
「いやぁ、お見事でした。呂布将軍の御子息の武勇の程が伺えましたよ。本当に羨ましい限りですなぁ。是非、御子息にはうちの軍の武威を担う将となってもらいたいものですなぁ。もちろん、その時は私が後見人を務めさせていただきますとも。いかがですかな? 高遠将軍もそのつもりで今後とも精進なされるが良いですよ」
「ありがとうございます、李蒙さん。こちらこそよろしくお願いします」
高遠と李蒙で和やかに話しているのを横目に、呂布はこれからどうなるのかと考える。
李克との勝負はまだ着いていないのだが、おそらく李克がこのまま終わるとは思えず、いずれ何らかの形で仕掛けてくるだろうと思っている。
だが、その前に李儒との一件をどう解決すべきか。
呂布にとっては息子は可愛いのだが、李儒に敵意を持たれていてはそれも難しい。せめて穏便に事を済ませてくれれば良いのだが……と呂布は思う。
そんな不安を感じながらも李儒との話は続き、ひとまず今日は帰る事となった。
李儒は終始上機嫌だったのだが、それが演技なのかそうでないのかまでは、呂布には判断する事ができなかった。
李克との戦いも近い中、呂布の元にまた来訪者があった。
先日の来客と違い、今回の訪問に関しては歓迎したかったところだが、その相手の姿を見て、呂布は少し困った顔をした。
訪れたのは、呂布の義理の娘に当たる陳宮だった。
彼女から来る場合は大抵の場合が用件のある時なので、今の状況で来た事にあまり喜べなかった。
ちなみに今回は珍しく一人である。
「李粛様の事を詳しく知りたくて参りました」
そう言うと、陳宮はいきなり切り出した。
呂布の妻の一人が呂布に言ったらしく、あの男に関わるのはやめた方が良い、と言われたらしい。確かに、李儒の人となりを知らなければその言い分も納得できる。
特に李儒は人当たりの良い人物に見えるので余計にそう思われやすいのかもしれない。
「そうは言ってものう」
呂布は困り果てて呟く。
李儒の人を見る目は確かだし、その事を知っている人間であれば、そう簡単に人を判断するような真似はしないはずだ。つまり、そう言われるだけの何かを李儒が行っているという事になるのだが、そんな話は呂布だって知らない。
「では、ご息女は何かご存じでしょうか?」
と聞くものの、長男の方でもまだ五歳だと言う事もあって大して知っているわけでは無いだろうと思う。
と言うより、むしろ長男の方が李儒を嫌っている節がある。それは仕方のない事ではあるが、呂布も息子の事を考えると他人ごとではない。
「まあ、李儒の事じゃ。わしよりも妻達の方を頼るべきではないか?」
と呂布は言うが、そもそも妻の誰が李儒の話を信用するか。それならばまだ李儒の娘である李尋や李安の方が頼りになる気がする。しかし、呂布の言葉を聞いても陳宮は表情を変えずに首を横に振る。
「呂布将軍の奥方の皆様にご迷惑をおかけするわけにはいきません」
それはそうだが、呂布に出来るのは李儒の弁護ぐらいである。それには限界があり、まして相手が悪い。
それでも陳宮を追い返す訳にもいかないので、李儒に関して分かる限り話すしかなかった。
と言っても、李儒本人とはそれほど長い付き合いではなく、それほど深い関係でもない。それに、李儒は基本的に誰に対しても穏やかに接してくれるので、嫌な印象を持つ事は滅多に無い。だから李儒について語る事は難しく、呂布には出来る事が限られていると言う事だけだった。
陳宮としてもそれを察していたようで、「やはり奥方がよろしいでしょうね。無理を申し上げて申し訳ありませんでした」
と、頭を下げて帰って行った。
それから程なくして李儒がやって来た。
その李儒を見て真っ先に反応したのは、高遠だった。
李儒の事は以前から呂布の子供として認知されていたのだが、高遠としてはどこか気に入らない様子であり、それを隠そうともしていなかった。
ただ、この日李儒の顔を見た高遠の態度はそれ以前と違っていた。
一目見て高遠は李儒を恐れていたのだ。
高遠はまだ若いとは言え武勇においては一流の人物であり、その才覚においても李蒙すら凌ぐと言われている人物である。その自分がただ一合打ち合っただけで李儒を恐れた。
高遠にはそれが信じられない。もし、自分より強い人間がいれば父である呂布であると思っていたし、父の力は父の強さであると信じている。
高遠は李儒に詰め寄ると、胸ぐらを掴む。
「あんた何なんだ! 高遠が訊きたい事がある!」
「高遠、落ち着け。李儒殿に対して無礼であろう。何をしたのかは知らぬが詫びろ。そして失礼な言動も謝れ。それが最低限の礼儀だぞ」
高遠は呂布の言う事に耳を貸さない。
元々気性の激しい高遠だが、今日は特に感情的に昂ぶっているように見える。
高遠からすれば、呂布は李儒の父親ではあっても兄貴分では無く、また、年上ではあるものの、師と呼ぶほど偉い人物だとも思っていないので、高遠にとって呂布は父親以外の何かであってはならないと思っている。
だが今に限って言えば、その呂布が言っている事が正しい。
高遠は怒りに任せて李儒を殴りつけた。
だが李儒はその拳を受け止める。
「呂布将軍の御子息か。これはまた粗暴な。呂布将軍に似なくて良かったですねぇ」
李儒は冷たく微笑む。
高遠の手を掴み返し、関節を極めながら言う。
見た目こそ優男風の李儒だが、李儒の武芸の腕は決して低くなく、戦場に出れば並みの武将では敵わないほどの実力の持ち主である。しかもその実力は鍛錬によって培われたものではなく、生まれつき持っていた才能によるものが大きい。つまり天賦の才能に恵まれ、努力などせずに今の地位を得ているので性格の捻くれ具合も尋常ではないと言える。ちなみに本人はそれを自慢する事も無いどころか気付きもしていないが。
もちろん高遠もそれ相応の修羅場は潜り抜けてきているのだろうが、李儒に比べればまだまだ子供だった。
痛みに耐えかねて腕の力を緩めるとそのまま床に投げ飛ばされ、背中を強く打つ。
そんな様子を見て呂布も流石に見ていられずに止めに入る。
「待て、李儒殿にこれ以上手を出せば許さぬ。今すぐに引き下がれ」
呂布の威圧感は天下無双で、並大抵の人物であれば震え上がるところなのだが、李儒は全く動じていない。
それどころではなかったと言う方が正しいかもしれない。
李儒が目を見開いて高遠を見る。
高遠もまた、驚愕して李儒の方へ振り返る。
「……どう言う事でしょう?」
と、尋ねるものの、李儒は答える余裕が無い。
「まさか、本当に?……え、あ、はい。分かりました。呂布将軍にもお伝え下さい。至急、軍を動かす準備を」
そう言って李儒は自分の馬に乗ると走り去る。
突然の事で呂布は何が起きたのかさっぱり分からなかった。
とりあえず高遠を医務室に連れて行き、診てもらうと打撲による軽い内出血と骨折、と言う事だったので湿布薬を渡して治療する。
しかし、あの高遠が怪我をした事はともかく、あんなに取り乱している姿は初めて見た気がすると呂布は思った。
呂布が妻達を集めて話し合いをしていると、張遼が駆け込んでくる。
「将軍、ご報告したい事があります」
そう言った後、少し間を置いてから口を開く。
その様子からも余程の重大な事態だと思われるが、それを妻達が聞きたがっていたとは思えない。特に妻達の方は息子達の件があってから不機嫌になっていたのだ。そこに更に面倒を持ち込まれるとあっては黙ってはいないだろうし、むしろこちらの話を聞いてもらう前に向こうの怒りが爆発しそうな気がする。「まあまあ、文遠。落ち着きなさい。慌てる必要は無い。まずはゆっくり息を整えてから話せ」
呂布は笑顔で告げるが、正直あまり頼りになりそうな雰囲気は醸し出せていなかった。
高遠もそうだが、最近の若人は血の気が多すぎる。もっとも、呂布自身もまだ十分に若いのだが。
呂布の言葉もあって、しばらく呼吸を整える為の時間が必要だった。それでも多少は落ち着いたようで、改めて呂布に伝える。
その内容は高遠が言おうとしていた事とさほど変わりはなかった。
李儒軍が動いた事。そして、その狙いが自分達の城である事が伝えられた。
高遠はあれでも呂布の事を父上と呼び、敬っているつもりなのかもしれない。それはそうと呂布軍は、高遠が李儒と戦って負傷したせいか、城内に不穏な空気が流れているのを感じる事は出来るのは呂布だけでは無かったらしい。
呂布の妻達は、今にも飛び出していきかねないほどに怒りを露わにしているのだが、やはり李儒に対して有効な対策を打つ事が出来ない。
陳宮にしてもその点に関しては同じであり、今や李儒に対抗する事が出来る人間は王允くらいのものだろうとさえ思われていた。
そんな中で呂布に李儒からの使者がやって来る。
李儒としては、このタイミングで使者を送り込むのが一番効果的だと考えたらしく、早速やって来たのである。
この行動の速さは、おそらく李粛が手を打ったものだろうが、もしこれが李儒本人の独断によるものなら相当切れ者と言う事になる。
そして、李儒の狙いは呂布ではなく、呂布の妻達に会った時にあるようだった。
使者として現れたのは、文官の服を着ているにも関わらず武官である事がはっきりと分かる長身の男で、見た目には若い。二十代後半に見える。
この男は袁術軍の将として呂布軍とは敵対関係にあった。
本来であれば呂布と袁術の関係から考えると呂布側につくべき立場なのだろうが、彼は袁紹に味方する事を選んでいる。
その理由については、彼自身は語りたくないようだが、彼の部下は呂布軍にいた李粛について詳しく知っている事から推察される。つまり呂布に勝てないと言うよりも、戦う前から負ける事を選んだと言う事であろう。
李儒にしてみればその程度の男、と思っていてもおかしくはない。
その男が呂布の前に出ると片膝をつく。
「私は曹操軍の武将の一人、夏侯惇と言います。我が主より書状をお預かりしております」
李儒の軍と言えば名うての武将が集まっているので、その中では格下と言う扱いなのかもしれない。
だが、夏侯惇は武人としての能力の高さはもちろん、人としても誠実な性格で兵からの信望も厚い。
また、武勇のみならず戦略家としても優秀で、魏武の二つ名は彼にふさわしいものであると呂布も思っていた。
しかし、そんな男も李儒に逆らえないでいたのか、と言うのは考えすぎで、もしかすると呂布軍に降った時から逆らえなかったのかも知れない。
そんな事情はさておき、李儒からの手紙を読み進めると、李儒自身が軍を率いて呂布に仕掛けてくるのではなく、あくまで呂布が李儒と戦う意思を見せるようにと言う内容だった。
その上で、李儒が動くまでに呂布が李儒を攻める為に軍を興すのは構わないが、その際に呂布が単独で攻めるのは危険だと言う忠告も書かれていた。
手紙の内容を読んでもさっぱり分からないが、李儒の言い方から察するに攻めると言わなければ戦わないと言う事ではなさそうだった。
しかし、だからと言って素直に李儒と戦いに行くと言う訳にもいかないし、どうすれば良いのか。
とりあえずは李儒の動きを待って、それからの方が良いのだろうかと呂布が悩んでいると、意外な人物が名乗りを上げた。
「その役目、私に任せてもらえませんか?」
その人物とは華雄であった。
呂布軍の中でも勇猛果敢、その腕力だけで戦場を生き抜いてきたような武将なのだが、今回の件においてはどうも様子がおかしい。
普段であれば真っ先に李儒との戦に名乗りを上げるところなのだが、今日に限ってはその勢いを感じられない。
「いや、俺の方こそ是非、その任を……」
そう言ったのは張遼である。
張遼の実力を呂布は疑っていないが、何となく嫌な予感がする。張遼の事を考えると高遠と仲が良いからというだけでなく、どうにも不吉な予感がしてならない。それにしても、あの二人から立候補してくるなど一体どんな風の吹き回しなのかと不思議で仕方がない。
張遼はまだしも、高遠は先程まで怪我で医務室に寝ていたのだ。いくらなんでも回復が早すぎる。
しかも張遼は李粛の事で李儒に恨みを抱いていると言う事もあるが、高遠の場合はもっと単純だ。高遠にとって一番嫌いなのは、呂布の息子でありながら父の愛を得られていない高覧だ。それ故に、自分と同じ状況に陥れようとしているのだ。
もちろん呂布には、高遠の考えはお見通しだ。
それでも呂布は李儒との対決を避ける事が出来ればと思っていたのだが、こればかりは簡単に避けられるものでもないらしい。
「文長、頼む」
結局呂布が選んだのは、この場にいなかった者を指名した事だった。
ただでさえ不安だらけの状況に新たな要素を加える事に対して、呂布自身には自信がなかったからだ。
こうして呂布軍の中からも争いが起きる事となったのだが、それはどちらかと言うとお通夜のような雰囲気であり呂布自身も何か悪い事をしたのではないかと思ってしまうほどだったのだが、意外にもそれは一時的なものだったらしく数日後には落ち着きを取り戻した。相変わらず高遠と高則の兄弟のわだかまりは残っているのだが、それもすぐには解けないまでも解決しなければならないと言う問題ではない。
呂布は、高順達を呼んで軍議を開く。
集まった面々を見て呂布は驚く。
まず李粛、彼は呂布軍の中で最精鋭の部類に入る武将であり、彼が抜けただけでもかなりの戦力ダウンになる。それは分かるのだが、それ以上に予想外だったのが王允がやって来た事である。李儒の事もそうだが、王允の事は陳宮が警戒していたはずだが、王允自身は陳宮の事を煙たがっている節がある。
王允が来てくれたのは嬉しい誤算だったが、王允がわざわざやって来たからと言って、王允の望む方向へ話が進むとは限らない。陳宮も李儒には対抗出来るかもしれないと言っていたものの、王允相手となると分が悪いのではと呂布は心配になっていた。
だが、李儒との戦いを避けつつ李儒を迎え撃つ、と言う事は可能ではないかと呂布は思う。
李儒と王允の戦いになったとしても、おそらく勝つのは李儒であろうが呂布達が参戦すれば勝利はどちらに転ぶか分からない。だが、もしこの策を採用するとすれば、いかに早く戦いを起こすかが重要になってくる。ただ待っていては、いつになっても始まらない。
呂布が悩んでいると、意外な事に張飛が名乗りを上げた。
彼はもともと袁紹軍の将であり、袁紹軍の武将として戦っていたのも袁紹の為ではなく呂布軍と戦う為に、と言うほどに呂布軍を恨んでいたはずだった。しかし今、呂布軍の陣営に来ていると言うのも不思議なもので、張飛は袁術の元へ行くのではなく呂布の所へ来たと言う。
そして袁術の元へ行こうとしていると言うのは、やはり高遠と高紀の事が気にかかっていた為だったようだ。
しかし、何故呂布の元にやって来る気になったのかまでは、呂布であっても推測出来ないでいた。そもそも、そんな余裕はなかった。李粛は高遠の裏切りによって重傷を負いながらも命は取り留めていたが、呂布軍とは戦う余力も残っていなかった事もあり曹操に降伏している。
一方の高遠達は高覧が呂布軍に寝返ったと言う情報を聞いてから、曹操に投降してしまったと言う。
呂布軍は張遼を失ったとはいえ、まだ健在である。その点でも呂布は張飛に申し訳なく思っていたが、呂布軍が健在である以上、呂布が呂布軍を相手にするのは筋違いだと張飛は言った。
しかし、高遠はともかく高遠の兄の高遠も共に帰順する事になったと言うのも不思議だった。
呂布としては高遠と戦う理由がない。また、たとえ高遠と戦うにしても高遠に付き従う兵はそう多くないだろう。
そうなると問題は高遠の実兄、高遠だけである。
高遠が降伏したとなれば、当然ながら弟の高遠を逃がすために兵を割かなければならない。
それが高遠にとっての計算の内なのかは分からないが、とにかくそう言った経緯があって、ついに李儒軍に対しての反撃が開始される事になる。呂布は迎撃の為に軍を率いて東進するが、ここで大きな問題が発生した。本来であれば先鋒を勤めるはずの張遼が負傷してしまったため、張遼の代わりに誰が先頭に立つべきかという問題である。
もちろん、その役目は呂布軍で最も武勇を誇る張遼であるべきなのだが、その張遼が負傷兵の代表となって呂布の前に進み出たのだ。
「我が主よ、私は張遼ではありません」
張遼は言った。
その言葉を聞いた時、呂布は自分の目が信じられなかった。
あの張遼がこんな事を言うなんて、とてもではないが想像出来なかった。呂布は慌てて高順や張遼と一緒に張遼と戦った華雄にも確認を取ったが、高順も張遼がこんな事を言い出すなど考えられないと首を横に振っている。
張遼の代わりの総大将を決める際、張遼自身が真っ先に自分を指名したらしい。
呂布自身にもそのつもりはなく、高順に任せようとしていたのに張遼が勝手に決めたと言うのだ。
しかも、それだけではなかった。
「私にはどうしてもやらねばならない事があるのです」
そう言って張遼は自分が李儒との戦いに参加する事を宣言して、他の誰よりも早く呂布の前から離れていった。
「兄上!」
李儒の陣へと駆け寄って行くのは、高遠であった。
「高遠、何をしに来た?」
「何、と言いますと?」
李儒の言葉に、高遠はすぐに答えた。
李儒の質問に対して間を置かずに答えると言う事は、何かしら思惑がある証拠でもあるのだが、それを問い質そうともせずに李儒はその先を促す。
「父上は、いや、呂布将軍は本気で我々と戦ってくるおつもりではないようです」
高遠は李儒を見上げながら言う。
高遠と高遠は高遠の方が背が高いのだが、それでも見上げるくらいに李儒は長身な上に身体つきも大きい。それに加えて高遠は李粛に襲われている時に受けた傷も完治していないらしく、全体的に線の細い印象を与える高遠に比べるといかにも弱々しい感じがしてしまう。
もっとも、高遠の年齢を考えればこれからいくらでも鍛える事は出来るので、まだまだ伸びしろはあると言える。
それに、呂布の息子だと言われなければ高遠も高遠の弟も李儒は区別がつかないほどに似ているので、兄弟だからといって強さの差があるとは限らない。
とは言え、高遠はそれなりに李儒の強さを理解していたようで、最初から勝ち目はないと思っている。
ならば何故、降伏して曹操の下に身を寄せなかったのかと言えば、理由はいくつかある。一つは呂布軍に捕らえられてしまえば、そのまま処刑されてしまう恐れがある事。もう一つは他の袁紹軍の武将達が、呂布軍と戦う前に曹操に降伏した事である。
つまり高遠には他に道がなかったとも言える。
だが、そんな事は呂布軍の誰にも分からない。
呂布軍は張遼が怪我をした事で急遽、呂布が自ら出陣する事になり、さらに陳宮は留守居役として残る事となった。その為、呂布軍には十分な兵力がなく高遠を迎え撃つ余裕が無かったと言う事もある。
張飛が志願してくれているが、彼一人でどれだけ戦力になるかは未知数である。
だが、高遠の方はそんな心配は無用だと言わんばかりに、高遠を出迎えた李儒に向かって堂々と言い放った。
「我ら兄弟の願いを聞き届けると言うなら、この場にて手向かいはいたしません。どうか呂布軍と戦う事を取り下げてください」
高遠の言っている意味が分からず、呂布も高順も張飛も首を傾げていたが、ただ一人陳宮だけが高遠の本心を読み取ったのか苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
おそらく高遠は、呂布の目を覚まさせるためにこのような行動に出たのだろう。確かにこのままでは、高遠の申し出を受け入れざるを得ない状況になっていくかもしれない。
しかし、それで呂布の気が済むかどうかは別問題である。むしろ逆効果であり、もしこの場で高遠達の命を奪わなくても、呂布の怒りを買ってしまった時点でその命運は決まったようなものである。
いかに呂布軍の中で最強の武を誇る武将であっても、相手は呂布軍の中でも最強を誇る名将の李儒である。
たとえ呂布であっても一対一で戦って勝てる保証はなく、それが高遠の読みだった。
その高遠の目論みは見事に当たっている。
そして、その高遠の予想通りに事が進むはずだった。
高遠が李儒の前に出て来たのと同時に、高覧と張遼が姿を現した。
高遠がここに居る以上、張遼が呂布軍にいないと言うのであれば、当然そこに張遼がいると言う事でもある。
張遼の姿を見て、呂布の顔色が明らかに変わる。
戦場にあってなお、呂布の纏う雰囲気が一変した事がその場にいた者達にも伝わったらしく、誰もが言葉を失っていた。
張遼が呂布の前に現れたのは、あくまでも呂布に対しての伝言を伝えるためであった。
本来であれば、呂布と話をしてから高遠を説得するつもりであったのだが、高遠が現れたと言う報告を受けて張遼自らやって来たと言うのが実情である。
張遼の言葉を聞いて、呂布が納得するはずもない。
が、ここで戦いが始まってしまう事も避けなければならないと思い、張遼は呂布の前に膝をついて言う。
「私は主のために戦うのみ。私の身は好きにしてください。ですが、我が弟高遠はお見逃し下さい」
張遼の言葉は呂布の耳に入っていた。
高遠の言葉を聞いた時も驚いたが、それ以上に呂布は驚き戸惑っていた。
高遠や高遠の弟を殺す事についてではない。そもそも高遠と高遠の兄弟に思い入れなど無かったのだが、それでも二人にはまだ未来があると思っていた。将来、その実力に見合った活躍の場が用意されてしかるべき才能を持った若者なのだから、ここで無駄死にさせる事は惜しいと考えていたのだ。
が、まさか自分を守る為に張遼が死を選ぶとは思ってもいなかった。
呂布は高遠を見る。
兄に似て線の細い体格ではあるが、顔立ちはどちらかと言えば母に似たのか整った容姿の持ち主であると言える。
まだ少年の域を出ておらず、とてもではないが高遠と張遼、あるいは李儒と比べて強いとはとても言えない。だが、李儒や李粛のような小物とは違うと言う事は、今の態度だけで分かる。
「……何故だ?」
しばらく沈黙した後に、呂布はようやく言葉を絞り出す。
「俺には、そこまでしてもらう理由が無い」
「あります」
呂布に対して即答したのは、高遠ではなく張遼であった。
「呂布将軍。貴公が天下の名族として君臨すべき人だと、兄は考えています」
「それは高順が勝手に言っているだけだ」
「そうかもしれませんが、私にとって呂布将軍は偉大なる父です。貴方がどのような人物であろうと、呂布将軍の息子である事は変わりません」
「呂布将軍」
張遼の言葉を遮ったのは、高遠だった。
「今さら何を言われても、父上を説得する事は出来ませんよ」
「お前は……」
李儒に向かって言う高遠を見て、呂布は眉をひそめる。
どう見ても高遠の身体は李儒を恐れているようには見えない。恐れていると言うよりは、怯えてはいてもそれを押し殺している。李儒を相手に、これほどまでに肝の据わっている人間がいたのか、と呂布は驚くしかなかった。
おそらくは、張遼の影響が大きいと思われる。張遼が呂布の右腕なら、高遠は左腕であり、この兄弟はお互いの存在で成り立っているのだろう。
張遼の死は、呂布にとっても痛手である。張遼がどれほど自分の事を考えてくれていたのかを考えると、高遠の気持ちを理解する事が出来た。
高遠には申し訳ないが、この場を収めるには高遠の命を奪うしかないかと、呂布は覚悟を決める。
しかし、その覚悟を行動に移す前に高遠が言った。
「もし私が呂布将軍の目に留まったとしたら、この先どのように生きれば良いでしょうか? 呂布軍の武将達の様に武勇に優れているわけでもなければ、高順のように武に愛されていると言うのでもない。高順と違って学問を修める事も出来ない。私はただ武人として生きていきたいだけなのです」
呂布はその答えを出せない。
呂布自身、武将でありながら戦場以外での生き方を知らない。その為、武人の鑑とも言われるほどの男であるにも関わらず、他の選択肢を提示できなかった。
まして呂布の息子は他にもいて、その息子達もいずれ同じ運命を辿るであろう事は目に見えており、その中で呂布は自分が息子達に何を与えられるのか分からない。
高虎は優れた将器を持っている。おそらく将来、劉備と共に活躍するような傑物に成長するだろう。
高覧もまた将才を持つ武人である。この兄弟を見れば、自分ももう少し若い頃はこうなっていたのだろうか、と思ってしまう。
そして高遠は、武人としての実力では張遼はおろか李儒にも遠く及ばないだろう。張遼の弟であり、張飛の兄であるにもかかわらず、高遠はそれほど武の素養に恵まれていない。
そんな弟に、果たして自分はどんな未来を用意してやれるのだろうか。
高遠の命は救う事が出来るかもしれないが、それで終わりではない。高遠の未来を切り開く為には、何か大きな力が必要になるだろう。それも、高遠自身の手で掴み取る様な力が。
それを高遠に与えられる自信が、呂布には無かった。
だから、高遠の提案を受け入れようと思った。
張遼の言葉を聞き入れ、高遠の命は助けると決めた。ただし、このまま解放すれば高遠は自分の命を絶つ恐れがある。そこで高遠には人質になってもらう事とし、高遠の監視役には高遠の実兄である高遠を当てる。
高遠は兄の高遠を人質にして逃げ出すと言う事はせず、その言葉に従った。その事で高遠に対する疑念が無くなったわけではなかったが、高遠の言う事に一理ある事は確かだった。
それに呂布としても、張遼を失った心の傷を癒してくれる相手がいるのはありがたい話である。呂布は高遠を連れて城内に戻る。
「兄上、良かったんですかい?」
高遠の肩を叩きながら高順が尋ねる。
「高遠兄さんだって、死にたくはないはずだしね。僕が死ぬよりは生き残るべきさ」
「いや、そうじゃなくて……張遼が死んだ事とか、張遼が残してくれた言葉の事とかさ」
高遠が李儒と戦う決意を固めて高遠の前に出た瞬間、張遼は高遠と入れ替わるようにして姿を消していた。
その時に張遼は、呂布に対し、呂布と高遠の身を守る様に言い含めてから姿を消したのだ。
もちろん張遼とて死にたかったわけではないのだが、そうする事でしか呂布や高遠を助ける手段が思いつかなかったのである。
「張遼はきっと分かっていたんだろう。僕の弱さを。だから、自分の代わりになれる高遠に賭けたのだと思う」
高遠にとって張遼とは血を分けた実の兄弟と言う事もあり、誰よりも身近にいる存在であり、同時に一番の壁でもあった。
高遠には武芸の心得こそあるものの、それ以外に誇るべきものが無い事を自覚していた為、兄と比べて劣る自分の非力を嘆いていたのだ。
その差を埋める事は難しくとも、埋めようと努力し続ける限り成長出来る。それが張遼の考えであり、兄として弟の手本となるようにと心掛けてきたのである。
兄には及ばず、父には似ずと言われ続けてきたが、張遼にとっては唯一の兄であった。高遠にとっての曹操の様に、唯一無二の存在なのである。
だが、兄を失っても弟を守れなければ、兄は自分に失望するに違いない。兄に軽蔑される事だけは避けなければならないと、高遠は自ら死地へと飛び込んだのだった。
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