第9話
これまで曹操は一度も発言せず、袁紹の策に乗るような動きも見せていない。ただそこに座っているだけだった曹操が初めて袁紹の行動に反応した。
それまで黙っていた曹操にしてみれば、ようやく袁紹の策略に対抗出来る機会が訪れたのであり、曹操は袁紹の前に進み出る。
「失礼。私の娘婿でもある呂布将軍を貶めようとする袁紹殿の真意を伺いたく存じます」
そう切り出す曹操はいつもより迫力があった。
元々曹操は整った顔立ちであり、男色家であると言う噂もあって、その鋭い目付きと相まって冷たい印象を受ける事もある。が、普段はどこか軽薄さが感じられ、言葉使いなども軽い印象を受けるところがあったのだが、この時は別人の様に威厳と覇気を放っている様に見えた。これにはさすがの袁術や袁紹、華雄などであっても思わず息を呑んでしまう程の緊張感が走る。
が、その中で平然としていた者がいた。
董卓の腹心で宦官の董承。彼は袁紹に対してこう告げる。
「恐れながら申し上げます。私見ですと、呂布将軍の才覚に惚れ込みながらも、その地位を奪う為に追い落とす事を考えての事ではないかと思われます。その為には袁術殿の力添えも不可欠と考え、このような無謀とも言える策に出たのでしょう。
いかに袁術殿でも袁紹にそのような大言壮語を許す訳がなく、袁紹殿は自らの過ちに気付かぬほど痴れ者ではありません。ここは一つ、我等に任せていただきたく存じまする。呂布将軍の名誉と誇りを守る為にも、決して不様な事はさせませぬ」
普段袁紹と董卓の間に立っていたはずのこの人物が、董卓に異を唱えている。それだけで事態が大きく動いている事が分かる。
「その必要はない」
が、そんな空気を読まない人物がいた。
言うまでもなく董卓で、董卓は面倒くさそうに手を振ってみせる。
「余に意見するか、董大丞」
董卓がそう言って指先を向けただけで、董承の額から汗が流れ落ちる。
それでも、なおも口を開く。
「呂布将軍が董卓に重用されているとは言え、董卓もまた董卓の臣下。また呂布は袁紹、孫堅と縁戚関係を結ぶなど、他の勢力との繋がりが強くあります。袁紹を調略する為に呂布の名声を利用しようとして失敗している事から考えましても、今回の話は袁紹の本心ではないかと」
そう言う董卓に対し、董卓の傍にいた李儒が口を挟む。
「確かに呂布君を徐州攻めで打ち破った際の働きは見事でした。が、その働きに対する恩賞があまりにも大きすぎたので呂布君の求心力は衰えてしまい、呂布君は袁家を頼りました。それが今度の一件を招いた原因と言えましょう。袁紹は董卓への恨みを晴らすべく呂布を利用していたはずなので、ここで呂布を排除しようと動くのは自然な流れではあると思いますよ。
そもそも袁紹が呂布君を追い落とそうとした理由は、何だか分かりますか? この呂布奉先が董卓軍に与しながら反董卓連合と手を結び、董卓軍と敵対しようとしていた為です。もし呂布君がいなければ、董卓軍は袁家と縁を持ちつつも中立を保てていたのです。袁紹は呂布という存在を脅威と感じたのですよ。そして呂布を排除出来れば、その次は曹操。そして呂布を打倒すれば袁紹は漢全土を手に入れる事が出来、それをもって天下の平定とする事が出来ると踏んだのではないでしょうか。であればこそ、今回呂布と陳宮公台を同時に追い落とし、曹操と呂布の縁を完全に断とうとしていると考えるべきです。この場において最も袁紹に近いのは、間違いなく貴方なのですよ、董承」
「な……!」
李儒に言い返そうとする董承だったが、声が出なかった。
これまで何度も論破されてきた相手ではあるが、李儒の言葉には説得力があり、反論出来ないだけの重みがある。
だが、袁紹はそんな事を言いに来た訳ではない。袁紹はただ一言だけを告げる。
「袁紹は貴様如きがどうこうして良い人間ではないぞ、袁成。その命が惜しければ黙しておれ。貴様は所詮宦官なのだからな。分かったか?」
これまで聞いた事のない董卓の言葉だったが、董承はそれ以上何も言わず、そのまま下がる。
董卓が袁術の方を見ると、袁術はすでに戦える状態ではなくなっていた。
その横にいる袁紹や華雄は袁術に倣う事無く落ち着き払っているものの、それはそれで問題だったりする。
このまま呂布と陳宮の二人を処分する事になれば、おそらく二人は抵抗するだろう。その場合、呂布はともかく陳宮の方は厄介である。
かつて張温の下で軍師として働いていた頃からその才覚を見出されていたが、その後紆余曲折あって董卓の元に来て、そこで頭角を現してきたのだ。
董卓としては陳宮と言う人材を失う訳にはいかないのだが、今の状況下ではそれも厳しい状況と言える。
董卓は李儒と郭嘉の意見を聞きたかった。が、李儒も荀攸もそれぞれ袁術や袁紹に呼ばれていて不在であり、残っている者達にしても今は董承によって抑えられてしまっている。
となれば董承に頼むしか無いのであるが、あの董承を抑えるには並大抵の人望ではなく実力が必要なはずだった。
しかしここに、それを実現出来る人物がいる。
そう思って視線を向けると、曹操もこちらを向いていた。
「我が名将達も呂布将軍の妻女にはさすがに同情的でございます。特に曹洪などは自らの手で首を落としてやりたいとまで申しております」
董承を抑えながら、曹操は董卓に向けてそう告げる。さすがに董承もその行動は想定外らしく、目を丸くしていた。
が、曹操はさらに続ける。
「袁家、ひいては袁紹の暴挙は、袁家の威光を借りただけの董卓将軍の暴走でしかありません。呂布将軍に罪はないはずです。それに今回の話はあくまで呂布将軍の娘の話であって、呂布将軍の息子袁煕には関係が無い事であります。袁紹と呂布将軍とで話し合って決めるべきでは無いでしょうか」
曹操の口調も態度も穏やかで落ち着いているものだったが、明らかに董卓を恐れていないどころか軽蔑している事が分かる。
いや、恐れてもいないし尊敬してもいないのだから、当たり前と言えばそれまでかもしれない。
袁紹も董卓に対して思うところはあるはずだが、それでもまだ余裕を持っている。
袁術はその比ではなかった。董卓と目が合うと、袁術は真っ青になって固まってしまう。
元々袁紹とは格が違う。
董卓軍の実質的な盟主と言っても良いくらいの実力者であったが、それは決して董卓個人の才覚に頼ったものではなく、袁家という大貴族としての財力に寄る部分が大きい。
それが袁紹の鼻につき、袁紹が董卓を嫌い続けている原因でもあるのだが、袁紹からすればそんな董卓を討って自らが漢王朝を支える人物になる事こそ正しいと考えている。
袁紹も董卓も名門の血筋ではあるものの、どちらも大した実績を上げているとは言えない上に、それぞれの一族も必ずしも優れた者を輩出しているわけではない。
袁紹が自分こそが真の漢の名臣だと考えているのも当然ではある。
そして今、その漢の将軍の中でも屈指の豪傑と、漢随一の大貴族の間で対立が起きようとしている。
本来であればその争いの渦中に自ら飛び込む事は避けるべきであろうが、その渦中から董卓を守る事が出来る人物はこの場で一人しかいない。
「お待ち下さい!」
李儒は呂布の方に歩み寄り、叫ぶ。
「この場は一旦引いてはいただけませんか。これは我々だけではどうにもならない、大きな戦いになってしまう予感がします。その時に改めて、呂布将軍のお知恵をお借りしたく存じます。その時までに呂布将軍と呂布軍を鍛え上げ、必ず董卓を討ち果たします。そして呂布将軍と董卓の和解を、この李儒が取り持ちましょう。ですからどうか、この場は引き下がってはいただけないでしょうか。お願いいたしまする!」
李儒の言葉を聞いて呂布は少し考えてみる。
呂布の知る限り、袁紹は強かだ。曹操もまた袁紹よりは弱腰ではあるが、袁紹よりもずっと冷静かつ理知的に動いている。
この二人のどちらかを味方に付けるだけでも呂布軍にとってかなりの強みとなり、呂布自身の名声を上げる事に繋がっていくのは間違い無い。
だが、ここで呂布が袁紹の側についてしまうと、曹操と敵対する事になる。それはあまりにも無謀過ぎる展開だ。
それを避ける為に呂布は陳宮を助けに来たのであり、曹操を打倒して天下を手に入れようとは考えていなかった。
また、袁紹に陳宮を渡す事も論外だった。
袁紹は袁家の力を頼みにし過ぎて袁術と争う事になってしまい、それによって漢全土を巻き込んだ内乱を引き起こしてしまっている。
天下を取る事の難しさを知る曹操ならばともかく、袁紹がこれ以上の乱世を望むはずもない。
天下は乱世の王者である董卓の手によって平定されるべきだと、呂布は考えていた。
呂布の考えとしては曹操は呂布陣営に入るか袁術につくかしかない。
袁術についた場合、おそらく袁紹と戦う羽目になるだろう。
呂布も呂布で曹操と同じく、袁紹と手を組むのだけは避けるべきだと思っている。
曹操が袁紹を見限っていると言う事実を知っている以上、袁紹に曹操を討つ理由を与えてやるつもりはない。
そう言う意味で、呂布には曹操を切り捨てる覚悟があった。
が、そうなると今度は袁紹と敵対する立場になり、結局袁紹軍を相手に戦うしかなくなる。もし曹操の申し出を受けたとしても、董卓に頭を下げなければならなくなりそうだし、何より袁紹軍と敵対している間は袁家による監視も厳しくなるかもしれない。
曹操の提案を受け入れず、董卓に付くべきだろうか? それも一つの選択肢ではある。しかし董卓と袁紹が手を組めば、いかに呂布と言えども単独で対抗する事は難しいはずだ。李儒も言った通り、今回の件に袁家は全く関係ない話なのだし、ここはいったん退くべきではないのかと考えてしまう。
しかし、董卓軍に撤退の二文字は無かった。
呂布や陳宮の命を狙う為だけに兵を動かして来たのだから、それを果たさないうちに戻る訳にはいかないのだから。
董承もそれを分かっているからこそ、李儒に詰め寄って退かせようとする。
が、曹操がそれを押しとどめる。
「今、曹操殿は何と?」
袁紹が不思議そうに尋ねる。
「呂布将軍がこの呂布隊と共に董卓軍の本隊を引きつけて時間を稼ぎますので、その間に曹操軍は呂布将軍の妻子を保護して欲しい、との事です」
董承が曹操の意図を説明しようとした時、袁紹の顔色が変わる。
「曹操! 何を血迷った事を!」
「落ち着いて下さい、袁紹様」
董承が曹操に向けて怒鳴るが、曹操はまったく動じる様子も無く董承を抑え込む。
「曹操、貴公には何か秘策があるようだな」
董卓は曹操に向かって微笑む。
曹操も笑顔で答え、一歩前に出る。「呂布将、呂布軍の精鋭部隊で敵主力を引きつけつつ時間を稼ぐ。その後、別働隊が呂布将軍の妻と子供達を保護する」
「ふふん、なかなか良い策ではないか」
李儒が補足すると、呂布はその提案に乗ってきた。
それを聞いた袁紹はさすがに怒りを隠せず、声を荒げる。
「待て、呂布よ。なぜ曹操の言葉に従う必要がある。呂布将軍の妻や子供を人質に取ったところで董卓が従うと思うか。そんな事はお前だって分かっていよう。それにその行動の結果、誰が最も傷つくかも分からぬとは言わせんぞ。私はそんな馬鹿げた事の為に兵を動かせと言っている訳ではないのだ。いい加減にその様な幼稚な考え方を改めんか!」
その袁紹の剣幕に、誰もが驚き目を丸くする。
これまでずっと、それこそ十代の頃から付き合いのある袁紹がこんなにも感情的になっているところを見た事が無かったからだ。
袁紹は名族意識が強く、自分以外の者は全て見下すような人物だと呂布も思っていたのだが、今こうして目にした姿を見るとただ単に傲慢不遜だっただけなのかと思い直してしまう。
「これはしたり。袁紹殿は私の力では妻達を守る事が出来ないと思われているようでございますね。これは心外です。その言葉、そっくりそのままお返し致します。私よりも強いと言われる袁紹殿が、まさか自分の身すら守れないなんて……これはこれは失礼いたしました。袁紹殿も人の子、この程度の逆境で恐れ戦く弱き者であったとは思いませんでしたので、つい」
曹操は平然とした態度で言い放つと、わざとらしく膝を折って謝罪する。
袁紹に対する侮辱的な物言いだったが、曹操の落ち着き払った態度が袁紹の怒りに油を注ぐ。
元々気の長い方ではない袁紹は顔色が真っ赤に染まり、拳を強く握りしめている。
だが、曹操の言葉には確かに一理あった。袁紹は強かだが、それでも董卓の大軍相手に戦うなど無謀極まりないのは誰の目から見ても明らかだ。
曹操が言う様に呂布が妻の保護を請け負ってくれれば、少なくとも董卓は呂布の妻子を殺す事は出来なくなる。そして、そうなると袁紹は呂布と敵対関係になりながらも呂布の力を借りる事が出来、結果的に曹操に出し抜かれる形になってしまう。曹操の狙いはそれだ。
曹操は初めから呂布を利用するつもりだった。
袁紹に董卓を討つと言う大義を与える事で呂布との和睦を進めようとしていたが、董卓が予想外に強攻策に出て来た為に慌てているはずなのだ。
だからこそ呂布が袁紹軍と共闘する事を拒否してくれる事を期待していたはずなのだが、呂布は意外な事にそれを受け入れた。曹操の言うように董卓軍の目を逃れ、妻と子を保護しながら時間稼ぎをする為でもあるだろうが、おそらく呂布は袁紹軍に付くと言う選択が出来ないで居る。
曹操軍に協力すれば呂布に勝機は無く、呂布軍が敗れてしまう事も呂布自身が分かっているはずなのだ。ならば呂布は曹操軍と共闘し、呂布軍を壊滅に追いやった後、あらためて董卓と対決するしかない。その為には呂布の妻子の安全確保が必要不可欠であり、その役目を他の誰かに任せる訳にはいかない。もしそれが可能な人物が他に居たとしても、袁紹軍にそれを任せられるとは思えない。
呂布も曹操もそれを理解していたからこそ、袁紹の提案を拒否した。
「分かった。呂布将軍の事はそちらで何とかして頂こう。呂布将軍、あなたが曹操と手を組む以上、我々もあなたの軍と共に戦う事になるがよろしいかな?」
董卓軍に対して激高しそうな袁紹であったが、そこは名門の名族の誇りとして感情を抑え込んで冷静に尋ねる。
董卓軍と呂布軍は正面切って戦う事になる為、董卓軍と袁紹軍では数の差があり過ぎる。いかに呂布が勇猛でも、圧倒的な兵力差を覆すには無理がある。そこで董卓は呂布に呂布隊を率いさせ、共に戦うつもりでいた。
もちろん董卓としては袁術軍への牽制の意味も込めており、袁紹の本意とは違うのだが董卓に呂布を討てる機会があればそうするつもりでもいた。
「いや、それは必要無い」
呂布の返事に、董卓はもちろん曹操までもが驚いて呂布を見る。
「呂布将軍?」
李儒が尋ねると、呂布は李儒に向かって笑いかける。
どうやらこの呂布の反応の方が李儒にとっては意外だったらしい。この提案を受けなかった時点で呂布は袁紹や曹操を見限ったのかと思っていたのだが、李儒は呂布の真意までは見抜けていなかったようだ。
曹操は苦笑を浮かべて肩をすくめ、李儒が何かを言いかけたがそれを曹操が制する。
「呂布将軍の仰有る通り、呂布軍は呂布将軍の率いる少数精鋭のみでの作戦で行く。それ以外の者達は袁紹殿の指揮下に入ってもらう。これで問題はあるまい」
曹操が代わりに答える。
袁紹が李儒を睨みつけるが、さすがに李儒もこればかりは言い返せない。董卓軍との戦いを前に、袁紹は味方であるはずの呂布によって窮地に立たされているのだ。ここで呂布の意見を無視した場合、袁紹は呂布だけではなく、その妻や子供の命も見捨てる事になりかねない。いや、場合によっては妻と子供を犠牲にしなければ袁紹が助かる道が無い可能性もある。
「分かりました」
と、袁紹はしぶしぶ引き下がる。
袁紹にしてみれば納得のいく話ではなかったのかもしれないが、ここは我慢してもらうしかなかった。
これ以上時間をかけるとそれだけ被害が大きくなる上に、曹操にも逃げられてしまう恐れがあった。
「よし、それでは行動開始! 皆、遅れるな!」
曹操が檄を飛ばすと、呂布も先頭に立って進む。
その呂布を見て、呂布軍の諸将も続く。
その時、袁紹は呂布を呼び止めようとしたがその言葉は出て来ず、ただ立ち尽くしているだけだった。
曹操が呂布を利用するつもりなのは分かる。
その考えは理解できるのだが、だからと言って許せるものではない。
だが、その曹操の考えを読み切れず、また読み切れたところで打つ手が見つからない自分が情けなくもある。
何より自分の不甲斐なさのせいで妻子を危険に晒され、今こうして守られている事が申し訳なくて仕方がない。
ただただ、今は曹操が無事で戻ってくる事を願うしか無かった。
戦いが始まった直後、曹操軍の動きは明らかに悪かった。これまではそれでもなんとかなっていたのだろうが、今回の戦は違う。
まず数の差があるので全軍を同時に動かしての連携攻撃は難しいので、袁紹軍、呂布軍がそれぞれ別方向に進軍していく事になった。
この時点で既に袁紹軍の被害が大きい。
さらに、呂布軍が董卓軍の背後に回り込もうとすると、それを防ぐために張済軍が進路を塞ぐ様に動く。これによって呂布軍は大きく迂回しての陽動を仕掛けなければならなくなり、結果として呂布軍の行動が遅れるだけでなく、余計に時間を浪費してしまう事にもなった。
曹操軍の中でも武闘派で知られる賈クだったが、この時ほど自分の実力不足を嘆く時は無かった。
呂布軍に呂布がいる限り董卓軍が勝つ事はありえないだろうし、呂布の名声は天下に轟いている。そんな英雄が指揮を取るのであれば、曹操軍も互角に戦えるのではないかと言う淡い期待もあった。
しかし、蓋を開けてみると曹操軍は完全に防戦に回っていた。呂布と言う存在が曹操軍に恐怖を植え付けているのは明らかであり、それによって曹操軍は本来の力を出せずにいた。もしこれが戦場でなければ、袁紹軍も曹操軍を侮る様な事はしなかったかも知れない。だが、この戦いの場は曹操が用意した舞台であり、呂布と言う絶対的な力を持つ者がそこにいる。しかも呂布はその圧倒的な力を見せつけるように董卓軍と戦っているにも関わらず、決して自軍に被害は与えていない。それどころか自軍を囮として敵を引きつけてもいる。
袁紹軍は呂布軍の動きについていけずに翻弄され、各個撃破されつつあったのだ。
こうなると、もはや一刻を争う事態となったと言える。
李儒はすぐに袁紹の元に行き状況を説明すると、袁紹の決断を待つまでもなく兵をまとめて撤退に移る。
呂布軍と袁紹軍が合流したところで勝ち目は無い。
そればかりか、そのまま挟撃される可能性さえあった。
そうなれば壊滅は必至なので、袁紹としても退くしかないと判断したのだ。
ここで問題になったのが、退路を断たれた場合だった。特に呂布が単騎突出してきた場合には最悪である。曹操との約束を守り、袁紹は呂布を討ち取ろうと言う気持ちは一切ないにしても、そうせざるをえない場合はどうするか。
それは曹操も理解していたらしく、袁紹が逃げる準備を始めたところで曹操からの密使が来る。それによると、このまま西へと進み、黄河に沿って南下する。そして洛陽の東門から外へ脱出する事だった。もちろん曹操軍も一緒であるので、曹操も袁紹も死ぬ心配は無さそうであった。
袁紹としては曹操に出し抜かれた格好にはなったものの、それは袁紹が曹操に対して油断をしていたからである。今回に関しては完全に袁紹側の負けだと思っているのだから、素直に曹操に従うつもりだった。もっとも曹操もそこまで甘くはない事も知っているので、その辺りは呂布がしっかり見極めた上での事ではある。曹操は本気で呂布を利用するつもりで、呂布もそれを承知した上で協力すると言っていたので、お互いに腹の探り合いをしている状態とも言える。もちろん、袁紹は呂布を信じているが、曹操は信じていなかった。
とはいえこの作戦において袁紹軍は曹操軍と一緒に戦う必要がある。そのためにはある程度の兵力を維持する必要があり、李儒は袁紹に無理矢理でも三千の兵を率わせる事にした。
それを聞いた時の袁紹の反応は筆舌にし難い。
なにしろ自分の手勢を減らせば、家族を守る兵が少なくなる事を意味させ、曹操の思うつぼなのだ。それに、その程度の軍勢では呂布を止める事など出来ようはずもない。袁紹がいかに勇猛であっても呂布にかなう訳が無く、曹操の策略にまんまと引っかかったようなものである。
だが、それでも袁紹は覚悟を決めた。ここで自分の誇りを守って死んでいったとして、それが自分の評価に繋がる訳ではないのだ。
袁紹にとっての問題は妻子の命である。呂布に討たれて死ぬか、曹操に殺されて殺されるのかの違いだけであって、妻や子を助ける事が出来る保証は何も無い。むしろ呂布や曹操と戦わなければならない分、妻子が危険にさらされる可能性が高くなるのである。
それでも、と袁紹は自分の兵を率いて呂布と戦う事になった。
曹操や呂布が相手ではなく、袁紹軍との戦いになると呂布軍の動きは一変し、一気に曹操軍を追いつめる。
だが、袁紹軍の足が止まった。
「あれは?」
袁紹軍の後方より砂塵を巻き上げながら騎馬の一団が迫ってくる。
「あれは……袁紹殿の軍です!」
袁術軍の武将の一人が答える。
袁紹は呂布相手に孤軍奮闘を続けて時間を稼ぐが、その間に他の諸侯や董卓軍の兵士達は次々と呂布軍に倒されていった。
その勢いに押されるように、袁紹軍の最後尾部隊がやって来たらしい。
本来であれば呂布が曹操の罠を見破った事による逆転劇となるはずだったのだが、ここに来てまた振り出しに戻ってしまった事になる。
しかも、そのタイミングはあまりにも悪すぎた。もし袁紹軍が到着する前に呂布が反転していれば、曹操軍と合流する事が出来たかもしれない。だが、今更それを言っても遅いのは明白だったので、呂布軍もそれに応じる様に後退を開始する。
呂布軍は董卓軍の側面に展開し、董卓軍の動きを止めにかかる。
呂布軍の方が数は多かったものの、董卓軍に動揺は見られない。呂布と言う存在によって董卓軍の士気は極限まで高められているだけでなく、呂布に対する信頼もあるのだろう。その為呂布軍の攻勢に対しても揺るぎのない対応を見せ、徐々にではあるが押し返していく。その時、袁紹軍が到着し、袁紹軍が呂布軍と合流したところへ董卓軍の主力部隊もやって来ていた。
この時袁紹軍が曹操軍と合流出来ていない事が、最大の好機でもあった。
ここで董卓軍を抑えきる事が出来なければ、逆に董卓軍の援軍が到着したところで呂布軍の敗北が決定する。曹操軍と合流出来て挟み撃ちにする事ができれば呂布軍に勝目があったものの、呂布軍がそれを阻止する動きを見せたため、それさえも不可能になってしまった。こうなると、呂布軍に勝利は無く、袁紹軍が加わったところで董卓軍に勝利するのは絶望的だった。
こうなっては曹操軍と共に呂布も逃げるしかなかった。呂布は董卓軍を牽制しつつ袁紹軍と共に撤退するしかない。
だが、そこで呂布は一つの賭けに出る。
呂布軍は曹操軍と合流しようとした袁紹軍を追いかけ、追撃に移った。
呂布軍は董卓軍に比べて数も少ない上に個々の能力も高いとは言えないが、それでも董卓軍に比べればはるかに多い。その数が生み出す攻撃力を最大限活かす為にはどうすれば良いかと言うと、圧倒的な数の差をもってして敵を包囲殲滅してしまうのが一番早い。しかも今回は呂布自身が敵の中に飛び込んでいって、敵の数を削り取る必要は無いのだ。敵を包囲してしまえさえすれば、後は呂布軍が戦わなくても勝手に敵が消耗してくれる。
もし曹操軍が逃げる方向が同じなら呂布軍は袁紹軍と合流して、曹操軍と呂布軍は合流後呂布軍は敵に向かって突撃を敢行、曹操軍と袁紹はこのまま逃走に入るはずだ。そうなれば呂布軍に勝機が生まれるはずで、呂布はそれを狙っていた。
曹操としてもここで呂布に逃げられるのは避けたいところではある。ただでさえ兵の数が少なくなっている所に呂布まで逃亡を計れば、曹操は追い詰められてしまうからだ。曹操としてはこれ以上呂布と戦いたくないという思いもあり、袁紹に期待をかける事にした。だが、さすがの袁紹もこの状況下では逃げ切れないと判断したらしく、そのまま呂布を追う。
そして呂布軍は袁紹軍の後ろから襲いかかった。
ただこの段階での袁術の動きが、予想とは違った。
元々袁紹との不仲があったとは言え、一応は義兄であるはずの袁紹を裏切って呂布に付く事も考えられると思っていた。その場合袁紹と呂布は手を組む事になるはずなのだが、袁紹はそうしなかった。その動きを見て呂布は焦りを覚えた。
曹操の策が上手く行かなかった場合に袁術が寝返り、それを利用して董卓軍の動きを制限したのちに脱出するつもりだったので、この展開はまったく考えていなかった。
そもそもこの事態を想定していれば袁紹にも伝えておく必要があったのだが、それを怠った事で予想外の事が起こってしまったと言える。
袁紹が袁術の元に走ったのだとしたら、その時点で袁紹軍の退路を断つ事に成功していたので脱出を阻止できたのだが、そうではなかった。
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