第8話

呂布は自ら戦場に出ようと考えていたのだ。しかし、それは曹操に時間を与えるだけの愚行でしかない。曹操はその事を見抜いていたが、それでも敢えて曹操に仕掛ける事にした。曹操は全軍をもって攻め寄せ、呂布軍を挑発。それに呂布が乗って来ればよし、そうでなければこちらから打って出る。

この戦法は成功するかに見えたが、この戦術が通用したのは最初のうちだけだった。

そもそも、この戦いは数に差があり過ぎる。いくら武勇に優れた武将であっても、十倍近い敵軍を前にすれば恐れを抱く者も少なくない。そこで指揮を取る者がしっかりしていれば良かったのだが、この戦の総大将は郭嘉と程普だったものの、この二人共に実戦経験に乏しく、戦いにおいての恐怖を知らない。その結果、敵に押されても果敢に攻め込み、呂布の足を引っ張るような結果になっていた。

また、呂布が積極的に前に出ると聞いた者達の多くは、呂布であれば負けるはずがないと信じていた。呂布の武勇を知る者達は誰一人として不安を口にしなかったのである。

その為、その噂を聞いた董卓軍が呼応すると一気に戦況が変わった。特に先頭に立って戦う事になったのは、何進の従兄弟にあたる袁紹とその友である顔良である。この二人の連携攻撃によって呂布の部隊は大きな被害を出しただけでなく士気も低下させていった。この呂布の敗北は決定的になった。

そこへ追い討ちをかけに来たのが、やはりと言うべきか呂布軍最大の戦力を誇るはずの徐栄の奇襲部隊である。

だが、この時ばかりはいつもと違って、呂布軍最強の戦士は前線で孤立している状態だった。

呂布軍にとって幸運な事に、曹操軍にとっては不運極まりない事である事が一つだけ起きた。

それは、呂布と曹操の一騎討ちが始まった事である。本来なら両軍の主力同士による一騎打ちなのだが、その勝敗の決着があまりにも早いと、その後の戦いで混乱が生じるのは必至。その危険性を考慮した高順は、あえて曹操と劉備の一騎打ちに介入する事にした。だが、ここで高順は大きな誤算をする事になる。高順の見立てでは曹操に分がある。しかしそれはあくまで兵の強さに関してであって、一騎打ちの腕前に関してはどうだろうか? 高順の予測では、曹操の方が劉備より強いと思っていた。しかし結果はその逆だった。曹操の槍は、まるで蛇のように劉備の身体を絡めとり切り裂いていく。その動きは呂布の目から見て、もはや人間の技とは思えなかった。しかし、曹操が優勢だったのはそこまでだった。高順が曹操の馬を狙い矢を放ったのである。高順の腕は神業とも言えるものだったが、それが結果として仇となった。劉備は一瞬の隙を見逃さず、その腕から逃れて曹操へ突撃。劉備の斬撃を受けた曹操は落馬した。そこに高順が切り込むが、関羽が間に入って曹操を守る。

そのおかげで、曹操は劉備の攻撃を避ける事が出来ていた。その攻防を見ながら、呂布は歯噛みする思いであった。自分が出て行く事で事態を収拾出来ればとも思ったのだが、今の状況では間に合わないと判断したからである。

曹操軍の動きを見て、ついに劉備は徐州軍を率いて参戦を決意したらしい。その時にはすでに呂布軍は壊滅的な状況になっており、徐州軍の参加が無ければ完全に曹操軍に飲み込まれていただろう。

結局、この戦いでは呂布軍は敗北を喫する事になり、多くの将士を失ってしまった。しかもその中には呂布の妻や子供達も含まれる事になった。

しかしその中で、一人の男が命拾いをしていた。王双の事である。

呂布軍の将軍達の中で最後まで抵抗を続けた王双だったが、やがて力尽き倒れ伏す寸前に曹操軍の兵が助けに入り難を逃れる。王双は助かったが、その王双を助ける為に曹操軍は大損害を受ける事になった。

その王双を助け出した兵達の中に張遼の姿があった事は言うまでもない。

呂布軍は敗れたが、これで全ての終わりではない。まだ張済が残っており、陶謙、李豊らの武将もいるのだ。呂布はそれらの人物を集めて再起を図ろうとしたが、そこで問題が起きた。

突然曹操が何かを唱え空が闇に包まれる。

曹操の得意とした魔術であるが、曹操自身が使用するのは初めて見た。

「天よ! 地を焼き尽くせ!」

曹操の号令の下、呂布軍のみならず袁術軍、孫堅軍までも巻き込んでの大戦になるかと思われたが、そこで呂布は意外な決断を下す。

呂布軍主力を率いて反転し、そのまま逃亡したのである。これにはその場に集まった諸将はもちろん、曹操自身も驚かされた。

もちろん、呂布にも考えがあっての行動である。

ここで曹操と争っても、勝てる見込みは無い。ならばここは一旦退き、曹操との再戦に備えるべきだと思ったのだ。

もし呂布が天下人になっていたのであれば、ここで曹操と戦う事を選択したかもしれない。

しかし、呂布はすでに天下無双の名を得ている。これ以上の地位を求めても無駄だ。そう考えた時、呂布にはもう曹操と戦いたいと思える理由はなかった。それに今のこの状況から考えても、再び曹操と矛を交えられるかどうかは疑問が残る。

それに呂布軍が曹操軍と戦っている最中に、韓浩の死の報も届いていた。今は一刻も早く態勢を立て直すべきであると呂布は判断したのである。

そしてこの撤退劇は、曹操軍を勝利に導く事となった。

「勝ちは今回は譲ってやる。次回はこうはかいないぞ?」

そう言い残して逃げるのであれば追撃はしないという約束通り、曹操はこの場から呂布軍を深追いしなかった。呂布の方もそれに甘えるわけもなく、ひたすら南へ向かって逃げている。

そんな中で一息ついたのは、劉備の元だった。

さすがにこれだけの被害を受けて劉備が何も思わないはずがなく、自ら兵を率い陳留へと向かった。その時、高順は張飛が負傷していたので、自分の部隊に連れ帰る為別行動を取っており、呂布は劉備の元へ行かなかった。

呂布はと言うと、徐州の城内に留まっている。呂布軍が壊滅状態になった事もあり、この混乱に乗じて何者かが入り込んでいる可能性もあるのだと張遼は考えていたからだ。城を守っているだけでも十分な功績と言えるのだが、やはり妻の事が心配だったので張遼は徐州に留まった。だが、張遼も知らないところで呂布の元には新たな使者が来ていた。

袁紹の使者である。

呂布も袁紹の名前くらいは知っていたが、こうして面談するまでになったのだから世の中分からないものである。袁紹が使者として訪れた事を伝えると、呂布の留守を預かる張勲と宋憲は警戒心を露わにする。

しかし、呂布は袁紹と会う事を決めた。袁紹と言う男は一見軽薄に見えるところはあるが、実際にはかなり慎重な人物である事を呂布は知っている。それは袁紹だけでなく袁家全体の特徴で、この一族は常に慎重で疑り深い性格の者が多かった。袁紹にしてもそうであるのだが、それだけでなくその一族の者達に共通していた事もあった。それは、身内に対する疑いの眼差しである。それはある意味、敵よりも怖いものだ。

しかしそんな袁紹が、何の理由も無く自分に会いに来るなどとは呂布は思えなかった。

それもあって呂布は、呂布軍の副将として高順を同行させた。

呂布軍の兵士達は相変わらず袁家の兵士達に恐れを抱いている様子ではあったが、それも仕方がない事ではある。呂布はこれまで一度も戦場に出た事もなければ、実戦の経験もない。だが、呂布の名声は既に誰もが知るところであり、実際に武勇を示した事がある。その為、呂布の実力を信じていない訳でもない。ただ、自分達の将軍が相手するのが、よりによってあの名族、袁紹なのだと思うだけで畏怖してしまうのである。

「呂布将軍。ご無沙汰しております」

呂布の前に現れた袁紹は、以前出会った時の印象のままであった。

その立ち居振る舞いは堂々としていて自信に満ちたものではあるものの、どこか相手を侮るような感じでもある。また、口元に浮かべた笑みは余裕のある大人の微笑といったもので、子供らしさはないものの油断している様でもあった。

それが嫌味ではなく、むしろ魅力的なものに見えてしまう辺りに呂布軍の者は違和感を覚えないでもなかったが、張遼や高順のように付き合いの長い者からすればこれはいつもの事なので特に気にする事もない。

「お久しぶりです、殿……いや、将軍。こちらこそ御多忙な中わざわざのお越し、感謝致します」

呂布がそう言うと、袁紹の後ろに控える文官らしき人物が慌て始める。

袁紹の従者達からすると、呂布に対してあまりにも礼を欠いた物言いにしか聞こえなかったのだろう。しかし、当の本人である呂布自身はそれを気にも留めず、逆に後ろに立つ男の方が焦った顔で恐縮しまくっていた。

「ああ、紹介がまだだったね。こちらは河北で私を助けてくれた荀攸だよ。今日は彼と一緒に君に話があって来たんだ。あぁ、それと陳宮には事前に伝えていたんだけど、君は何か勘違いをしているみたいだ。私がここに来て、しかも使者を伴っている以上話し合いに来たのは当然だけど、それだけではないんだよ。実は君の妻と息子の件に関して、私は色々と動いていてね。陳登とかいう男が呂布将軍の奥方に手を出して来た事は聞いてるけど、あれに関しては陳宮も曹操も同じ意見で一致しているよ。そこで相談がある。君の妻子の安全の為に、曹操の元へ向かうつもりは無いかい?」

袁紹の言葉は、呂布にとって意外なものだった。

曹操の元に向かわせるのは人質の意味もあり得るが、それよりも曹操は呂布との友誼を重んじているという事だろうか? 曹操と言う人物と面識が無い呂布だったが、その人物像は陳珪からも聞き及んでいる。

優れた武将ではあるが、その非情さから天下の大悪人と呼ばれる事もあると。

呂布が袁紹に抱いた疑問は、張遼も同様らしく表情から怪しさを感じているのが分かる。

「俺に、曹操に降れと?」

袁紹は笑顔のままで首を横に振る。

「別に無理強いする為に言っているんじゃない。曹操としてはこれ以上、徐州に手を出すべきではないと思っている。呂布の妻子は丁重にもてなすし、悪いようにはしない。それに私の頼みを引き受けてくれるなら、さらに待遇を良くしようじゃないか。どうだい?」

袁紹の申し出はありがたい話ではあった。もし徐州を離れる事になるのであれば、妻の仁和はともかくとして息子達は徐州に置いておきたかったのだが、曹操の元へ行ってもらう事で家族を守る事が出来る。だが、そうなると劉備の義弟という立場は失ってしまうかもしれない。

劉備にしてみれば、自分が見捨てた呂布の妻子の安全を保証すると言うのであれば、それに越したことはないはずだと言う打算もあった。劉備としても徐州での戦いが有利になるならば願ったり叶ったりだし、呂布の妻子の安全が保証されるのであれば呂布軍への援助も惜しまないはずだった。

もちろん、徐州における劉備の影響力を考えれば劉備のこの提案に乗る事に躊躇はなかった。しかし呂布の気持ちの中には、この話が罠であるのではないかと言う疑念も残っている。確かにこの場ですぐに返事をしなくても良いと言う条件はあるが、それは時間を与えるというだけであって承諾しなければ命の危険に晒される事に変わりはないだろう。

そもそも呂布は、まだ何も答えていないのだ。呂布の心の内を知ってか知らずしてなのか、袁紹は一方的に話し続けている。その話を聞いていた高順が、さすがに眉をひそめる。

張遼も警戒心を抱き、いつ袁紹の配下である兵が襲って来るのかと警戒しているようでもある。

だがそんな中で、宋憲は相変わらずの笑みを浮かべたまま袁紹の話を黙って聞くだけだった。この男のこの余裕の無さが、高順や張遼を苛立たせていた。

宋憲が呂布軍を率先して守ろうとするのは、あくまでも袁術配下の将であるからであり、呂布の個人的な恩義や忠誠心などと言ったものとは無縁の人物である事は高順や張遼にも理解出来ていたが、それでも宋憲が警戒心のかけらも見せないので危機感を持つ事が出来ないのである。

そんな呂布達の態度を見て、袁紹は大きくため息をつく。

そのため息をついた事で袁紹の話が終わったらしい事を悟り、呂布はまず頭を下げる。

「突然の事なので、お言葉ながらお断りさせていただきます」

「ふむ」

断られても特に驚く事も残念がる様子もなく、むしろ予想していたかのように軽く答える。

「理由を聞いても良いかな?」

「まず、妻や子供達を人質に取る様な真似をする事は承服しかねます」

これは本音だった。

呂布には袁紹の考えは全く読めないが、ここで素直に受け入れてしまう事には抵抗があった。何より呂布には守るべきものがあり、それを脅かす者を容認出来るはずもない。

袁紹はそれを聞いた上で、小さく笑う。

「人質とは酷い言い草だなぁ。人質に取られているのは私の方なのに」

「……どういう意味ですか?」

呂布がそう言うと、袁紹は困った様に苦笑いをする。ここまで言っても気付かないのかい? とは、口には出さなかった。

「いや、君にとっては奥さんはただの妻だろうけど、私にとっては違うんだよ。君の家族に手を出すつもりはないけど、私は曹操との約束は守るよ。それに、曹操も陳宮も今回の事はやり過ぎだと思っている。それでいて陳宮はまだ陳宮で、自分の考えを変えようとしないからね。陳宮は自分の思い通りに行かないと、簡単に人のせいにするから始末が悪いよ。陳登の件にしてもそうだけど、曹操の甘言に乗って君の妻子を狙った陳宮に対して君はどう思っているんだい? こうなる前に陳宮のやり方を止められなかった君はどう責任を取るつもりなんだい? 陳宮に対する罰として、君はどうするべきだと思う?」

袁紹の問い掛けは質問ではなかった。

袁紹としては曹操に進言する為の呂布の反応を確認しているに過ぎない。しかし、その意図を理解している呂布にとって、袁紹の言葉はある意味で挑発でもあった。

そして袁紹の言葉に一番敏感に反応したのは、呂布ではなく袁紹の背後に控える文官だった。

文官は今にも袁紹に飛びかかりそうな剣幕だったが、それを袁紹が視線だけで制する。

「俺の意見を聞く為に、こうして呼び出したんじゃないんですか?」

呂布は少し皮肉を込めて、笑って袁紹を見る。

もっとも表情豊かな袁紹の眉はぴくりとも動かずに呂布を見つめ返していたが、それが逆に袁紹の怒りを表しているように見えた程である。

袁紹の後ろにいる武官達もざわつき始め、この場にいる全ての者が臨戦態勢になりつつある中、袁紹はゆっくりと首を横に振る。

「そうだとしたら、こんな回りくどい方法を取らないさ。実はここに来た本当の目的は、陳宮殿から頼まれた書状を渡す為だよ」

そう言って袁紹は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、呂布へと差し出す。

「私が使者になったのも、徐州攻めの時に君への非礼について詫びたいと言う陳宮殿の要望に応えての事だ。その程度の事を陳宮殿が気にするとは、随分変わったものだと思うがね」

「それは……」

確かに呂布も陳宮の真意は掴めなかったが、それは袁紹が言っている事とは違うような気がした。おそらくは単純に謝罪の意を伝えたかっただけなのだろうとは思うのだが、それだけではない何かを感じるところもあった。

ただこの場での返答を避ける為に呂布は敢えてその点に触れず、受け取った書状を開くと袁紹の方へ押し返すように突きつける。

それを見て袁紹はやや残念そうにため息をついて見せるが、

「読んでみると良い」

と言うと後ろに下がり袁紹が座っていた椅子の隣に立つ。

手紙を読むのは袁紹の前でも構わないと言うのが礼儀なのか、袁紹以外の全員が呂布の手元を覗き込んでいる。呂布としては袁紹の意図が全く分からなかったのだが、とりあえず書かれている文章を読み始める。

『奉先殿、此度は大変な目に遭われたとか。我が義弟の不手際を謝らせてもらいたく文をしたためました。本来であれば陳留王である曹豹を旗頭に戦うべきであるところを、袁紹が独断で兵を挙げた事により陳国の混乱を招き、結果として貴軍の御子息にご迷惑をおかけしてしまった事、陳公台としても心苦しく思っています。

そこでこのたびは、徐州にて共に曹操と戦う仲間としてお迎えしたいと考えています。また妻子については丁重に扱う事を約束し、徐州での地位も約束します。是非一度、陳登を呂布将軍の元へ使者として赴かせて下さい。これは太守としての命令であり、逆らう事は許されません。

この様な形でしか恩返しが出来ない陳公台の不甲斐なさをどうか責めないでいただきたいと願うばかりです』

読み終えた時、呂布の顔からは血の気が無くなっていた。

呂布の家族の安全を保証するどころか、人質になれと言っているのだから当然と言えばそれまでなのだが、陳宮の狙いはそんな単純な事ではなかった。まず最初に曹操に対して袁紹を使って呂布の妻子を人質に取ると脅しをかけ、曹操はその提案を受けざるを得なかったもののその後の対応に関しては全く言及していなかった。つまり曹操は陳宮からの要求にどう答えたかの明言を避けている。曹操自身が呂布との仲を完全に断ち切った訳ではない証拠である。

そこに呂布は付け込もうとしていた。人質など必要としない呂布軍の強さを見せ付ける為に、曹操軍を徹底的に叩いてやろうと考えていたのだ。呂布にはその覚悟がある。

しかし、それを見越して先手を打ってきたのが陳宮である。

妻子を巻き込むのは陳宮にとっても不本意ではあるのだろう。だが、そうする事によってより確実に曹操の口から家族の身の安全を保障する言葉を引き出したのだった。これでもし呂布が断ったりしたら、その瞬間に陳宮が呂布一家を手に掛けるだろう。

もちろん袁紹も承知の上である。

だからこそ、ここでの呂布の返事如何によっては、袁紹の言う人質の意味が大きく変わってくる事になる。

曹操軍は袁術軍と呂布軍に挟み撃ちにされた形となり、いかに曹操と言えども無事に逃げおおせる事は難しくなる。そして、陳宮に人質交換を申し込まれたら断る事が出来ず、人質を盾にされては袁紹も動く事も出来なくなる。何より陳宮もここで自分が袁紹の使者になる事は計算済みだろう。呂布の妻子は曹操ではなく袁紹の元にいた方が安全と言う訳だ。

陳宮の計略に嵌められ、曹操だけでなく袁紹までも敵に回る事になってしまった呂布は、怒りと悲しみの混ざった複雑な感情が渦巻いていた。

陳宮の考えは理解出来る。しかし、それでも納得するわけにはいかない。

今すぐ飛び出して陳宮を討ち取ってやりたいと言う衝動を抑えつつ、どうにかして陳宮を出し抜く方法を考えようとする。

「……失礼ながら」

その時、呂布の背中側から声がかけられる。振り向かなくても誰の声なのか分かるが、今は一人になりたいと言う気持ちもあり反応が遅れてしまった。

そこにはやはり想像通りの人物がいたのだが、予想外の人物もいる事に驚く。

「華雄?」

意外な顔を見て驚いたが、それは呂布にとっても同じだった。

今更のこのこ現れても、もう呂布は武人としては使い物にならないと思っているのかもしれない。実際そのとおりなので何も言えないのだが、わざわざ呼びに来るほど役に立たないとは思われていなかったらしい。

「申し訳ありませんが、急ぎ袁紹様の元まで来て頂きたいのです」

「何故?」

突然現れた理由が分からない以上、とりあえず訊いてみるしかない。

それにしても、いつもと違って口数が少ないなと思う。

呂布も人の事を言える立場ではないが、今の華雄は以前に比べて覇気が失われているように見えた。

その様子にも少し違和感を感じるが、とりあえず急用だというのなら袁紹の元へ出向く必要がある。

呂布が立ち上がりかけた時、董卓軍が一斉に立ち上がる音が聞こえる。

見れば、その中心にいるのは李儒。その隣に月がいる事から考えるとおそらく張遼も来ているはずだが、そちらを確認する余裕はなかった。

おそらくはこの会見の場に現れた時から全て計画の内にあったと思われる。最初から家族の命を盾にする為だけの策だったので、呂布を陥れる為ではないはずなのだから。

ただ陳宮も陳宮なりに呂布の出方を窺っていたらしく、この場での呂布の動きを見定めるつもりだったようだ。その点で言えば完全に裏をかいたのは陳宮の方だと思えるのだが、結果としては最悪の展開となった。

袁紹の用意した人質を使う機会を失ってしまったのだから。

もっとも呂布にしてみれば、人質と言う考えが陳宮の中にあるだけでも大きな驚きだった。

これまでも陳宮は自分の目的の為であれば、あらゆる犠牲を厭わないところがあったが、自分の身内を犠牲にするとまでは思ってはいなかった。

陳宮の真意がどうであれ、このまま陳宮を放置しておくのは危険な予感がした。それは単に敵としての脅威ではなく、陳宮の持つ恐ろしさを呂布は十分に認識している。

陳宮にこれ以上好き勝手やらせるわけには行かない。それが分かっているにも関わらず、呂布は何も出来ないでいる。

結局呂布にはどうしようもない状況で、袁紹と面会する事となってしまった。

陳宮が使者となって以来、初めて見る袁紹の姿は、まさに王と呼ぶに相応しい威厳を放っていた。

元々名家の生まれであった事に加え、袁紹自身が若い頃より戦場を駆け抜けて来た勇将でもある。その姿を見ただけで、その言葉を聞いただけでは感じられなかったものが見えるようであり、また聞こえてくるような錯覚さえ覚える程の存在感があった。

王として袁紹は完成されている。呂布はその事をひしひしと感じていた。

だが、呂布の目に映っている袁紹の印象は王と呼べる様なものではなく、むしろ英雄と呼びたくなるものだった。

一介の武将であり、それこそ曹操や袁紹と比べれば十把ひとからげ程度にしか名前が知られていないであろう自分に対して、まるで友人でも迎えるかのように笑顔を向けてくれる。

呂布としてはそんな扱いを受ける身分ではないので遠慮してもらったのだが、そんな事はまったく気にならないと言った風に、袁紹は椅子を勧める。

袁紹にとって呂布は既に臣下であり、客人を迎えると言うよりも旧知の友を招いて酒を飲むといった風である。呂布の横に陳宮、その後ろに華雄と高順、さらに袁術軍の将軍である韓浩や孫堅など、徐州からの遠征軍は勢揃いしていた。

本来であればここに関羽もいたはずだったのだが、残念ながらと言うべきか幸いと言うべきなのか、曹操軍との決戦を目前にして病の為に不参加となっている。

陳宮と陳宮の家族が袁紹に捕らえられている以上、もし呂布に何かあればこの場の全員が人質に取られる事になる。呂布は覚悟を決めざるを得なかった。

「それで袁紹殿、今日はどんな用件かな? まさか、こんな大人数を集める為に私を呼んだ訳ではないだろう?」

袁術軍の中では珍しく礼儀正しい華雄も、この空気に耐えかねて話を切り出す。

確かにこの場に集められているのはいずれも精鋭だが、袁紹にとっては単なる部下に過ぎないはずである。それをこうやって集めるという事は、それなりの理由があるに違いない。

しかし、そう言う華雄に対し、袁紹はすぐに答えない。

華雄と視線を合わせたまま、しばらく沈黙した後ようやく口を開く。

「単刀直入に言いましょう。このたび呂布将軍のご息女、小雲嬢をお預かりしております」

「何だと!?」

その言葉を真っ先に反応したのは、もちろん陳宮。

予想だにしていなかった展開なので仕方がないが、陳宮は怒りに任せて席を蹴って立ち上がろうとする。

が、そこでふと思い留まる。

袁紹には陳宮を怒らせて反応を見る狙いがあり、その反応によって陳宮に対する有効打を放とうとしているのではないか、と思ったのだ。陳宮の予測どおり、ここで反応するのは迂闊だった。

陳宮の反応を見て、董卓はニヤリとする。

その反応は、この策の全てが陳宮を嵌める為だけに練られたものだと確信させた。

呂布は悔しさのあまり歯噛みするのだが、その表情を見て董卓はほくそ笑む。呂布が今すぐ飛び出していき、この馬鹿げた茶番劇を終わらせる事が出来ない事に腹を立てながらも、どうする事も出来ずに立ち尽くしている。

これが罠なのは陳宮も承知の上で、その上でも尚呂布を陥れるべく仕掛けている。ならば下手な手出しは逆効果どころか足を引っ張る事にもなりかねないので、呂布も迂闊に手を出す事が出来ない。そもそも呂布には董卓を討つ事も出来なければ、月を人質に取られている状況で他の武将達を押さえつけて董卓を討ち取る力も、そして立場も今の呂布にはない。

それが分かっていて袁紹も董卓も動かずにいるのだから、これは最早策ではなく謀略と言っていい。陳宮と呂布を分断させる為だけの作戦がここまで徹底されるとは、呂布には想像出来なかった。袁紹が言ったとおり、袁紹は陳宮を呼び出した時点で、陳宮を挑発するのが目的であったのかもしれない。陳宮は袁紹の誘いにまんまと乗せられ、冷静な判断を失っていたと言える。

ただ陳宮には陳宮なりに思惑があったのだから、袁紹がそれにつけ込んで来たと言う見方が正しいのかも知れないが。袁紹の言葉に、呂布は目を閉じて深く呼吸をする。

動揺はしたが焦りはなかった。陳宮が呂布の妻と言うのであれば人質の価値はあるが、すでに家族同然の扱いを受けていた事もあり、それほどの人質ではないと思っていたからだ。呂布にしても、それ程慌てる必要を感じていなかった。

が、それも束の間だった。

袁紹の次の言葉で、呂布だけでなく陳宮も固まってしまう。

「小雲様は我が息子である袁譚と婚姻を結んで頂きたいと思っております。どうか、その事お受けくださいませんか?」

袁紹の提案は呂布にも陳宮にとっても寝耳に水だったが、それを聞いた陳宮の激怒は並大抵のものではなかった。

それは袁紹の息子であり、呂布の息子である袁煕の義兄である袁術も同じである。いや、呂布の娘である袁熙を妻に迎えようとしている袁術にとって、その提案は呂布の娘を袁術に嫁がせる事と同等以上に許せないものだったらしい。

この期に及んで何を考えているのかと袁紹に食ってかかろうとした時、その行動を制する者がいた。

曹操である。

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