第6話

実際、この二人は呂布軍の中でも上位の実力を持った武将なので小沛城防衛に関しては問題ないだろう。むしろ小沛城が陥落しない為に、曹操軍の攻撃に耐え続ける事の方が難しい。呂布は二人の言う事はもっともだと思い、大きくうなずく。

呂布としてはここでの戦いは徐州の為と言うより、もはや個人的な因縁になっている曹操との決着をつける事が最大目的となっている。

もちろん徐州の安全確保は絶対条件ではあるものの、それも曹操軍が徐州に足を踏み入れるのを阻止すると言うだけで、最終的には呂布の手で討ち取ってやりたいと言う欲求もあるのだ。

その為にはどうするか。陳宮軍と合流するのは当然としても、呂布は陳宮の指示を待つつもりは無かった。

まずは自分一人で戦う。

その方が効率が良いのはもちろん、何より自分の力を過信しすぎないように戒める事が出来るからだ。

これは俺が勝手にやった事であり、陳宮は何の関係もない事だ。

陳宮も、おそらく他の者達もそう思っているに違いない。呂布は自分に言い聞かせながら馬を進める。

小沛城は東門を閉じ、守備兵だけで防戦する予定になっていたのだが、予想通り小沛城に押し寄せた袁紹軍によって城門は破られてしまう。

だが小沛城内は、完全には守り切れていないまでも混乱にまでは陥っていない様子だった。

呂布はそれを確認すると手近な敵を薙ぎ払いながら前進していく。敵の勢いが凄まじく、またこちらが寡兵のせいもあってなかなか敵を押し返す事は出来なかった。

それでも呂布はひたすらに剣を振るい、目の前の敵を倒す事に専念し続けた。

やがて袁術軍の兵士が退き始めた。

呂布は好機と思い、一点突破を狙うべく猛進した。

だが、その時になって呂布は初めて気づく。呂布が目指す先に、小さな人影が立っている事に。

陳宮は相変わらず不敵な笑みを浮かべて、呂布に向かって手を振っていた。

「何をしている! 陳宮! 逃げるぞ!」

呂布は大声で叫ぶ。

しかし陳宮は、まるで動じずに笑ってみせた。

次の瞬間、陳宮は矢を放つ。それは真っ直ぐに呂布へと向かっていくが、間にあった城壁の一部が破壊され、呂布はかろうじて避けた。

破壊された部分から呂布は中に入ると、そこで見たのは信じられないものだった。

陳宮と、数人の文官らしき男がいるが、陳宮は何故か武器も持たず、文官の男たちに守られている状態だったのだ。そして、陳宮は笑顔のまま言った。

「おめでとうございます、呂布将軍。これで貴方も、天下万民の為に血を流す義務が出来ました」

どういうことだ?呂布の思考は追いつかなかった。

確かに曹操軍と呂布軍は正面からぶつかり合う形にはなっているが、それは陳宮が仕組んだものなのだろう。そして陳宮は呂布を信頼してくれているのか、呂布なら必ず勝利すると思っている。だから自分が危険な目に遭う可能性があっても、こうして待っていたのではないか。

だが陳宮は、呂布に何かを命じるわけでもなくただ笑顔を見せる。

「陣宮、お前まさか」

呂布は、陳宮の真意に気付いた。

この女がやろうとしていること、それは──

「俺は逃げさせて貰う。あとの指揮は呂布将軍、あんたが執ってくれ」

「高順?」

高順は言うと、すぐに馬を走らす。

魏続と侯成が追おうとするが、魏続は高順に追いつけず、侯成は別の敵に阻まれて追いかける事が出来ないようだ。

魏続の相手をしていた兵は、高順と互角の攻防を繰り広げたらしく魏続はすぐに諦め、侯成が応戦している呂布軍側の援軍に向かう。

呂布は陳宮に向き直り、声をかける事も出来ずにその場を離れた。

呂布は陳宮の言葉の意味を理解していた。もし、ここで呂布が全てを討ち取る事なく、敗走した場合、曹操軍は小沛城まで迫って来る事になるだろう。小沛城を守るだけの兵力しか残っていない現状では、曹操軍に対して有効な迎撃態勢を整えるのは難しい。そうなれば小沛城は完全に陥落し、曹操軍は徐州に攻め込む事が出来る。

もちろん曹操軍は小沛城を無視して、そのまま南下する事も可能だ。しかし、それでは曹操軍の目的は達せられない。曹操軍は小沛城を落とし、そこから徐州を攻略せんとしているのであって、徐州を手に入れた後、呂布軍を討てる状態で小沛城を占領したのでは、曹操軍にとっての勝利とは言えない。

おそらく曹操軍は小沛城を落とした上で、さらに徐州を落とさなければ納得しないだろう。

そう考えると、今の小沛城防衛の失敗はそれほど致命的なものでは無いとも言える。呂布軍の損害を最小限に留めた上で撃退に成功し、さらには曹操軍に大きな打撃を与えたのであれば充分に戦果と言えるはずだ。

つまり呂布はこれ以上無理をする必要はないと言う事だ。

ここで曹操軍を追い払ったら、後は陳宮や張遼たちに任せればいい。小沛城を死守しなければならない理由など無い。むしろそうやって時間を稼ぐ事が重要なのである。

だが、呂布はそれを良しとしなかった。いやその程度の事が思いつかない程に焦っていると言うべきかもしれない。

それに何より、呂布は陳宮を失いたくなかった。今さらながら呂布はようやくその事に気づき、そのせいか全身に震えを感じていた。

「くそっ!」

苛立ちを抑えきれず、呂布は手近にいた兵を斬る。

それでも動揺が収まらないまま、呂布は陳宮のいた方向へ戻ろうとする。

そこに一騎の武将が馬を走らせてきた。

夏侯惇は呂布を見つけると、馬を止める。

「どうしたのだ、奉先よ。何故戻って来た? このまま退くつもりではないのか?」

呂布は息を切らせながら馬を止めていたが、呼吸を整えてから口を開く。

「陳宮を……連れ戻す。それだけの余裕があるかどうか分からんがな」

「馬鹿な! お前の考えているような事は絶対にない! 俺には分かる。あれはそういう女だ。俺達の思惑とは別に行動してるだけなのだ。ここは退け!」

呂布と向かい合って、初めて見せるほどに険しい表情で、夏侯惇は怒鳴るように言い放つ。

それは呂布にとっても予想外であり、驚きを隠せなかった。

あの、いつも笑顔を浮かべている男がこれほどまでに怒るなど、思ってもいなかったからだ。

だが、だからと言って引き下がるわけにはいかない。

陳宮は呂布を必要としていないかも知れないが、呂布には陳宮が必要なのだ。陳宮を失ったところで曹操軍とは戦える自信はあるが、だからといって陳宮を失っては元も子もない。

だが、それでも呂布は譲れなかった。

「夏侯惇殿。悪いが、貴公とは行けない」

呂布は言い切ると、愛馬の腹を強く蹴って再び駆け出す。

「奉先! くそ、こんな時に張飛がいれば……」

後ろから聞こえてくる夏侯惇の声が、どんどん遠ざかっていく。

そして呂布の視界に、やっと陳宮の姿を捉える事が出来た。

呂布はすぐに陳宮の乗っている馬車に向かいかけるが、そこで足が止まる。

「呂布将軍!」

「……李儒?」

そこで見たものは、剣を振り上げた李儒の姿だった。

咄嵯に避けようとしたものの、それよりも早く呂布の身体に深々と突き刺さっていた。

呂布は自らの胸を見る。そこには剣が生えていた。

不思議と痛みはなかった。ただ、心臓を一刺しされた事により、出血量は尋常ではなくなっているのだと、他人事のように呂布は思っていた。

そしてそのまま崩れ落ちるように、呂布は倒れた。

「……これで良かったのですか、王異さん」

陳宮の護衛を任されていた王美人は、心配そうに呂布を見つめて言う。

だがおぞましい事が起こった

胸を刺され倒れた呂布が起き上がり

「はあ、やれやれまあこんな事だろうとは思ったが」

死ぬくらいの血液が出ていたはずだが顔色すらも変わらず呂布は普通に声を出していたのだ。

刺された部分に手を当てて

「『かのものに大いなる癒しの力を』キュアライト」

傷口に手を触れたまま詠唱を唱えると、みるみると刺された跡が消えていった。

「……え?」

目の前で起きた事に陳宮は思考が追いつかなかったが、呂布は気にせずいる。

呂布の身に何が起きたのかは分からないが、確かに胸に剣が貫通していたはずなのに今はそんな事は無かったかのように平然としている。

「ど、どうして!?貴方は剣で貫かれたんですよ!!なんて平然としていられるんですか!?」

「あ、俺、歳を取らないし、死ぬことも無いんで」

さらっととんでもない事を言われ、陳宮は再び固まってしまう。

呂布の説明によれば、この世界の人間は全員魔法的な力を持っており、人によって使える能力が違うのだが、呂布の場合全ての魔法の能力を使えるらしく死なない事もそのせいだそうだ。ついでに老化もしないので不治の病にもかからないらしい。

「まあいいや。陣宮?あとでお仕置ね」

呂布は何事も無かった様に起き上がると、剣を抜いて放り投げる。

王美人が慌ててその剣を受け取ると、陳宮のそばを離れる。

陳宮は改めて、呂布の実力を目の当たりにする事になった。

その瞬間、陳宮は自分の中の価値観が音を立てて崩壊していくのを感じた。

曹操軍には陳宮ほどの天才軍師はいなかった。軍師は軍全体を見て采配を行うものであって、個人に偏ってはならないものであると言う考え方もあったためでもあるし、陳宮自身がまだ幼かった事もある。

だが、陳宮の目の前にいる人物は、間違いなく今まで会った人間の中で最強にして最高の存在であった。

曹操軍は陳宮軍よりも、おそらく質としては遥かに劣るだろう。それどころか曹操軍と比べれば徐州軍は脆弱極まりなく、数だけの雑兵と言っても過言ではない程に人材に乏しいと言える。

それでも曹操軍を退けたと言うのであれば、それは単純に呂布の力が凄まじいと言うだけで片付けられないものなのだと陳宮は今更ながらに思い知る。

陳宮は今すぐにでも膝を突いて呂布への降伏の意を表したい衝動に襲われるが、それはしてはならない事だと必死に自分を律する。今の自分にある力は陳宮にとって唯一無二の力である。

呂布は自分が何をしたとしても、それを受け入れてくれるかもしれない。しかし自分はそれを受け入れる訳にはいかないのだ。

今ここで降伏したら、これまでの自分の努力を無駄にしてしまう。呂布と共に戦ってきたのは無意味な戦いではなく、勝利するための戦略を練り上げてきた。

今はまだその時ではない。今この時に、全てを懸けるべき相手は他に存在する。

呂布は馬に跨ると、呂布に向かって来ようとする夏侯惇を抑える。

呂布は夏侯惇を止めて、呂布と向かい合う形になっている李儒を見る。

李儒は少し意外そうな表情をしているが、それが逆に余裕の表れの様にも見えた。

「……奉先?」

呆然と立ち尽くしたままの李儒を庇うようにして、馬に乗った男が現れる。その男は曹操軍にはいないが、どこか見覚えのある姿だった。

だがそれも当然であり、曹操軍が徐州へ侵攻した際に真っ先に迎撃に向かったのは呂布だったのだ。そして、その後に劉備達もやって来た。その為に呂布は劉備の顔を知らないはずが無い。

その男の外見の特徴だけを言うならば、黒髪のおかっぱ頭をした美男子と言っていい風貌であり、年齢は二十代前半といったところであろうか。

「お前……劉備じゃないか!」

驚いた呂布の言葉に対して劉備は微笑むだけだったが、陳宮はようやく思い出す。

かつて呂布が袁紹との戦いにおいて、袁術の配下に降った際に捕らえた人質だったのだ。

その捕虜の中にいたはずの劉備の姿が見当たらないと思っていたが、やはり呂布と一緒だったようだ。呂布は劉備との再会に喜びたい所ではあったが、李儒の事を考えなければならない。

李儒は呂布が張飛と一緒に捕らえられた時に張飛の説得を行い、そのまま味方に付けた人物である。

その後呂布が捕らえられてからの消息は不明であったが、どうやら呂布と同行していたらしい。

そして、その劉備は敵側の武将であったわけだ。劉備は李儒の前に立つと、手に持つ矛を突きつける。

「久しぶりだな、李儒」

その声を聞いた陳宮は驚きを隠せなかった。

張飛の話では、その劉備と言う人物はかなりの間投獄されていたらしい。にも関わらず李儒は面識があるような口振りで話しかけている。

それにその男が本当に呂布を裏切ったのだとすれば、呂布に気付かれない内にその呂布の命を狙う事も出来たはずである。

だが、呂布はそうではなかった事に疑問を感じつつも、呂布にとっては重要な事は別にあった。

この場に現れたと言う事であれば、すでに劉備の正体が呂布の知っている通りの人物であった場合、それは大きな問題となってくる。

「まさか貴様がそうだったとは思わなかったぞ、玄徳」

呂布は剣を構える。「俺はそうであって欲しくなかったんだけどね……」

劉備は苦笑いを浮かべる。

この世界では呂布に限らず、ほとんどの人間が魔法を使う事が出来るのだが、中には例外も存在する。それが、ごくまれに現れる特殊な力を持つ者。例えば仙人などは、まさにそういう存在だろう。

ただし、その仙人と言うのも普通の人よりは優れた能力を持っている程度の認識しかない。呂布のようにあらゆる魔法を使いこなす様な、圧倒的な力を持ち合わせてはいない。

そもそもこの世界の人間に、魔法的な能力は最初から備わっているものではあるが、その強さには限界が存在する。

この世の全てを知る賢者でも、すべての魔法を完全に使いこなせるわけではない。魔法にも相性があり、得意不得意とするものがある。もちろんそれは個人差によるところもあるのだが、全ての魔法を極める事は難しい。ただ単に魔法が使えると言うのであれば、それこそ徐州にも何人かいるだろう。呂布が異常過ぎるだけであり、他の者達が劣っていると言う訳ではない。

そんな訳で、魔法使いであっても全ての魔法の真髄を理解している者は稀であり、それを扱えるようになるまでには相当の修練が必要とされ、実際にその域に達する事が出来ずに挫折する者も多いと言う。

そんな中で、生まれつき魔力を持たずに生まれて来たと言う伝説上の存在があった。それが『気』と呼ばれる力を持った人々である。

本来持つ事のない異質の力で、彼らはどんなに努力しても通常の人間が持つ以上の効果を得る事は無かったとされている。

歴史上最強の呼び名が高い武神関羽、曹操軍から離反した軍師龐士元でさえ使えないと言われるその力で、今目の前にいる青年は立っていた。「どうしてここに?……いや、その前になんで俺を助けてくれたんだ?」

「助けたつもりはないよ、奉先殿」

劉備は穏やかな笑みをたたえたまま答える。呂布は不思議と嫌味を感じる言葉だったと思ったものの、劉備の真意はわからない。それでも劉備が現れた事には大きな意味があるように感じられた。

「劉備は俺達の陣営に来たのか?」

陳宮の質問に、劉備ではなく王美人が答えた。

「はい。あの時私は兄さんが捕まった事で気が動転して、何が起こっているかもわからず、とにかく呂布将軍の身の安全を保証してくれればそれで良いと言ったのですが、何故か兄は私の事を見逃してくれたんです。それからずっと呂布将軍の元に居ましたが、私達の目的はあくまで天下を平定する事だったのですが、呂布将軍はその手助けをしてくれると言い出しまして。さっきまで徐州軍と行動を共にしていたのですが、呂布将軍は陳宮殿に会いに行くと言われて……その途中で張飛が襲いかかって来たのを見て、加勢に入りました」

「なんだよ、それじゃあやっぱり助けてくれてるじゃないか。礼を言わなきゃいけないのはこちらの方だ」

「いいえ、違います。私が助かったのではなくて、兄が……劉備が救ってくれたのは呂布将……奉先様です」

呂布と会話している間も、李儒を睨む劉備の視線は厳しい。

「はあ……君は……本当に」

劉備は矛を李儒に向けて言う。

「久しぶりだな、李儒。相変わらず憎たらしそうな顔をしていて安心したぜ」

劉備は以前、李儒によって捕らえられていた事がある。その時の事を思い返せば、李儒が劉備の表情が歪む程怒り心頭になってもおかしくない状況だった。

だが、李儒の反応は違った。

李儒はまるで劉備がいなかったかのように振る舞い始めたのだ。

「おや、どちら様ですか?」

李儒は笑顔のまま、李儒に向かって歩み寄ってくる劉備に問いかける。

その瞬間、呂布と陳宮と高順が動く。だが劉備の背中に張飛と趙雲が構え、その行く手を阻もうとする。

陳宮と呂布が劉備を止める為に踏み出した瞬間、二人共何かに弾かれた様に飛ばされる。おそらく関羽が張飛と同じ雷電の術を使用したものと思われるが、その一瞬の出来事で劉備と李儒を除く全員が武器を向け合う形となった。

劉備は剣を構えながら、ゆっくりと李儒の方に近付いて来る。

劉備は確かに剣の扱いを得意としているし、それは張飛よりも上手と言えるかも知れない。ただし、李儒はそれよりも遥かに上であり、さらに張飛の方は槍の名手としてもかなりの実力者で、しかも李儒には敵わないまでもそれなりの実力を持っていた。

そんな張飛より腕の立つ劉備であれば互角に戦えるはずだが、どうにも様子がおかしい。

呂布には劉備の戦う姿が不自然に見えるのだ。

劉備の動きは悪くないし、むしろ速い方だろう。しかし李儒の攻撃をかいくぐって攻撃すると言うよりは、ひたすら守勢に回っていると言う方が近い動きに思える。

だが、その守りの姿勢も奇妙である。呂布であればいくらでも反撃の機会はありそうだったのだが、劉備はそれをしなかった。

あるいはわざとそうしていたのか、とも思ったのだが、そうであれば守る意味もないはずである。

呂布の見る限り、この場で一番危険だとされているのは呂布自身だろう。劉備にしろ王美人にしろ、戦闘能力では陳宮や関羽達に劣る。

だからと言って関羽達は手加減などしてくれないだろうから、もし本気で殺しにかかられていれば今のこの膠着状態にはなっていなかったはずなのだ。

それに関羽達が本気になれば、すぐに決着がつく。

にもかかわらず、関羽は張飛を抑え、劉備も趙雲を相手にしながらも呂布の首を取ろうとしない。

それは何故なのか、と呂布は思う。

そもそもなぜこんなところで争い合いをしなければならないのか。

この男ならきっとわかっているのではないか、と思う。

「なぁ、玄徳」

そんな事を考えながらも、呂布は声をかけた。

その呂布の声を聞いた途端、李儒の顔色が変わる。今まではいかにもその腹黒い性格を表したような笑顔であったのに、今では別人のように顔が歪み始める。

それでも、やはりどこかで見た事のある様な笑い方の変わりかたである。

それは呂布が初めて会うはずの人物のはずであったが、不思議とその違和感を感じる事はなかった。

「何だ?奉先殿」

呂布に声をかけられた劉備は、李儒に斬りかかるでもなく、相変わらずのんびりとした調子で答える。

いや、呂布だけでなくその場にいる誰もが、劉備のその行動に対して驚きを禁じ得なかった。

李儒もまた、劉備の行動の意味するところが全くわからないらしく、先ほどまでの余裕の笑みは完全に消え去っていた。

そして李儒は劉備を睨みつけ、怒号を発する。

「劉備!今すぐそいつから離れてこっちへ来い!」

先程までは丁寧な口調だったのに、それが一変して粗暴な命令口調になっている。

それでも劉備は、のほほんとしている。

「どうして?お前に言われるまま離れる義理はないぞ」

劉備はあくまでも落ち着いた声で答え、李儒の怒りをさらに煽る。

「いいから早くしろ、殺すよ?」

「殺せるものならやってみろ。俺が死んだら困るのは、誰だと思う?」

劉備の言葉に、呂布達の方が動揺してしまう。

陳宮は眉をひそめ、高順でさえ目を丸くしている。呂布とて同様だったが、呂布は陳宮達とは違い、その理由に気づいてしまった。この二人は似ているのだ。それも悪い意味で、と呂布は直感的に悟った。

見た目の容姿とかではない。外見だけで言えば、おそらく劉備の方が圧倒的に女性受けが良いだろうし、呂布とて劉備の様に美男子とは言い難いが、人並み以上には良いと自負している。

そうではなく内面が似ているのだ。

言葉遣いもそうだが、その立ち居振る舞いも、人を喰うとしか言いようのない策謀も、相手を小馬鹿にした言動も、全てが似通っている。

ただ、劉備と李儒が決定的に違うところがあるとすれば、その心根だ。劉備には邪悪と言うものが感じられないし、それ故に悪意を持って他者を傷つけようとする事もなければ他人を踏み台にしてまで自分の望みを遂げようとも考えていない。つまり、人としての器の大きさが根本的に異なるのだ。

そんな違いはあるのだが、だからこそ劉備は李儒と反目するのだ。李儒と敵対しようとするのであれば、呂布陣営に加わるより他に道がなかったと思わせる為である。

「そんな戯言が通じるとでも?」

李儒はまだ落ち着きを取り戻してはいない。

「まあ、待ってくれないか。俺はちょっと話があって来たんだ。少しばかり時間もらっても良いかな?」

劉備は呂布の方を向いて言う。

まるで呂布の言葉を代弁するかのように劉備が言っているので、呂布としては黙って従う他ない。少なくとも今は。

劉備がこちら側に寝返ればそれで済む問題なのだが、さすがに劉備を信用する事は難しい。

劉備の事をよく知らない陳宮や高順が警戒するのは当然として、関羽や張飛に至っては最初から劉備の事は疑っていた。趙雲と馬超も似たようなものだが、彼らよりはいくらかマシといった程度で、張飛より遥かに落ち着いてはいたが、それでも李儒の事を気にしていた。

結局、李儒を除く全員が呂布の方を見ている。李儒は怒りの矛先が逸れた事で幾分か冷静になったのか、劉備に対する嫌悪感を押し殺した様に、鋭い視線だけを呂布に向けてくる。

「じゃ、行こうか」

劉備は呂布の手を取る。

「えっ?あっ、あの……」

「奉先殿、細かい話は後でゆっくり聞かせてもらうよ」

劉備は戸惑っている呂布に有無も言わさず歩き出す。

この場に取り残された形となった他の者達だが、呂布が連れて行かれると言う異常事態を前にしては、誰も口を挟む事が出来ない。劉備は陳宮に一礼すると、そのままその場を離れていく。その後を追う形で、関羽や陳宮達が続いた。

陳宮や関羽、それに呂布は劉備から一定の距離を取りつつ歩いて行く。

それは関羽や陳宮にとっては劉備の背中を守るという行為でもあるのだが、呂布に関しては事情が異なる。呂布はいつでも劉備に襲いかかれる状態でなければならない。その為、関羽や陳宮とは逆に呂布と張飛の距離は離れていた。

張飛はその状態に不満らしく、呂布を憎々しげに睨んでいる。張飛も趙雲も相当な手練れである上に、どちらも武勇において名を成して来た猛者である。そんな二人の殺気を受けながら歩くなど尋常な神経では出来るはずもない。

その張飛の前に、趙雲が立ち塞がる。

「お初に御目に掛かります。我が名は趙子龍。天の御使いと共に戦う者です」

趙雲は礼儀正しく挨拶をするが、それは同時に威嚇の意味を含んでいる。

張飛に趙雲ほどの武人が敵わぬ事は無いが、まともにやり合えば無傷で勝てる相手でもない。しかも今の状況では手加減など望むべくもなく、確実に命のやり取りになるだろう。そうなると下手に手出しは出来なくなるはずなので、あえて挑発しているのだ。

案の定、張飛は苛立っている様だった。

「退け」

と、張飛は低い声で脅す。

「劉備殿から手を引けば退きましょう」

しかし、それを無視して尚も牽制し続ける。

「お前、いい度胸だな。今すぐここでぶっ殺してやる!」

そう言いながら腰に提げていた得物を掴むが、そこに趙雲は間合いを詰めて槍を突き入れる。

それをかわそうとした張飛の動きに合わせて槍を繰り出す。もちろん、それを避けると次の攻撃が来る様な、絶妙な動きだった。張飛は仕方なく双節棍で受ける。

戟に比べると、長さも重さもある武器だけに一撃は重いのだが、それが当たらなければただの棒きれと同じである。

それでも、趙雲の攻撃を防いでいる辺り、さすがとしか言いようがない。もし張飛が力任せに得物を扱っていれば、簡単に振り回されて致命的な隙を作る事になっただろう。

呂布もその攻防を横目で見ていたが、その見事な技の冴えには感嘆した。

これまで呂布は数々の強敵を屠ってきたが、趙雲の様な実力を持つ者は数えるほどしかいない。おそらく今の趙雲の実力なら呂布にも匹敵するだろう。

張飛の方もかなりの実力者であり、少なくともこの場にいる武将の中では頭一つ抜けていると言って良いだろう。だが、趙雲はそれを上回る技量を持っているのだ。

おそらくこの男であれば、この乱世においても十分に名を馳せるであろうし、何より人としても信用が出来る。そう思わせるだけの器をこの男は持っているのだ。

それだけでなく、趙雲には他者への敬意があった。たとえその相手が敵対する存在であっても、自分より遥かに格上の人物であるのなら素直に敬い称える。そんな人格が滲み出ているのだ。

それに比べ、と呂布は思う。あの傲慢で粗暴な態度の男と比べれば、どちらに軍配が上がるかは言うまでも無い。

「おい、呂布!いつまでついて来るつもりだ?」

張飛が振り返らずに怒鳴りつける。すでにこの二人の間には十歩以上の間隔が空いているのだが、それでも声が通ってしまうのだから相当の声量である。

もっとも、劉備の手前、大っぴらに争う事も出来ないので、これ以上距離を縮める事が出来ないので呂布にしてみれば好都合でもあった。

それに、張飛に付き従う様に歩いている劉備と高順だが、さすがに呂布もそちらへは近づけない。高順にしても警戒心を抱いている以上、劉備に対しても高順並みの警戒をしている。それはすなわち張飛と同程度の脅威と見てよいと言う事になる。

「たく張飛は俺が何をしたって言うんだ?前までは呂布将軍って言ってたくせにさ」

呂布は溜息混じりに愚痴を言う。

劉備は苦笑いするしかない。

確かに劉備は呂布が嫌いだったが、それは単純に呂布個人に対する嫌悪感ではない。

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