第5話

「この場で退いたとして、いずれ曹操の手勢に攻め込まれる事になります。そうなれば我々は挟撃されるだけでなく、後方は崖になっており撤退出来なくなりましょう。そうなる前に兵を退き、防備を固める必要があります」

陳宮は呂布を説得したが、それに対して呂布の反応は冷たかった。

「この期に及んで兵を退けば、曹操の口実を与えてしまう事になる。またここで兵を引けば、我々に恐れをなしたと言われかねない。それではこの徐州を取る資格は無いぞ、文遠。父上の名誉にも関わる問題だからな」

「呂布将軍のおっしゃる通り、この好機を逃す事は出来ない。ここで兵を退いてしまったら、もう二度とこの様な好機に恵まれる事は無くなるだろう。私は反対だが、奉先様の意見も分かる。どうしたものか……」

「私には判断が出来ません。将軍達のお考えをお聞かせ下さい。この危機を乗り切る為に必要な事でしたら、私が独断で決めるよりも将軍方の御意見を聞いた方が良いでしょう」

高順と李粛は揃って呂布に反論した。

特に李克用と魏続は最初から呂布の考えに賛成しており、呂布に対して反感を抱いている訳ではない。この場に居ない楽進、于禁にしても反対意見を述べるどころかどちらが良いかを尋ねても答えようがない状況なので、呂布は仕方なく全員の意見を聞く事に決めた。

まず、呂布の義母である呂氏の安全の確保を最優先とした。

これに関しては、呂布の義兄である丁原の未亡人である呂夫人が徐州城に留まっていれば済む話であった。

問題はその先の曹操軍への対応であるが、呂布としてはこのままでは徐州を取ったとしてもその後の維持が困難になる事を憂慮した。

曹操は天下に覇を唱える人物である以上、その野心も強大で残忍でもある。もし万が一、徐州の民をも虐殺するような事があればこの土地に住む人々の全てが曹操に憎悪を抱き、反曹操の旗を上げる事も考えられる。曹操軍を打ち破った後ならともかく、この曹操の徐州侵攻の最中にそのような混乱が起こってしまうと、この隙に乗じて曹操軍が攻め込んでくる危険性がある。

それにこのままでは呂布軍のみで曹操軍と戦う事になるが、それはあまりに無謀と言えた。曹操軍は精兵揃いであり、まともにぶつかって勝てる相手ではない。せめて徐州城の守りの兵が戻ってくるまでの時間稼ぎをする必要があった。

その為に呂布は曹操からの要求を受け入れる事を決めた。

ただし要求を受け入れただけでは、呂布達が逃げる為に時間を稼ぐ事は難しいと言う事になった。曹操が徐州城に大軍を差し向けて来ない理由が分からないからである。曹操の本心が見えない以上、呂布達は逃げ延びる事が出来るかもしれないが、曹操に討ち取られる可能性もある。それに徐州城を包囲しているのが曹操の本隊とは限らない。

曹操が徐州城に兵を向けた場合、その兵力は呂布達より遥かに多いと言う事である。その場合、呂布は陳宮の進言通りに兵を退くしか無く、呂布は呂布軍の命運はそこまでと諦めざるを得ないのである。

陳宮のその言葉を聞いて、呂布は悩む。

陳宮は曹操を恐れていないらしい。と言うより、この状況下で曹操を討ち取れる自信が有るように見える。呂布もその点は理解しているし、確かにこの状況ならばそれが不可能とは言い切れない。

しかし、それでも不安が残る。陳宮が口にしたのは、この状況下でもっとも成功率の高い策だった。

「……それで本当に上手く行くのか?」

しばらく考えた呂布は、それでも陳宮の言葉を採用する事にした。その選択がどれほど困難な道かは呂布自身よく分かっているつもりだったが、他に方法が無い事も分かっていた。

そして何よりも、呂布が陳宮を信じていなかった事が最大の問題である。

これまでの戦いの中で、陳宮が失敗をした事は一度も無い。むしろ勝利に導くための布石を打ってきたと言っても過言ではなく、陳宮の行動は常に成功する未来へと導かれているように思える。しかし、それはあくまで結果論であり、そう考えるだけの根拠は何一つなかった。

陳宮の提案する作戦を成功させるには、いくつかの条件をクリアしなければならない。

まず、この提案の信憑性を証明する事。

この案を採用した時、呂布軍は確実に壊滅する恐れがある。それは徐州城を落とす可能性と同時に、呂布や陳宮自身が生還する可能性の低さを意味する。

それを裏付ける物的証拠として、曹操軍に捕らえられていた陳珪と徐恕親子の解放と、曹操に囚われの身となっている陳宮の妹である劉氏が人質である事を示し、呂布と陳宮を曹操軍に引き渡した事を証言させる事が必要だった。

これは当然曹操に気付かれない様に行わなければならない。でなければこの策は実行に移される事は無い。

曹操が徐州城内に兵を入れてくれば、この二点で呂布達に疑いをかける事は出来ないはずだ。曹操の性格を考えれば曹操は曹操でこの二つの要件を満たしてから兵を侵入させるはずなので、それまでは徐州城に籠城する事が可能だった。

次に、陳宮と高順、李粛は陳珪と徐恕の護送の任に当たる。

徐州城に立て籠もるのであれば、高順、李粛は不要とも言えるのだが、二人とも戦闘を得意としており、いざという時に護衛が必要になる可能性がある。

李粛は本来文官な為戦闘能力は高くないが、李粛は武器を扱う技術に長け、馬術にも優れているので陳宮の護衛を任せる事にした。また李克用にもこの役回りを命じ、徐州城に残り守備に徹してもらう。最後に、楽進と于禁、魏続の三名だが、この三人には殿を務めてもらい、敵を引きつけながら退却してもらう。この三人も呂布軍では有数の実力者であり、この役目にはうってつけの人物と言える。特に先頭を切って突撃していく事にかけては天下一品の腕を持つのが呂布の息子、呂布奉先なのだ。

こうしてそれぞれの配置が決まり、いよいよ曹操との決着をつける日が来た。

呂布軍では曹操軍を待ち受ける為の配置が完了していたが、曹操軍はいまだ動きを見せない。曹操軍の目的は呂布軍を撃破する事なので、布陣を終えた後動かないと言うのは明らかに異常である。

だがそれは曹操軍の油断であると考える呂布は曹操軍に対し攻勢に出ようとしたところへ、曹操からの書状が届いた事で呂布の動きは止まる事になった。その内容は陳宮から聞いた通りのもので、曹操は呂布軍と一戦を交えたいと言っているが、徐州城に篭っている者達を無事に返し、降伏を認めなければ呂布軍と戦う気は無い、と言うものである。

曹操が何を考えているか、まったく分からない。

ここで時間を浪費すれば曹操は兵を動かす事なく徐州城に帰還させ、陳宮が提案した策もご破算になってしまう。曹操がこの期に及んで陳宮の策を看破していると言う事も考えられるが、それならなぜ曹操は今すぐに徐州城を襲わないのか、と言う疑問も残る。

どちらにせよ曹操の真意が分からない以上、曹操にこちらの意図を悟られる前に徐州城を守るしかない。呂布達は曹操からの使者が来るのを待ち続けた。

使者はすぐに来た。

曹操の本隊が徐州城に攻め込む前だったので、曹操はあくまでも呂布軍との交渉に終始し、戦う意志を見せていない。しかし、呂布軍がそれを鵜呑みにする訳も無く、陳宮から伝えられた指示通りに呂布は曹操に対して徐州城に呂布本人とその親族、徐州城の民、曹操配下の武将などを全員返すのを条件に曹操軍がこの場から去る事を要求する。

呂布が言った内容は事前に陳宮から伝えられていたので、陳宮はその条件をそのまま曹操に伝える。曹操は少し考えてから返答をする。

「良いだろう」

その答えに陳宮は驚きを隠しきれない。

「……本当に? そんな約束して大丈夫なんですか?」

陳宮は小声で呂布に尋ねる。

呂布としても陳宮同様に驚いているのは間違いなかったが、曹操は呂布軍の内情に詳しい人物でもある。もし万が一、曹操の言っている事が嘘だった場合、呂布軍の兵の多くが殺される事になり、そうなると陳宮の策は成立しない。曹操が呂布の要求を受け入れたのは曹操にとっても好都合だったのだ。

しかし陳宮は納得していないらしく、曹操に向かって条件を追加する。

それは呂布の妻や子供達を解放すると言うものだったが、曹操はそれもあっさり了承した。

これには陳宮だけでなく呂布でさえ驚いたが、それならばと陳宮はさらに付け加える。

徐州城内の呂布の一族は全て人質となっている為に陳宮には手が出せないが、呂布自身の家族だけは安全を確保する必要があると言うのである。呂布の妻子や一族の中には呂布によって殺された者もいるし、陳宮自身その現場に立ち会っており、呂布の家族についても同じように呂布の手によって殺されているのである。それにも関わらず陳宮が人質となっている呂布の子供について言及するのは、それだけ陳宮の復讐心が強い事を示している。

陳宮としては、自分が捕まっている間に起きた事を自分の口から伝える事と、それによって人質を解放してもらえないかと考えていた。

この要求は陳宮も悩んだものの、呂布自身も考えていた事なので提案自体は難しくなかった。ただ、陳宮の言葉は予想外であっただけで。それでも陳宮の提案を聞いた曹操は特に悩む事もなく陳宮の言う事を聞き入れ、呂布の妻と子供に関しては全て解放する事を約束した。

そして呂布軍はついに解放されたのである。

呂布が呂布軍に戻ると、呂布は妻の厳氏を始め、呂布家に関わる全ての者達に陳宮の指示に従うように命令する。

呂布は曹操が信用できないが、陳宮も曹操が信じられないと言う。確かに呂布は呂布軍の中ではもっとも曹操の事を知っている人物であり、実際に曹操と戦った事もあった。だが曹操が呂布軍を本気で殲滅するのであれば、陳宮の策を実行するよりも直接兵を動かした方が確実で被害も少なくて済むはずだ。

曹操はこれまで呂布軍の実力を認めるような素振りを見せてきていたのだから、ここで全軍を以って呂布軍を潰すよりは徐州城を落とす方を優先させるはずだ、というのが陳宮の考えだった。

もちろん陳宮の作戦が成功するかどうかは、やってみなければ分からない。曹操が兵を徐州城に進めてくる事になれば陳宮の策はその時点で水泡に帰すが、その場合は呂布軍のみで戦わなければならない。

その場合でも勝てる見込みはある。高順、李粛、楽進の三人だけでも十分な戦力と言えるのだが、この三人に加えて臧覇がいる。この四人が揃っていれば曹操の軍勢であろうと蹴散らしてくれるに違いないのだが、さすがにそれに頼る事は出来ない。それに楽進、李粛の二将もそれほど武勇に優れている訳ではないのが弱点とも言える。その為、呂布は自ら兵を率いて出撃しなければならないのだが、そうすれば妻達の安全は保証されない。だが、これは覚悟の上だ。

出陣に際して呂布は、留守を守る武将達にいくつかの命じる。

高順は守備として残る事になるが、楽進と李粛は徐州城に残り守備の指揮を取る様に、そして呂布自身は軍を率いて陳留郡の太守である曹豹を討つ、と言う事を伝える。今回の呂布の行動は完全に徐州城から離れると言う事であり、徐州城に篭っている限り陳宮に危険は無いと言って良い。

だが曹操が陳宮の策を看破していた場合は陳宮は間違いなく殺されてしまう。陳宮が死ぬ前に、何としても陳宮から曹操軍に関する情報を引き出す必要があった。だが陳宮を人質に取って尋問しようとすれば、たとえ陳宮と言えども呂布を裏切るかもしれないので、ここは慎重にならざるを得ない。

呂布はまず徐州城に戻り、そこで情報を集めつつ行動を開始する事にした。まずは徐州の民を逃がさなければならない。呂布がこの徐州の地に戻ってきて最初にしたのは、この徐州城の放棄だった。今となってはここが最前線となり、呂布軍が攻め込まれた時の為に城を放棄するのは非常に勇気の要る事だった。それでも、この決断に踏み切れたのには理由がある。

元々この城は小沛という都市を攻める為の拠点として建設されたものであって、決して強固な城ではない。むしろ脆い方に入るぐらいなのだが、それでも陳宮はこの城を決戦の地に選んだのだ。その理由までは分からなかったが、今はそれを頼れる。もしここに籠っていて全滅するような事になっては目も当てられない。

陳宮の言う通りに動けば上手く行くはずなのである。

その自信を持って呂布達は城の外へ出る。

城内に残っている兵士達には城を出る準備だけ整えさせて待機させておくように指示して、呂布はすぐに出発をする。呂布が先頭に立って城を出ようとすると、呂布の前に見慣れぬ男が一人立っていた。

年の頃は呂布と同じくらいに見えるその男は、手に戟を持っている。

呂布が警戒して足を止めると、男も同じように呂布を警戒しているようだった。

「呂布将軍。私は魏続と申します」

その言葉を聞いて呂布は驚く。

「貴公は……あの時の?」

「覚えていて頂けたとは光栄です」

そう言った後、呂布の脇を抜けて先に馬を進める。

「ついて来てくれ」

呂布が尋ねる間もなく、魏続は先に進む。

「呂布将軍のご命令とは言え、呂布将軍の妻女や親族の方々を見捨てなければならないのが口惜しく思いまして」

曹操軍の兵や、陳宮軍と思われる兵の姿を見ながら陳宮が呂布の妻や子供を逃がしてくれた事が分かる。

「私も残念ではある。しかし、これが最善の手であったのだ。どうか分かって欲しい」

「分かっているつもりです。我々にとっては陳宮軍など、所詮は異民族にしか過ぎません。いくら策に優れていようともその程度の者に、我が軍は敗れたりはしませんよ。この私の指揮する大軍の前ではね!」

陳宮に対しての対抗心もあるのか、魏続は自信たっぷりな態度で言う。

確かに魏続の率いる兵力は二千と、陳宮軍よりも多い。

しかもこの兵数のほとんどが歩兵である。

陳宮の言う通り、曹操軍とはまともに戦うべきではないだろう。陳宮と陳宮の軍はその実力を認められてこその軍略家ではあるが、実際に戦場に出た場合、陳宮はおそらく何も出来ずに終わる。そうなれば曹操の圧倒的優位が確定してしまう。

曹操軍は曹操自身が率いる本隊一万と、陳宮が率いていた五千の合計三万人だったが、そのうち七割は曹操自身の直轄部隊である親衛隊と、夏侯惇などの曹操の手足となる武将が率いる軍勢である。曹操軍の主力と言える部隊はせいぜい四、五百といったところだが、それであっても並の武将であれば敵わないほどに強い。陳宮が恐れたのもそれが原因であろう。曹操軍の精鋭を前にすると、いかに名軍師と言えども手の打ち様が無いのではないかと思ってしまう。陳宮が曹操軍に勝つ方法を考えられなかった以上、陳宮軍の敗因もそこにあるのではないかと思う。

陳宮軍よりは少数で、実力でも劣る曹操軍であれば勝利の目はまだ残されていた。

曹操軍主力部隊が到着する前に呂布軍の総力を以て戦い、可能な限り被害を与えながら撤退していくと言う策だったのだが、それは失敗したようだ。

陳宮が考えたと言うより、陳宮が陳宮軍を掌握出来ていなかったせいだと呂布は思う。

確かに呂布は呂布軍を掌握し切れていないと言う自覚はあるが、それを補う為に呂布軍を鼓舞するだけの求心力を持つ李粛がいる。それに李粛には及ばないまでも、楽進や臧覇の武勇にも信頼を置いていた。陳宮は自分が呂布軍を指揮しているつもりだったのかもしれないが、陳宮の才気を生かす環境を整えられておらず、またそれに応える能力も無かったと言う事である。

呂布自身も、自分と陳宮の差がそれほど無いと言う事を知っていたが、その差を埋めてくれる人材がいないと言う事でもある。

もしここに高順がいたらどうなっていただろうか? 呂布はふとそんな事を考える。

高順も呂布同様に優れた武勇を持ちながら、それでいて戦術眼も優れており指揮も巧みだ。さらに高順は豪放な性格なので、兵士からの人望も高い。

陳宮は軍議などで自分の考えを伝えるだけで満足していたが、高順は積極的に作戦立案を行って兵士達を動かしていた。高順ならば陳宮の代わりに全軍の指揮を取っても上手くやる事が出来るだろう。呂布自身、その事は良く知っている。

陳宮が徐州城にいないのなら、呂布軍が徐州城を守る必要は無い。この徐州城を放棄して徐州から兵を退かせるべきなのかも知れない。

この判断が正しいかどうか分からないが、少なくとも呂布が徐州城にいる事で守れる命があるのなら、今はそうすべき時だった。

徐州城を発った呂布軍は曹操軍が布陣している南へ、陳宮軍が集結していた東へと移動する。

陳宮軍が配置されていた小沛城は、小沛城の東南に位置する大沛城の北方に位置している。

この徐州城から南下して徐州の街を抜け、更に徐州城を出て徐州の東へと向かう道が小沛城に通じる最短ルートになる。陳宮軍は小沛城を拠点に、小沛城の南方に小沛城と同等の規模を持つ石城を築いて防衛の拠点としようとしていたらしい。

その小沛城への道の手前には曹豹が籠る城がある。その城には曹操軍主力が既に着陣しており、小沛城に向かって行軍中との事だった。そして小沛城の西には曹操軍の伏兵が待ち受けていて、その城が陳宮の最後の砦となっているそうだ。

呂布達がその話を聞いたのは徐州城の城内であり、小沛城のすぐ近くまで来たところでだった。

曹操軍の目的は、呂布を小沛城に向かわせる事だったのだろう。

曹操軍は呂布が来るまでに陳宮軍を打ち破り、そのまま呂布を追って来るつもりなのだ。

その事に気づいた呂布は慌てて曹操への対策を立てるように陳宮に提案するが、陳宮は既に諦めの境地に達していて聞く耳を持たない。

今となっては曹操軍との戦力比を覆す手立ては無く、このまま進むしかなかった。

そこで呂布は、小沛城内で陳宮軍と合流することにした。

呂布が先頭に立って城門に向かうと、門番をしている兵は一斉に道を開けて敬礼する。

「あ、貴方様は……」

中には呂布の顔を知っている者もいたらしく、兵達は驚いているようだったがそれ以上は口にしなかった。

以前呂布が呂布軍を率いていた時には呂布自身が先ず前線に立ち、兵の士気を高めていた事もあった。

それがいつの間にか陳宮や陳珪が前に出るようになっていたのだから、知らない間に随分印象が変わったものだと自分でも思う。おそらくは曹操との戦を控えた緊張の為だろうと思っていたが、それにしても以前の自分とはあまりにも違う。

ただでさえ目立つ容姿をしていたと言う事もあるのだが、それよりも以前に増した威圧感のような物を感じさせるようになったようだ。

これではまるで呂布ではなく、『鬼神』と呼ばれる赤兎馬に乗って暴れまわっていた時の王允のように思えてしまう。あの頃の自分は本当に荒々しい存在だったと思う。ただ戦場を駆け抜けるだけの武人であり、その先に何を望んでいたのかなど全く分からなかった。

陳宮は相変わらず無表情だが、やはり疲れ切った顔をしていて、目の下には深い隈が出来ている。元々色白の肌なのに、さらに青白くなってしまっている。

陳宮自身もそれを気にしていないようで、むしろその事を歓迎するように言う。

陳宮にとっては死病である肺の疾患が進行してしまった事もさることながら、陳宮軍を率いる事が出来なかった方が悔しいようである。

しかし、それももう限界のように見える。陳宮自身は平静を装っているつもりではあるようなのだが、もはやまともに立って歩く事すらままならない状態である事を呂布は見抜いてしまった。もし陳宮がいなくなれば、陳宮軍が瓦解するのは目に見えている。

そう思いながらも呂布はその事を口にせず、曹操軍との戦闘に備える様に陳宮軍に声をかけると、陳宮は無言で軍を動かす。

呂布軍二千五百に対し、陳宮軍五千人である。兵力としては同等ではあっても数的不利を抱えている。それを補う為にも小沛城を守る必要が出てくる。

呂布軍の総力を持っての曹操軍迎撃、と言う陳宮の考えは変わっていないようだ。それどころかこの一戦を最期の戦いにするつもりなのかもしれない。それならばそれで良いのかもしれないが、そうなれば呂布軍の勝ちは無いのかもしれない。

それでも戦うしかないのだ。小沛城に入るや否や、呂布は陳宮軍の指揮を任されたので、早速出陣する事にした。

城を出る時に呂布は李粛に声をかける。

今回の戦闘は呂布軍に取っては敗北となるのは確実である為、せめて被害を出さないようにするべきだと伝えた。呂布軍の中でも精鋭と言える部隊を温存させておきたいところだが、その部隊に城の防衛を任せても守るだけで何も出来ない事は分かっていた。ならば最初から出撃しておいて少しでも敵の戦力を削っておく方が良いと思ったからだ。

また、その部隊には張遼も入れておくように指示しておく。

そして全軍に通達すると、呂布は騎馬隊を率いて出撃した。

城から出ようとした時、突然呂布の前に人影が立ち塞がった。

それは高順だった。

「高順?」

驚く呂布の前で、高順は深々と頭を下げる。

陳宮の指示なのだろうか? 高順の唐突な行動が分からない。

そう思った時、呂布の背後から声が聞こえる。

振り返った呂布は驚いた。

そこには陳宮の姿があった。

高順と同じく、陳宮も呂布に対して膝をつく。呂布が慌てて止めようとすると、陳宮は首を横に振る。

これは曹操との内通が発覚して罰を受けると言うのではなく、純粋に敬意を表しているらしい。

高順と陳宮の意図が分からないものの、二人に頭を下げられたままにされるわけにもいかない。

とりあえず呂布が立つように促すと、二人は立ち上がる。

「ご指示通り、城を出て参りました」

陳宮が言った。

どうやら陳宮が、この場で何かをしろとでも言い出したらしい。

呂布にはその意味が全く理解出来ず、思わず陳宮に説明を求める様な視線を送ってしまう。

が、陳宮の方は呂布の方を向いたまま微動だにしない。

その瞳には、いつもとは違う強い意思が感じられる。おそらく陳宮は、この時の為に体調を戻して準備していたのだろう。

陳宮がこれから何を言い出すのかまったく予想できなかったのだが、不思議とその言葉を待つ気になった。

陳宮は一度大きく息を吸い込む。そして、一気に話し始めた。

その内容は曹操軍への対処に関するもので、その内容自体は呂布達がすでに検討したものと同じだった。

ただ、陳宮はこう続けた。

小沛城を防衛するだけであれば、呂布軍が全力を以って攻撃を加えれば十分に勝機がある。しかしそれでは徐州城の留守を守れないだけでなく、徐州城に籠っていては曹操軍による包囲網を突破して徐州城へ到達されてしまう恐れがある。そこで呂布軍は徐州城に留まって曹操軍を迎え撃つ。その間に小沛城の防備を固め、陳宮軍は徐州城内にて曹操軍主力を待ち受ける。曹操軍の主力を撃破して徐州城内に攻め込んだ曹操軍を、小沛城内の陳宮軍と呂布軍が挟み撃ちにする。

呂布軍と陳宮軍の両方が勝利出来る唯一の作戦であり、小沛城での防衛戦と曹操軍本隊に対する包囲戦と言う二重の策になる。

呂布軍が勝利を得る事が出来る確率は、他の策よりはるかに高いと思われる。

陳宮の話を聞き終えた呂布だったが、特に意見は無い。

元々呂布軍は城外で曹操軍を撃破するつもりでいたため、小沛城に留まる事になるにしても守備に専念すると言う意味において大きな問題にはならないだろう。

むしろ問題は曹操軍との戦いで陳宮軍が遅れを取らないかどうかであるのだが、これについてはもう心配していない。今の陳宮は以前とはまるで別人のように活力を取り戻しており、先程までの弱々しい姿はまるで嘘のようだった。おそらくこれこそが陳宮本来の姿なのだろう。

その陳宮は呂布の反応を見て、次の言葉を待っている。

「それで、俺は何をすればいいんだ?」

陳宮の言う事なら無条件で従うつもりだったのだが、俺呂布は少し焦りもあったのだ。これまで呂布は陳宮の言う事に従って戦ってきた事で大きな戦功をあげる事が出来たし、その事については今でも疑っていない。

しかし今回の事に関しては、陳宮は呂布に頼る事をしなかった。

もちろんそれが呂布の力を見込んでの事なのかも知れないが、それでも呂布としては陳宮の期待に応えられなかった事に不安を感じているのだ。

陳宮の事を誰よりも信頼し、頼りにしているのだから当然かもしれない。

だからこそ陳宮の口からその答えを聞くまでは、自分が何をして良いのか分からないでいた。

陳宮は小さく笑うと、ゆっくりと答える。

「何も。呂布将軍はただそこにいてくれさえいれば、それで十分なのです」

言われてから、初めて気づいた。

そうか、そういう事なのか。

この場に立っていろ、という事は呂布の傍にいてくれるだけで十分だと陳宮は言っているのだ。

それはつまり、呂布自身が陳宮の信頼に応える事を意味している。

この程度の簡単な指示も満足に出来なかった自分に、陳宮はもう一度機会を与えてくれたのだ。

それだけで呂布の心は決まった。

俺はこの場にいていざとなったら皆を助けに行けば良いということ。そしてその為に必要な力は今、ここにある。

ならば迷う必要など無いではないか! 呂布の胸中を読んだかのように、陳宮は大きく笑みを浮かべた。

そう、呂布はここにいるだけで良かった。あとは全て、この天才がやってくれる。

それは今までの陳宮からは考えられない自信の表れだった。陳宮の表情は普段通り不敵なものではあったが、どこかに呂布に心を許している様子が感じられた。おそらくそれは陳宮も無意識のものだろう。でなければ、あんなに自然に笑顔を作る事も出来ないはずだ。

陳宮は軍師であり、感情の乱れは戦術や戦略の失敗に繋がる要因になりかねない。だが陳宮の場合はそうではない。

あの日、陳宮は自分の身を守る為に呂布に対して土下座をした。あれ以来、呂布に対してのみ陳宮は自然体を見せられるようになっている気がする。もしかするとそれは軍師の資質として重要な能力なのではないかと思うが、それは本人にしか分からない事でもある。

陳宮は呂布に礼を言うと、すぐに軍の指揮に移る為、小沛城へと向かった。

それを見送ると、呂布軍の諸将が集まる。

「奉先よぉ」

高順が声をかけてきた。

高順にしてみれば呂布が戦場に出ると言わなかった時点で嫌な予感がしていたらしく、案の定と言ったところらしい。

高順だけではなく、張遼なども不満げに見える辺りは、呂布の性格をよく理解していると言える。高順が声をかけて来なければ、自分も文句を言っていた所であろう。

おそらく、呂布軍に何かあった時の為にこの三人を残せと言うのが陳宮の策なのだろうから。それぐらい、自分で気づけと言うことなのだ。

それに気づかず騒いでいたのでは、本当にお粗末すぎると言うものだ。

そんな呂布の内心を分かってくれたのか、高順達はそれほど機嫌が悪い訳でもなさそうだ。

さすがにここまで陳宮の策に乗って来ただけあって、最低限の節度や分別を持っているらしい。

呂布は苦笑いしながら、これからの行動について話す。

呂布軍はこのまま小沛城へ入り、曹操軍に備える事になった。

「はあ、こんなことになるなんてな」

呂布軍の主力を集めた小沛城への入城の途中、臧覇が大きくため息をつく。

「こうなった以上、仕方ないでしょう。俺達は言われた通りにする事ですよ。小沛城に入るくらいでしたら、俺たちにも出来ます。むしろ、それ以上の事をするのは難しいと思いますがね。小沛城の城門を守って曹操軍を食い止める事だけを考えましょう。呂布将軍の武勇を持ってすれば、それほど難しい事でも無いでしょうし」

魏続がそう言うと、侯成も大きくうなずく。

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