第4話

呂布がこの場を取り仕切るのは筋違いであり、自分は呂布の配下に過ぎなく、あくまで指示に従う立場であり、その言葉の意味を理解する事しか出来ない。そう訴えかけているように見えた。

そう言われてしまうと、呂布としても何も言えないのだが。

徐州の兵達をどう鎮めるか、それも大きな問題であった。

そもそも、呂布はこの戦に勝ちたくはなかった。負けるつもりではなかったが、勝ちすぎない方が良いと思っていた。

それは徐州の民の事を考えるなら、曹操を降せるならそれで良いと思っている。また劉備達の事を考えれば徐州の兵を死なせないと言うのであれば、この戦は勝つべきではない。

しかし現実問題としてすでに徐州兵達は戦闘態勢に入っており、今さら中止にしたところで簡単には引いてくれそうにはない。

この徐州兵達が徐州の為に戦う義理は無いはずなのだが、呂布の為とあらば喜んで戦うつもりのようだ。

呂布は考える。自分がこの場に現れなければ曹操は退散してくれるだろうか? もし曹操がその気なら曹操は呂布を待つだろうが、この人数差で勝てるとは到底思えない。それは徐州兵だけでなく曹操軍の兵士も同じ事で、数的優位が無くなった時点で曹操軍の士気がどれほどのものか分からないが、それでも一兵卒に至るまで戦う覚悟はあるようだ。この兵達は間違いなく死ぬ事になる。そこまで考えた時、呂布の思考が止まった。

自分の為に、目の前の大勢の人間が死んでいく。しかも、その死の原因は他ならぬ呂布にあるのだ。その光景を思い浮かべただけで身が震えてくる。

徐州の民が、劉備や関羽が、呂布に付いてくると言ってくれた全ての人々が、曹操によって殺されていく様子を思い描く。それだけで血の気が引き、心臓が握り潰されるような感覚に陥る。

呂布は慌てて両手で胸を押さえると、呼吸を整える。

このまま曹操を放置する事など考えられない。必ず討ち取る。それが、呂布の出した結論だった。

そう決めてしまえば、迷う必要は無い。

呂布は深呼吸すると、徐州兵の方を見る。

「これより、敵を討つ!」

呂布の宣言に徐州兵が歓声を上げる。

「劉備殿、関羽殿、張飛殿、どうか俺を信じて頂きたい」

「あ、え、は、はい」

突然話を振られた関羽は戸惑いながらも返事をする。

劉備は関羽の陰に隠れるようにしていたので、呂布の目に映っていなかったのだろう。

「俺は曹操と戦います。その戦いは長引くでしょうし、場合によっては曹操軍との戦いが終わった後に残党狩りを行う事にもなるかもしれません。その全てを任せる事になりますが、ご了承下さい」

呂布の言葉に、劉備は少し考えてから答える。

「呂布将軍が私達に戦いを任せてくれると仰るなら、それは是非もない事です。それに我々は最初からそのつもりだったのです」

劉備の言葉には迷いが無かった。

「張遼はここに残って指揮を取ってくれ。お前がここを離れる事は絶対に無いように頼む」

「分かりました」

張遼は即座に承諾する。

張遼も武将なので戦場での勘所は心得ているのだが、徐州兵と徐州軍は違うものだと考えてもらいたいところである。だが、呂布はそれ以上の言葉を挟まなかった。呂布の指示に従いさえすれば間違いが無いと言う信頼なのか、もしくは張遼自身も不安があるのか判断出来なかったからだ。

ただ張遼も漢の武将、それも名門高順家の出であり、その武名も広く知られている人物である。呂布も信じて任せるしかない。

張遼を残して徐州軍と曹操軍は向き合う。兵力はほぼ互角、ただしこちらは無傷で相手はまだ多少なりとも損害が出ているはずだが、徐州兵は疲労も感じさせないほど意気軒昂としている。

呂布はその勢いを止めるべく声を上げた。

呂布の声が徐州軍に響き渡ると同時に、両軍が動き出す。

数の上では徐州軍が有利ではあるが、曹操軍の練度の高さは尋常ではない事が伝わってきている。対陣して初めて呂布は曹操の本当の実力を知る事になった。

曹操は自らの武勇に頼らずに、部下の能力を最大限活用する方法を知っているらしい。おそらくはその為の軍師が存在しているのだろう。その点では呂布は劣っていると言う事でもある。

しかしだからといって呂布は怯む事無く戦えるし、恐れる理由も無い。曹操の能力が高いからと言って、それに匹敵する実力を持っているとは限らない。

それに何より、今は徐州の兵がいる。

呂布は槍を振り回し、次々と敵をなぎ倒していく。それを見た徐州兵達からも勇猛果敢に攻めかかるが、曹操軍は冷静さを失わずに的確に対処してくる。

張遼と徐州軍は、曹操軍を分断する形で動いている。

いかに曹操軍と言えど、呂布を相手にしていては背後からの奇襲を防ぐ事は出来ないだろう。

その隙に張遼の指揮する徐州兵達が、呂布の側から離れるようにして移動する。そして、徐州軍は曹操軍を横合いから攻め立てようとした。

その時、曹操軍の後方から大きな火柱が上がる。

曹操軍本陣で何かあったと見て良いのだが、そちらに向かって徐州兵を向かわせる訳にもいかない。

そう思った時、呂布の眼前に馬を走らせる人影が現れる。

華雄だ。

曹操軍の精鋭の一人であり、董卓の親衛隊にいた頃から名を知られていた。その名声が袁紹によって買い取られ、曹操の元へやってきたと言う話だった。

そんな人物がなぜこちらにやって来たのか分からなかったが、それはすぐに理解出来た。

曹操の側から離れているとはいえ、呂布の側には関羽、張飛、趙雲が付き従っていた。三将はいずれも曹操が手放そうとしない豪傑揃いであり、曹操は曹操でもその三人を放置できるはずがなかったのだ。

それでも呂布としてはありがたい状況でもあった。

これでようやくまともに戦う事が出来る。この上なく厄介な相手が揃っているものの、それでも勝機が全く見えていない訳ではない。

「劉備殿達は逃げてくれ! この場にいると危険すぎる!」

呂布は関羽や張飛に声をかけるが、二人は首を横に振る。

「呂布将軍こそお早く!」

劉備が叫ぶが、呂布は首を振る。

ここで呂布が逃げるわけには行かない。曹操は自分に対して敵意や害意を向けてくるが、劉備は純粋に徐州を救う為に、また劉備自身と家族の為にこの場に留まっているのだ。

劉備が徐州を見捨てて逃げたなどと知れれば、劉備やその家族の命は無いと言っていい。それだけに呂布もこの戦いを終わらせる必要があった。この戦に勝とうが負けようが構わないが、それでもこの場に留まる意味はあるはずだ。関羽や張飛の気持ちを無駄にする事になるのだが、呂布は曹操との一騎打ちを望む。

それを察した関羽と張飛は呂布の前に出る。

「劉備殿は下がって!」

関羽はそう言うと劉備を守るように立ち塞がり、戟を構える。

張飛も呂布の目の前に仁王立つ。

「関羽、張飛、すまない」

呂布は短くそう言った後、関羽も張飛も無視して曹操との一騎討ちに備える。

呂布は愛剣の方天画戟を構え直し、大きく息をつく。

関羽、張飛、徐晃、黄忠と言った歴戦の強者相手に戦い続けて来たにも関わらず、こうして改めて曹操と戦うと思うだけで身震いしてしまう。これが武者震いというものだろうか? 恐怖に震えていた心が落ち着きを取り戻し、戦いに高揚しているのを感じる。これこそが自分の求めているものだ。自分はずっとこの時を求めていたのではないか。

その考えに至った呂布の顔からは怯えの色は消え、代わりに笑みを浮かべる余裕すら生まれて来た。

方天画戟を手に曹操へと駆け出す呂布に対し、曹操はその大矛を振り下ろす。

しかし呂布はそれをかわし、逆に懐へ飛び込むと曹操の大矛を握る手を叩く。

武器を持つ事が出来なくなった曹操は、呂布の動きについて行けずそのまま胸を突き飛ばされ、仰向けに倒れる。

「俺が憎いか、曹操」

呂布は仰向けの曹操の上に跨がり、方天画戟の切っ先を向ける。

「呂布よ、貴様も私も武人として生まれた男。ならば武で語り合おうではないか」

曹操も起き上がり、体勢を整える。二人とも馬乗りになった状態なので距離を取った方が良いとは思うのだが、二人の気迫がその行動を許さなかった。

先に動いたのは呂布である。

戟で斬りつけると見せかけ、身を低くしながらの足払いをかける。曹操は素早く反応して避けるが、呂布の狙いはそこではなかった。

振り下ろしたはずの呂布の一撃は地面に叩きつけられ、跳ね上がる。その動きに合わせて呂布は曹操の頭を狙う。

曹操はギリギリのところでそれを避ける。

今度は曹操が戟の柄で殴りつけようとするが、呂布はそれを方天画戟の峰を使って防ぐ。

激しい攻防が続き、お互いの呼吸は乱れていく。しかし、その激しさは変わらない。

曹操は戟を引き戻しつつ呂布に突きを入れる。しかし呂布はそれも読んでおり、方天画戟を手の中で滑らせて曹操に向かって伸ばす。

曹操は器用に身体を反らし、かろうじて避けながら、突き出された方の刃を踏みつけて動きを止める。

その曹操の首に向かって呂布は渾身の力を込めて切りかかる。

しかし曹操はもう片方の手に持つ方天画戟を捨てる事によって、呂布の攻撃を防ぐ。

だがその攻撃を防ぎきるには至らず、曹操の額から血が流れ出す。

曹操が体勢を立て直すと同時に、呂布の腹部に衝撃が走る。曹操が蹴りを入れたのだ。

呂布は一瞬だけ痛みに耐えたが、すぐに体勢を整えて曹操に襲い掛かる。

呂布が繰り出す連続攻撃を曹操は全て受け止め、時には弾き返しさえする。曹操の強さは尋常ではない。呂布でなくてもそう感じる事が出来るだろう。呂布が今までに見た事も聞いたこともないほどの戦い方をするのだ。

しかし、だからこそ楽しい。

これまで呂布と戦ってきた中で最強と言える相手なのだから。

その瞬間、呂布の意識がほんの少しだけ飛んだ。その僅かな隙に曹操は拳を呂布の頬にぶつけた。曹操の打撃はそれほど強いものではなかったが、呂布にとっては初めての経験だった。

曹操が放つ無数の矢を全て打ち払ってきたが、その中に呂布が初めて食らう事になった拳打があった。

その事実に呂布は驚きつつも喜び、同時にさらなる興奮を覚え、呂布は再び方天画戟を振るう。

曹操も同じように戟を振り回し、互いの戟は激しくぶつかり合う。そこから先は泥仕合と言うよりは、無秩序な乱戦だった。

どちらが強いかと言うよりも、どちらの生命力が勝っているかという感じだ。

曹操は呂布を倒そうと全力を傾けていたが、呂布もまた自分を倒しに来る曹操を殺さないように戦う事が出来なかった。

この一騎打ちでは呂布も無傷と言う訳には行かず、全身に裂傷を負い、衣服もズタボロになりつつあった。それでもまだ立っていられるのだから不思議ではあるが、曹操も満身創痍であり、もはや決着をつける段階にまで至っていた。

「呂布奉先! ここで朽ち果てろ!」

曹操はそう叫ぶと戟を上段に構えて突撃してくる。

呂布はもう立っているのもやっとだったが、最後の力で方天画戟を構える。曹操の突進に対して、呂布はわずかに動く。

たったそれだけの動作で呂布と曹操はすれ違う。曹操は呂布が何をやったのか分からなかったに違いない。

すれ違いざまに呂布の方天画戟は曹操の脇腹を貫き、曹操の戟は呂布の横顔を大きく切り裂いた。

曹操の口から大量に血液が吐き出され、その場に崩れ落ちる。一方呂布も倒れそうになっていたのだが、辛うじて堪えていた。

「……見事」

曹操はかすれるような声でそう言うと息絶えた。

その曹操を見て、ようやく戦いが終わった事を知った徐州兵達は歓声を上げる。

こうして、呂布は戦いを終えたのであった。

「まあ、助からない可能性はあるが『かのものに癒しの力を』ヒール」

高順が徐栄の怪我に回復魔法をかけてやる。

さすがに即死してしまった者を生き返らせるほどの力はないので、あくまでも重傷の処置程度の効果しかない。

しかし徐栄の致命傷とも言えた刀傷は綺麗に塞がり、出血は完全に止まって体力の回復を待つ必要もなく徐栄は立ち上がる。

「すまない、迷惑をかけた。それにしても、まさか本当にお前達が来てくれるとは思わなかったぞ」

徐栄の言葉遣いが変わったので呂布は違和感を覚えたが、それは気にせずに応える。

「言った通り、俺たちはあんたらの味方だ。今度こそ約束を守って貰う」

呂布が手を出すと、張遼と賈駆が武器を渡す。呂布も曹操の死体も、武器を持ったままで両手がふさがったままだったので、それを見かねて二人の少女が回収していたのだ。

「曹操軍は全滅したわ。あとはアンタが軍をまとめ上げて撤退すれば終わりよ。その前に武器や防具くらいは身につけておきなさい」

董卓から派遣された副官でもある賈文和は冷たく言い放つ。

しかし、これが本来の彼女の性格だと知っている呂布は苦笑して何も言わずに武器を受け取る。

呂布軍が曹操軍の残党と戦い、殲滅したところで袁紹軍と袁術軍が合流する。

袁家の武将達からしてみれば自分達の領地を守る為に呂布に助けを求めて援軍に来たのだが、その実、曹操に追い詰められて逃げて来ただけとも言えるので気まずいところもあったのだが、とりあえずは呂布を囲んで歓待している。

だが、呂布はすぐにその場を離れ、戦場の後始末を始める。

呂布軍に倒された武将の中にはまだ死んでいない者もいたが、呂布は助ける事なくそのまま放置する事にした。

敵であろうと、戦意のない者を殺してまで生き残りたいとは思えないし、ましてや捕虜など取っていられない状況である事は分かってもらえるだろう。

むしろそんな事をしていては曹操軍を逃がす結果になってしまう。

だが、曹操軍の中でも投降する者はいるはずだ。降伏勧告を受け入れれば問題はないが、もし受け入れない場合には呂布は容赦なく斬り捨てるつもりだった。降伏した者がいれば助命するつもりだったが、曹操軍にそんな余裕は無かったらしく、曹操も部下も誰一人として降伏する様子は無い。

結局呂布が殺した数は二十人を軽く超え、生き残った者も重傷を負った者や死者ばかりで軽傷の者は皆無だった。

曹操の死を確認すると、呂布は曹操の遺体から衣服を奪う。その遺体からは衣服だけでなく、武具一式全て奪い取り、それら全てを自分の物にする。

これは、劉備陣営が掲げる正義の戦いではない。悪辣非道な行いかもしれないが、それでも曹操を討ち取らなければこの戦いは終わらないし、このまま放っておけば天下は再び戦乱の渦に飲み込まれる事になる。

だからと言って許せる事ではないが、それでも曹操が生きているよりはましだったと思うしかなかった。

「……呂布将軍。あなたはこれからどうされるつもりですか?」

曹操の遺体を片付け、曹操が使っていた剣も奪うと、それを手にしながら呂布は陳宮に声をかけられる。

曹操の遺体を片付け、曹操が使っていた剣も奪うと、それを手にしながら呂布は陳宮に声をかけられる。

曹操は確かに討たれたが、その死は公表される事はない。また曹操軍の中にも、曹操に恨みを抱いている者もいるだろう。曹操を討つと言う共通の目的があるとはいえ、曹操に従っていた者達にとってこの先も一緒に戦うかどうかの判断を迷う所はある。

だから、ここで曹操に最後まで従っていた者の処分を決めておいた方が良い。曹操を殺したところで呂布の目的が終わった訳ではなく、さらに大きな野望を持っているのであればなおさらだ。

そこで呂布はまずは曹操の鎧を身につけて身なりを整え、その後曹操の衣冠に身を包んで顔を隠してから答えた。

「俺はこの乱世に覇を唱える王になる。この乱世を平定し、全ての民を安んじさせる事こそが俺の望みだ」

この場で俺は、俺の本心を告げたところで、信じるものは少ないかも知れない。それでもここで宣言しておく事で、曹操への忠義に厚くても、今後邪魔になりそうな人物については殺しやすく出来るのではないかと思った。

「何だ? こいつ」

徐州城へ引き上げる途中、呂布の横顔を見ていた高順が言う。

「うん、自分でもよく分からないんだけど」

呂布は曖昧に笑う。

「何かさっきのやり取りで吹っ切れたみたい」

「ふーん」

そう言うと、呂布と張遼、高順に視線を走らせて、もう一度言う。

「こいつはちょっとヤバいかも」

呂布が呂布軍を率いて徐州城を後にした頃、李粛は呂布軍からの使者を名乗る者に徐州城内で呼び止められていた。

呂布からの使者とは言っているものの、呂布の名を語る以上は偽物である可能性は高く、使者の風体から言ってもただの小間使い程度にしか見えない。

おそらくはこの小間使いが口添えをして、名ばかりの重臣に過ぎない自分を引き立てて貰おうと画策したのだろうと予想していた。

「呂布将軍の奥方、呂姫様より言伝をお預かりしております」

しかし、その口から出てきた言葉は意外なものだった。

「えぇっと、それは本物か?」

あまりに予想外の事に李粛は確認したが、少女は小さく首を傾げる。

「はい。間違いなく奥方さまのお手紙です。こちらを」

少女はそう言いながら一通の手紙を差し出す。

ただ、いくら本人が書いたものであれ、呂布の妻子の名が書いてあるという時点で怪しさ満点ではあった。

「あぁ、ありがとう」

一応礼を述べて受け取ると、少女は深々と頭を下げて立ち去る。

少女の後ろ姿を見ながら、李粛は手渡された手紙を開く。

そこに書かれている文字は紛れもなく呂布の筆跡であり、その内容を読んでみる。

そこには呂布の妻、呂姫の名で書かれていたのだが、内容は実に簡単なもので『曹操が裏切った。これより追撃に移る』と言った内容が記されていた。

呂布が徐州を離れた直後、陳宮からもたらされた情報で曹操軍が動く事は予測出来たのだが、陳宮が得た情報が曹操軍全体の動向なのか、曹操軍の中に裏切り者がいるのかまでは判断出来なかった。

呂布軍が動いた後、陳宮はすぐに情報収集に走ると、その両方が分かった。

まず曹操軍は荊州の劉表を頼ったのだが、その動きに合わせて曹操軍の諸将もそれぞれに動きを見せる。だが、その中でもいち早く行動を起こしたのが曹操軍から離反した徐州の呂布軍であった。

その報告を受けた時には陳宮にも信じられなかった事なのだが、陳宮以上に衝撃を受けている者がいた。

呂布軍からの離脱者、臧覇である。

本来であればすぐに曹操軍の追手がかかり、曹操軍からも裏切りとして断罪されて当然の事である。

しかし、それをしないばかりか曹操軍本隊は南に向かって移動を開始している。

もちろんその先にあるのは袁紹の居城、許昌である。

だが、曹操軍はそのまま南下し、袁術領へと入っていく。

「……どう思う?」

「まさかと思うが先程倒した曹操は偽物?」

でなければ些かおかしな話となってしまう。あの時戦った武将は一人を除いて全員が生け捕りにしたのだが、その誰もが口を揃えて曹操自身が現れたと言っていたのだ。そしてその中には劉備もいたのだから間違いないはずだった。劉備の方は曹操の死を確認しているので証言としての価値は薄れているが、少なくとも劉備の方は劉備自身の手で捕らえたのだから偽物のはずがないと言う確信があった。

しかし、もしその曹操が偽者であったとすれば話は違ってくる。

呂布や張遼など、実際に曹操と対面して会話をした者から見れば別人のように感じたのだろうが、呂布から書簡を預かったと言ってきた少女に呂布本人が姿を見せれば、それが呂布本人の姿でも曹操の姿に見えてしまうだろう。

つまり、その書状を持って呂布が現れたのは偽装と言う事になる。

呂布は妻にすらその事実を告げず、密かに呂布と陳宮を討とうとしているのではないか。

これが一番妥当な考えに思える。

問題は何故曹操を偽者と知っていて見逃したかという事と、なぜ呂布軍を曹操軍に見せかけたのかという事だ。

この二点は同時に解決しなければならない問題だったが、それでもこの機を逃すつもりは無かった。

陳宮の出した結論は、曹操を討つ事ではなく、この機会を利用して徐州を奪う事だった。

「今曹操軍と敵対すれば、確実にこの徐州は滅びる事になります」

そう言って、李粛を始めとした者達を説く。呂布には恩義があるものの、今のこの状況を放置する事でその恩を仇で返す事になってしまう。それどころか下手をすると自分の命も危ういかもしれない。

ならばここは曹操の謀略に乗るふりをして徐州を攻め取り、曹操に貸しを作ると同時に曹操を欺いて逆に徐州を手にいれるべきだと。

この陳宮の進言に対して李粛達は反対する。確かに呂布に対する忠義心は分かるが、ここで曹操を見捨てたら今後の戦いに影響が出るのは必至だ。ここで呂布を助けても、いずれ他の誰かが助けてくれるとは限らない。むしろ、ここで見捨てられるような人物は今後呂布陣営に居座っても足を引っ張るだけでしかないのではないか、と。

結局最後まで李粛達とは揉めたものの、最終的には陳宮の献策を受け入れた。

李粛は李典らと共に別働隊となり、徐州の北方の城から徐州城へ向けて攻撃を開始した。呂布は高順と共に徐州城内に侵入し、徐州城を制圧。城内にいる兵を武装解除した上で城内の警備と城外の敵に備えるよう指示を出す。

呂布の補佐役として呂布の妻の護衛についていた高順が城内の一画に設けられた広間に呂布を呼びに来た。

呂布と張遼がそこに入ると、すでに高順によって連れられてきた呂布の妻が緊張した面持ちで待っていた。まだ幼さの残る少女ではあったが、呂姫は呂布が見た事も無い様な美少女であった。

陳宮が言った通り、呂姫は絶世の美女になるのは確実と思われるほど整った顔立ちをしており、年の頃はまだ十五歳くらいであろうか。

そんな娘が不安げな表情を浮かべながら呂布が来るのを待っている。いかに呂布の妻とは言えど人質も同然であり、さらに呂姫は非力な女性でもある事から武装を解かれて丸腰となっている。一応武器庫も案内されたが、そこに並べられていたのは極めて質素で粗末なものばかりで、とても実戦に耐えるような代物ではなかった。あれではせいぜい賊を追い払えるかどうかと言った程度のものしか無いらしい。

「ご主人様、こちらは……?」

呂姫が呂布の横に立っている少年を見て尋ねる。

「こちらが私の主、呂伯奢将軍です。失礼の無いようになさいませ。私達の生命運を握っているお方なのですから」

高順に言われて、呂姫は初めて見る相手が呂布の義父に当たる人物である事に気付く。

そしてすぐに膝をついて頭を下げる。

「あぁ、よい。楽にせよ。俺は呂布奉先だが、字は無ければ父と呼んでくれ。そちらの少年は父の弟子である丁原将軍の忘れ形見、張遼文遠君だ。仲良くして欲しい」

「は、はい!」

呂布の言葉を聞いて、呂姫は安心したのか笑顔を見せる。

その笑顔は実に愛らしく、まるで天女のようであった。

「奥方さまは私が御守り致します。呂布将軍、曹操との決着を急ぐべきと考えます。この好機を逃す手はありません。それに、このままでは我々も危険に曝されてしまいかねませんので……」

高順はそう言いながらも、この機会に乗じて曹操軍本隊を打ち破ろうと考えていた。

「そうだな。今は曹操と事を荒立てる時ではない。曹操は俺を討ち取る事で天下に手を伸ばす事が出来るし、そうすればあの劉備も動き出す。劉備はあの時討ち取らなければならない相手だったが、それもあの時では無い」

そう言う呂布の言葉を、高順は聞き逃さなかった。この男、やはり曹操を見捨てて徐州を手に入れるつもりだったようだ。しかも呂布が曹操を見逃していれば劉備まで敵に回していた事も分かっている様子だった。

おそらくこの男は人を使うより自分で戦場に出た方が強い。その証拠に、これまでの戦いは全て一人で戦い抜ている。

この男の配下になってみるのも良いかもしれん。高順はそう思っていた。

その時、城の外が騒がしくなる。

呂布と陳宮はすぐに反応して警戒するが、外から入ってきた兵士が呂布を見つけるなり駆け寄ってくる。

「殿! 大変です。徐州の民衆が集まってきて、我々の兵に向かって弓矢を射掛けています」

その言葉に呂布は耳を疑った。

「何だと? 民の反乱が起きたと言う事か?」

呂布は急いで城門に向かう。

そこで目にしたのは、予想だにしない光景だった。

呂布軍の将兵が徐州の住民から攻撃を受けている。住民の大半は武器を持っている訳ではなく、農具などで攻撃している。それでも矢を受けて負傷する者や、中には民家の中から飛び出してきて槍や刀で攻撃してくる者もいる。呂布軍が攻撃する事は無かった。何故なら、呂布軍と対峙する徐州兵の後方には弓を持った徐州の領民の姿があったからだ。

彼らは徐州の民であり、本来ならば呂布の味方であるはずなのだが徐州の現状を見れば呂布軍に怒りを覚えるのも無理のない事だった。

ただでさえ少ない兵力を割いて、徐州城内の守備を行わなければならず、それにも関わらず徐州城に押し寄せてくる民を抑えきれなかったのだ。

しかし、今更この事実を知ったところで事態が好転するわけでもない。徐州城を包囲する曹操軍に報告する事も無く、呂布軍は呂布の号令の元徐州の攻略を進める事になった。

呂布軍と徐州の兵で睨み合いを続けていたところ、曹操からの書状が届いた。

それは降伏勧告であり、これ以上戦うつもりが無いのであれば呂布と陳宮の身柄を解放するとの事だった。

もちろん、それに応じる者は皆無である。

そもそもこの状況下で戦意を失わない事が既に異常だと言えるのだが、呂布軍をここまで駆り立てているのは曹操に対する恐怖心でも徐州の為という正義感などではなかった。

単純に徐州を攻め取った時の褒美目当てと、呂布と陳宮に対する憎しみだけである。陳宮はその状況を打破すべく陳珪と相談した上で呂布の元にやって来た。

「ここは一旦退くべきだと思います」

陳宮はまず陳珪と共に説得を試みる。

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