第3話

張角の所在を掴むという呂布の目的は既に果たされていた。ならばその呂布はここにいるべきではない。その呂布がいては邪魔になるのは目に見えている。

またここで曹操軍と戦えばどうなるのか、という事も分からない程張遼も馬鹿ではない。

この場にいた武将達のほとんどは曹操に殺されたが、中には運良く生き残った者もいるだろう。もし曹操軍が彼らを放置するとも思えないし、曹操軍はこの機会に必ず仇討ちを仕掛けてくるだろう。

この戦場で誰が最も強いのかという事に決着がつくまで曹操軍は止まらないだろう。その時に、もしも曹操軍の武将の中に生き残っていれば、彼らは張遼を恨みに思うに違いない。

呂布の武勇があまりにも有名であるが為に忘れそうになるが、張遼もその武名を聞いた者が呂布以外にいなかった訳ではない。

張遼は張温に教えを受けていた事もあるので呂布とも面識があった。その為、張遼の事を無名ながらも侮れない人物だと警戒する者もいたらしい。張温の死後は、張遼はその名声を呂布と共に歩む事となった為にその実力を発揮することはなかった。

だが今は違う。張遼は呂布の片腕と呼ばれるほどになったと自負しているが、まだまだ至らぬところもある事を自覚してもいる。

その為、今回の張飛の行動はまさに天佑とも言える好機であった。

張飛は呂布との決別を決意した後、関羽の元に身を寄せている。おそらく張飛自身も曹操への復讐を考えていたのかもしれないが、その決意は呂布と同じく固かったようだ。

劉備の義弟でありながらも呂布の元を離れた理由は定かではないが、恐らく劉備の為だったのだろうとは張遼も想像出来る。張飛が劉備からの信頼を得ていなかったとは考えにくい。だが、張飛は張遼と違い呂布に心酔していた。その張飛が劉備の天下統一の為に働くとは思えない。張飛には張飛の考えがあるはずだ。それがどのようなものであれ、劉備に尽くす気は無いのではないか、と張遼は考えている。

張飛が劉備と袂を分けたのは曹操軍に攻撃を仕掛ける為。それは呂布も同じだったが、曹操軍の狙いはこの徐州の占領だった。張飛が動くより先に曹操軍の動きを止めれば良いだけの事である。

その為に張遼が呂布にした事は、呂布に兵を預ける事。

それも、一万を超える兵では無く五百ほどの少数部隊を三つに分け、それぞれが別行動を取るようにした。その全てをまとめるのは張遼と言う事になる。ただこれは非常に難しい事で、この部隊それぞれに高い統率力と指揮能力がなければ成功しない策である。しかし、張遼には自信があった。自分の能力を過信しているのではなく、実際に今まで上手くやってこれていたからである。それにこの規模の兵を動かす場合の基本的な事や戦術については陳宮から直接教わっている。この程度の大群の指揮をする事など朝飯前と言えるのだが、さすがにここまでの大軍を率いてきた呂布にはその辺の能力の高さがまるで足りていない。

陳宮や呂布には申し訳ないが、今回の戦いの主導権は自分が握らせてもらおうと考えていた。

呂布が陳宮を連れて現れたのは、合流地点に到着してしばらくしての事であった。

「……」

呂布を見た陳宮は驚いた様子で固まっていた。

「陳宮、久しぶりだな」

「呂布将軍! いつお戻りに?」

呂布が陳宮に声をかけると、陳宮はようやく再起動出来たらしく呂布に話しかけた。

「昨日だ。それより陳宮、元気そうで何よりだ」

「いえ、私など。それより何故呂布将軍の兵がこちらに? それに、その、そちらの方は?」

陳宮も噂に聞く呂布の強兵を知っているだけに戸惑っていた。

確かに呂布が鍛え上げた精鋭部隊は、並の兵では相手にならないだろう。だが、この徐州を攻めてきた時の兵力は一万人弱でしかなかったはずである。それに、その兵の数も今目の前にいる人数に比べるとかなり少ない数でしかない。

それなのにその兵とは別に、徐州に攻め込んできた時と同じかそれ以上の数の騎兵がいる。そして、徐州攻めに参加した呂布直属の親衛隊は五千に満たなかったはずなのだが、その半数近くも集まっているのだ。

しかも呂布旗下の武将ではなく、明らかに他の陣営の者も混じっている上に、見覚えのある者達も多い。

その中にある顔を見つけ、張遼は頭を抱える事になった。この徐州攻略戦において、最も厄介で危険な人物である高順が呂布陣営にいた。高順の強さは知っているつもりだったが、いざこうして目の前に現れてみると、改めて高順の怖さが実感できる。呂布が信頼を寄せているのは分かるが、これほどまでの実力者がどうしてこの様な陣営に加わったのかは張遼にも分からない。いや……、張遼だけでなく誰もが疑問に思うところではあるが、その理由が分かったとしても納得出来ない者の方が多そうだと思えるほど高純度な戦闘能力を持っているのだから手に負えないと言っていい。

もっとも、呂布にしてみれば自分に仕えてくれている武将達が優秀なのであり、その武将達を率いる自分に特別な才覚はないと思っている。実際それは真実でもある。

ただ、この様に多くの将兵を集められる武将は少ない。

少なくとも張遼はこんな真似が出来る武将はいないし、他にいないとすら思っているし、これから先も現れないだろうと確信している。

だからこそ呂布は英雄として名を馳せているのだろうが、張遼にはやはりその考えが理解出来なかった。

とは言え、今はそんな事を言っている場合でもないので気持ちを切り替え、まずは状況を説明する必要があるだろうと思い口を開く。

が、その前に呂布から声がかかった。

「説明なら俺達からするよ。そっちの事はもう分かっている。徐州城に曹操軍の武将が立てこもっていて、それを救出しようと張飛が動いているんだろう。違うかい、徐州の諸君?」

どう見ても年上の呂布に『殿』をつけて呼ばれ、張遼は恐縮しながら応える。

この人には逆らってはいけないと本能的に感じさせる雰囲気を呂布は持っている。

呂布の質問に対して張遼はうっかり口を滑らせてしまいそうになったのだが、そこは呂布の威圧感に助けられた。

曹操軍の武将を討ち取りながら城から出てきた張飛が、曹操軍の兵に追われている所をたまたま通りかかった呂布一行が保護した、というのが事実であるのだがそこまで詳しく話すつもりは無かった。と言うよりもこの流れの中で話せる内容ではない。張遼は何とか呂布の問いかけを肯定してみせた。

すると呂布は満足げに笑った後、大きく息を吸い込んで腹の底からの声で叫んだ。

「聞けぃ! 勇敢なる諸君の武勲は、天上に住む神々ですら無視出来ぬものとなった! ここで動かずしていつ動くと言うのか!」

その言葉に徐州軍は沸き立つ。

「曹操軍の非道を許すな! 我らの敵は誰だ! 曹操軍の兵士なのか! 否! 曹操軍の兵士達は曹操に逆らえぬ! では、誰か? それは彼等を指揮している男、曹操孟徳だ! 曹操が掲げるは偽りの正義である! その悪を討つ事こそ、我々徐州軍が成すべき事である! 我等徐州軍三万! 今より曹操軍へ総攻撃をかける! 恐れる必要は無い! 勇気さえあれば、貴様達は戦える! 行けぇ、徐州の戦士たちよ! 曹操軍を倒すのだぁ!!」

地鳴りの様な大歓声と共に、徐州軍五百名は動き出した。

徐州軍五百名を率い、張遼率いる部隊は東へと向かう。

目標は呂布将軍が指さした方向である。

そこには徐州城を背にした呂布軍と、それに対峙する形で張飛とその兵二千名が向かい合っているのが見える。

「張遼」

そこに呂布が馬に乗ってやって来た。

「はっ、お呼びでしょうか、呂布将軍」

「うん、まあ、そうなんだけどな。呂布将軍は止めないか?」

「将軍のお名前を勝手に略すわけにもいきませんので」

何気なく答えてみるものの、実は緊張していたりする。

張遼にとって呂布は特別であり、呂布は雲の上の存在だった。そんな人物といきなり対面する事になり、まともに会話が出来るかどうかも怪しかったところなのに一緒に行動する事になったのだ。

しかも今回は軍師の陳宮まで付いている。呂布や高順が言う様に張遼から見て軍師らしくない軍師で、正直なところ陳宮は戦場に似つかわしく無い優美さを漂わせていて美しい女性ではあるのだが、『あの陳宮』では頼りないと言わざるを得ない。

もちろんそれは陳宮自身の責任ではなくて呂布に対する感情的な部分が強い事も自覚しているところだが、それでも今回の様な戦いにおいて張遼より陳宮の方が頼れそうに無かった為、同行を許したのは仕方のないところだろう。

「俺の名前を呼ぶくらい、構わないだろう? それとも張遼、何か困る事でもあるのかな?」

「そ、そういう訳では……」

そう言われてしまうと言い返せない。

だが、張遼は今呂布に声をかけられて気がついてしまった。

張遼は自分の名を呂布が呼ぶ事に、特に問題を感じていなかった。むしろ親しみやすさを感じると言うか、そんな事を思っている場合では無いのだろうけど張遼には好ましく感じていたのだと気付かされた。

そんな事を考えていると、さらに別の問題が浮かんできた。

それは自分の本名である臧覇の名だ。張遼の名は父がつけた名前であって、本来この世に産まれ落ちた時に付けられた名である。張遼には二人の兄弟がいた。弟と妹であり、どちらも男なので将来どちらかを跡継ぎにするつもりだったらしい。しかし、弟の臧覇は病弱であり、父や兄達の期待に応えられるとは思えなかった。

一方妹の方はと言えば活発で元気いっぱいであり、その点に関しては両親や兄の期待にも応えられると思っていたし、実際に文武共に優れ、誰もが羨むほどの才能に恵まれていると自負出来る程だった。

そこで両親は、もし長男に男児が生まれなかった時の事を考えて妹には『華琳』と言う立派な字を与え、いずれは武将として身を立てる事も視野に入れ、幼い頃から武術や学問を教えるようになっていた。

それが良かったのか悪かったのかは分からないが、妹の才覚は尋常ではないもので、すぐに頭角を現し、その才能を見抜いた呂布が配下に加える事になった。そしてその呂布が張飛の養父となる縁から、その才覚に見合うだけの武将として張飛は呂布の元へと仕える事になっていた。

その張飛は今、徐州城から呂布軍を迎撃するために出陣したところであった。

「ところで、呂布将軍はどうしてこの場に?」

この質問をしたのは張遼である。

先陣を任せられているとはいえ張遼には指揮権があるわけではなく、呂布は一軍の長ではあるが全軍の指揮を任されているわけではない。

それに呂布が率ているのはあくまで五百名の兵だけであり、張飛と戦うには戦力不足とも言える。いや、そもそも呂布は徐州城へ引き返すべきではないだろうか。呂布であれば、おそらく曹操の本隊に対しても十分戦えるはずなのだ。

もっともそれは兵力差の話であって個人の武勇という面で言えば間違いなく張遼より上である事は分かっているが、それでも今の状況は呂布にとって決して良いものではないはずだった。

ただでさえ数でも質でも劣る状況に加えて呂布と言う将を失った徐州軍は士気が低いだけでなく、このままでは撤退すらままならないと思われるほどの混乱を見せているはずだからだ。呂布は笑みを浮かべながら答える。

「俺はここで曹操軍の退路を絶とうと思ってね。徐州のみんなが少しでも助かる確率を上げるためにも、ここは一戦して曹操軍を打ち破っておかないといけないと思うんだ」

「……なるほど」

それは納得出来た。

確かにこの状況では曹操軍を追い払う事が出来れば徐州軍は持ち直す事も可能かもしれない。曹操軍に対して圧倒的優位にあると言うなら話は別であるが、そうでないのならば張遼がここで足止めを食らう事で曹操軍への牽制になり、それによって撤退する可能性も増えるのではないか。

「分かりました。では我々はこれより曹操軍に対し攻撃を仕掛けます」

「うん、頑張ってくれ」

そう言って呂布は笑顔で手を振る。

呂布将軍、相変わらず可愛いよなぁ、などと張遼が思っていたその時、徐州軍に異変が起こった。

それはあまりにも突然で唐突だったので、張遼は目の前で何が起こっていたかを理解する事が出来なかった。

徐州軍の動きが止まり、それどころか一斉に武器を投げ捨てたのだ。

これにはさすがの張遼も大きく動揺した。

徐州軍が降伏する事は無い。そう考えていた訳ではないが、いざ現実に起こっている光景を見るとさすがに言葉を失ってしまう。

しかも、それを行っているのは呂布軍五百名。張遼にとっては天変地異に匹敵する衝撃だった。

これは罠なのか。

そう疑ってしまうほどである。

張遼は呂布に向かって尋ねる。

「呂布将軍、何故兵を退いたのです? 今、この時こそが最大の好機ではありませんか!」

さっきまで呂布が言った事は理解できるものだった。

だが、今はまるで真逆の状況である。呂布の行動が理解出来ない。

「うん、だから俺も驚いたんだけど、どうやら徐州軍の中で戦いたくないってヤツがたくさんいるみたいでな」

呂布は苦笑いしながら言う。

いくら戦場とは言え、こんな事態が起こるなんて普通は考え難い。張遼ですら想像だにしていなかった展開だ。まして呂布の率いる兵は徐州兵のごく一部に過ぎないのである。そんなに多くの兵が嫌がっているとはとても信じられない話だった。

ところが事実として、徐州軍と相対していたはずの張遼は呂布と向かい合っている。これが張遼が見た真実である。

しかし、それで全て解決する訳でもない。呂布の言葉を信じないわけでも無いが、実際に戦う事を拒否している兵が多い事もまた事実であろう。呂布がこの機を逃さず一気に攻め込めば、おそらくは勝利をおさめる事が出来るはずなのに。

だが、それを口にするのは張遼の役割では無い。それを言うには、あまりに実力が足りていない。せめて呂布の代わりに張遼自身が指揮を取るだけの力量があったのなら、そう思った事もあった。

だが、そんな事をしても今この場では全く役に立たない。

徐州城にいた頃から、張遼は自分の能力に絶対の自信を持っていた。武においても、そして文についても。呂布が徐州を去った時も、その才能を活かす為に自ら名乗り出たのだし、実際それに応えるだけの実績を残せたと言う自負もある。

しかし、それでも張遼には足りないものがあった。経験と、実戦での緊張感だ。そのどちらも、今この時に必要とされている。

今の張遼には、呂布と言う圧倒的な実力者に対する憧れに近い感情を抱いている。

それは単純に強さとかそういうものでは無く、もっと根本的な部分において張遼よりも遥か高みにいる存在だと感じていた。その呂布から指示が出る。

曹操軍を撃退せよ、と。

そしてその為に必要な事だけをしろと付け加えられた。

「呂布将軍の期待に応えましょう」

張遼はそれだけ言って駆け出した。

張遼と呂布との距離は目と鼻の先と言っていい程の距離だった。張遼は馬上から戟を構えて呂布に飛びかかる。いかに呂布と言えど、この近距離からの攻撃は避けられまい。呂布を討ち取る絶好の機会だったのだが、呂布は避ける事無くただ立っていた。

まさか、こちらの間合いが分かっていないのか。あるいは、その攻撃を受けて立つと言う意思表示のつもりだろうか。どちらにせよ今張遼は勢いに乗っていたし油断もしてはいないので、この一撃を避けられたとしても追撃を緩める事なく呂布の身体を貫くつもりでいた。

呂布はその攻撃を受け止めるべく、戟を軽く振った。

たった一度の斬撃だったが、呂布の一撃は重い上に正確無比で、まともに受けたら骨など簡単に砕けるほどの威力を持っているはずだった。張遼の突撃は止められると見て良いだろう。

予想通り、と言うより呂布の攻撃を予測出来なかった張遼にとってそれは当たり前の結果であった。

戟を受け止めた瞬間、張遼の手に痺れが走る。

それはこれまで何度も感じてきた感覚であり、その時は何とも思わなかった。

それが呂布と言う桁外れな猛者を相手にした時だけ感じるものだと思っていた。

だが、今のは違う。今までのどんな敵が相手でも、こんな事はあり得なかった。

呂布の攻撃を受けただけで手が痺れるような力の差、それも張遼は初めて味わうものだった。

いや、正確には初めてではない。

かつて張飛と戦って手痛く打ちのめされた事がある。その時の衝撃と似ているが、今のはそれすら凌駕しているかもしれない。

「ほう、受けられるか」

余裕すら感じられる声で呂布は呟き、そのまま次の動作へ移っていた。戟の先端が鋭く跳ね上がり張遼を襲う。

これも何とか防ぐ事は出来たが、またしても腕に強い衝撃を感じると共に今度は足に力が入らなくなる。手応えが強すぎたために、足の力を上手く殺せなかったらしい。体勢が崩れた所に呂布は続けて攻撃を仕掛けてくるが、さすがにこれは防ぎきれない。張遼は後ろへ飛んで呂布の第二波を避ける。

その時、呂布の背後に徐州軍がいる事に気がついた。

何が起こっているのか張遼にもすぐには分からなかったが、徐州軍の様子が明らかにおかしい。武器を捨てたのもそうであったが、それ以上に兵達が呂布に向かって一斉に頭を下げているのだ。これではまるで呂布に味方するようではないか。張遼は一瞬呆気に取られたものの、すぐに理解した。これは徐州軍の意思ではなく、徐州兵達の中で戦いたくないと言う思いが強い者の行動なのだと。

呂布は戦場に立つ限り無敵と言える実力を有しているが、兵達の方からは畏怖されているとは聞いた事がないし思われてもいない。むしろ兵達に人気があるほどだとは聞いていたが、これほど顕著に現れる事はあり得ないはず。

だが、今この場で起きている現象がそれを証明するものだった。

呂布将軍が最強であると認めたのだ。あの張遼ですら恐れ慄いていた呂布奉先が、この徐州兵達は認めてしまった。

しかも、それを行ったのは呂布将軍とそう変わらない年頃の青年。

張遼は混乱する。

一体何故こんな事が。どうしてこうなった? こんな事が出来るヤツは一人しかいない。

呂布の側にいるのは、見た目には若い、線の細い男。

張遼の目から見ても大柄とは言えない、どちらかと言えば小柄に見える程の体躯である。

顔立ちは整っているのだが、どこかぼんやりとした表情と、その雰囲気に張遼は見覚えがあった。張遼は一目見た時からその存在を無視できなかったのだが、今ははっきりと分かる。

張遼の記憶が確かならば、アレこそが天の御遣いと呼ばれる存在だ。

張遼は自分の目を疑った。

張遼には呂布の強さを認めるだけの理由がある。だが、それを呂布本人に告げる事は無かった。

そんな事をして呂布の怒りを買うのが恐ろしかったし、言ったところで何も変わりはしない。張遼が呂布に対して持っている感情は、単なる憧慕でしかないのだから。

そんな張遼から見ても、呂布の実力には底が見えない。そんな呂布が天下無双の武人である事を張遼自身が認めると同時に、その実力の高さも認めているからこそ、呂布自身がそれを認めない事も分かっていた。

だからこそ張遼は口にしなかった。呂布本人が言うまでは。

しかし、今の状況はそれとは全く違っていた。

張遼は呂布の言葉を信じていたし、呂布は呂布自身の言葉で張遼の気持ちに応える。

今この場での戦いは呂布の勝利で終わった。そして、その結果として現れた光景は呂布の力を認めた結果、つまり呂布自身に対する信頼だった。曹操の兵は敗走していった。それを見送った呂布軍は勝利の声を上げる事も無く静かに、だが確実に喜びを共有していく。

そんな中、劉備と関羽が馬を寄せてきた。

「見事だったぞ、呂布よ」

曹操軍が撤退していく様を見てから、劉備は呂布に声をかける。

「いえ、全て張遼の手柄です」

呂布は謙遜するのではなく、心の底から張遼の戦果だと思っていた。

実際に曹操軍を撃退する事が出来たのはほとんどが張遼の活躍であり、その事に対する恩賞などあってしかるべき事だと思っていたのだが、呂布に付いてきた者達の反応を見る限りではそれは期待出来なさそうだ。

その事自体は残念だったが、それよりも大きな問題を抱えている。呂布にとっての問題なのでは無く、この場にいる全ての人間の問題と言えた。呂布は今や時の人になっている。呂布だけでなくこの戦に参加した全員が英雄視されるだろう事は疑いようも無いが、同時に大きな危険に晒されてしまう可能性も高かった。

袁紹がどう出るかは呂布にとっても分かりかねるが、袁術に関しては呂布が討ち取った黄巾の乱の英雄でもあるため仇敵扱いされる事は間違いない。そうなれば徐州軍とは関係の無い争いに巻き込まれる危険性もある。

もっともそれは徐州が独立していると言う状況ならの話であり、既に孫策の勢力圏に組み込まれてしまっている現状ではそれは考え難い事ではある。

ただ呂布にとって厄介なのは徐州の民の事であり、彼らは自分達の為に戦う事はあっても呂布の為だけに戦う事は出来ないだろうと言う事は簡単に想像出来る。そうでなければこの戦での徐州兵の態度の変化の説明がつかない。

徐州軍の兵達は呂布個人に対し好意を抱いてくれているようだが、それがどこまで信用できるものなのか分からない。呂布は今までの人生の大半を流浪の旅で過ごしてきたので徐州軍の兵を見てもそこまで詳しく知っている訳ではないが、それでもこの徐州兵達の呂布へ向けられている目は異常と言っていいほどだと思う。それが、呂布にはまだ少し恐かった。

この戦は、徐州が呂布に降参するか、呂布が曹操を討つか、もしくは曹操が討たれるかのいずれかで終わるものだと思っていた。

徐州の民の暮らしぶりを見たり、そこで出会った人間達と交流するうちに、呂布はその程度の未来を思い描いてもいた。

少なくとも、呂布が生きている間はそうあるべきだと考えていた。それがまさか、このような事になるとは思わなかったのだ。

このままでは何も解決していないどころか、むしろ余計な火種を抱え込む形になる。そう考えた呂布は、自分の正体を明らかにする以外に解決策は無いと判断した。

曹操に降る気はもちろん無い。もしそれで収まるならば最初からこんな手段を取ろうとすらしなかった。

呂布は自分の正体を明かし、徐州と争う気が無い事を示さなければならない。その為にも徐州の協力が必要になる。

呂布はそう思い、徐州城へ赴く事を劉備達に告げようとすると、突然張遼が前に出てきた。

「申し上げます! 敵軍、こちらへ向かっております!」

張遼の報告を聞き、呂布は首を傾げる。

まだ徐州軍との戦いは終わっていないのだから、追撃するのは当たり前のはず。しかも相手は曹操軍である以上、逃げるのではなく追ってくる方が当然なのだが、呂布はそれを疑問に思った。

その答えはすぐに判明する。張遼を追ってきたのは夏侯惇と曹仁の二将だった。その顔色は明らかに青ざめており、焦っている様子がすぐに分かった。

「劉備殿、曹操軍からの伝言を持ってまいりました」

呂布と顔を合わせるなり、夏侯淵と高順が呂布に駆け寄って来た。

本来ならそんな真似は許さないはずの呂布なのだが、張遼と張飛が劉備の前で頭を下げているのを見て呂布も渋々許可する。

「何と?」

「曹操が申すには、貴公の実力はよくわかった。故に今一度、我らと戦って欲しい」

劉備に対して膝まづいたままの姿勢で、張遼に向かって言う。

「曹操軍は撤退していますが」

「曹操様の希望により、戦いたい」

「しかしこちらは無傷とは言えませんし、これ以上の戦いは無意味だと」

「曹操様が望む限り、その意思に従わなければならない」

まるで曹操からの命令書を読んでいるかのように、張遼は淡々と話す。

そこに関羽は口を挟む。

「曹操が望んでいると言うより、お前を逃がしたくないだけだろ。あの曹操の事だ、何か仕掛けて来るに違いないぞ」

関羽の言葉を聞いた張遼も張遼だが、言われた張遼本人以上に周りにいた兵士達が反応し、一斉に殺気立った。

その様子を見ていて、呂布は何が起きているのか理解した。

曹操軍がこのタイミングで引き返して来た理由。それは曹操自身が望んだ事ではなく、おそらくは呂布と戦う為に戻って来ざるを得なかったのだろう。

張遼の実力を認めた曹操は、その力を手に入れようとした訳だ。そして、この場で戦う事も曹操は望み、それを断る事が出来なかったと言う事だろう。だが、張遼と張遼が連れてきた者達にとってはそれどころではないらしい。今すぐ曹操軍を蹴散らして曹操を討ち取りに行きかねないほどの勢いだ。

確かにここで曹操と再び戦えば、徐州軍は勝利を得られるかもしれない。

しかしその場合、この場にいる全員が確実に命を落とす事になる。それでは曹操を倒す事は出来ても意味が無くなる。

それに、この先徐州がどう動くかも分からなくなる。

呂布は立ち上がり、張遼の肩に手を置く。

この場は自分に任せて欲しい、そう目線で合図を送ったつもりだったのだが、張遼は首を振る。

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