第3話 猿丸吠える

 きぎすのお乳のお陰で、桃太は健やかに育った。

 桃太ときぎすが一緒に暮らすようになって、家の雰囲気は一変した。長い二人きりの暮らしの中で、相手の名を呼び掛けることをすっかり忘れていた老夫婦は、桃太を中心にして、「おじいさん」、「おばあさん」とお互いを呼び合うようになっていた。

 乳離れをしてからも、きぎすは乳母として、桃太を慈しんだ。また、おじいさんやおばあさんの身の回りの世話や家事を手伝ってよく働いた。おばあさんは、きぎすを本当の娘のようにかわいがっていた。着物の縫い方や、家事の細かい手作業を、きぎすに教えた。きぎすは、おじいさんとおばあさんを大事にし、二人もまた、働き者の若い娘を頼りにしていた。

 桃太のことは誰にも語らず内緒にしていた。村人に、どこから来た、誰の子かなどと、あれこれ詮索されたくなかったし、噂が広がって、実の親が引き取りに来るなどして、引き離されることを恐れたからである。家が村はずれであったお陰で、幸い誰にも知られることなく、桃太はすくすくと成長し、三歳になっていた。

 おばあさんは毎日が幸せだった。自分の声さえ忘れていた以前と違い、すっかり能弁になっていた。手の空いた時は、桃太の相手をして、物語したり、鼻歌を歌って聞かせたりもした。

 一方、おじいさんには、少し気がかりなことがあった。

 ある朝、思い余って、おばあさんに話しかけた。

「なぁ、おばあさんや。あの子は、魔物か何かかも知れんぞ。」

「何を言うんだい。あの子が魔物なんかであるわけがないじゃないか。」

 おばあさんは、馬鹿馬鹿しいといったふうに首を横に振って、おじいさんの話にとりあおうとしない。

「そうは言うがな、おばあさん。あの子はまだ三つだぞ。三つの子供が、尋ねもしないのに、雲はどこから湧いてくるだとか、並んだ星の色が違って見えるのはどういうわけだなんて、そんなことを言うものかね。」

「きぎすが何か教えたんでしょう。」

「いや。わしもそう思って、きぎすに聞いてみたが、知らないと言う。」

「それじゃあ、里の誰かが話して聞かせたんでしょうよ。」

「そんなわけの分からんことを喋る奴が、この辺りにいるものか。皆、今日明日の食い物のことしか考えていないような連中だぞ。第一、桃太のことは誰も知らないはずだ。」

 おばあさんは、これ以上聞きたくないというように、おじいさんの顔の前に右手を差し出して言葉をさえぎった。おじいさんは、一旦は口を閉ざしたが、やはり不安げに、誰に語りかけるとはなしに呟いた。

「何やら得たいの知れない者が傍にいるような気がする。とんでもないことに巻き込まれなければいいが。」

 

 さて、話は変わって、「桃の郷」からさほど遠くないところに冠嶽という山があった。山麓から中腹まではなだらかな稜線を呈していたが、そこから頂上までは険しい岩山になっていた。奇岩の立ち並ぶ頂上の様子が冠をかぶったように見えることからその名が付けられた。

 麓に西国から都へ行き交う街道が通じていた。山間を抜けるように街道が通っているため、旅人は必ずこの道を進まなければならない。冠嶽から街道を隔てた反対側には急流の渓谷が街道に沿って走っており、その向こうには仙人岩と呼ばれる、切り立った崖がどこまでも続いていた。街道を通る以外に旅人に選択する道はなかった。

 冠嶽の奥深く岩山のどこかに山賊が隠れ住んでいた。都の裕福な貴族や商人が街道を通りかかると、どこからともなく突然現れて、旅人の金子や宝物、衣装や調度品を略奪した。

 山賊達は、ぼろぼろの衣装を身にまとい、野生の猿のように荒々しく、敏捷だった。二十人ほどの一群で行動していた。首領の指揮の下機敏な行動で略奪作戦が遂行された。動きに無駄がなかった。誰も一言も言葉を発せず、あっと言う間の出来事のように、旅人を捕捉し、無力化した。よく訓練された戦闘集団だった。彼らは皆、顔中ひげだらけで、目だけがぎょろりと、鋭く光っていた。野獣を思わせた。捕まった旅人達は、男達のその表情を見ただけで震え上がり、戦意を喪失した。持ち合わせた刀剣や槍など何の役にも立たなかった。貴族達や伴の者は、手にした武器を一度も使うことなく放棄するのが常だった。

 しかし、争いを望まない代償として、旅人は身の安全が保障された。山賊達は今まで誰をも傷つけ、殺めたことがなかった。また、貧しい者からは決して略奪せず、むしろ、近隣の貧しい村々に余った食料などを残して行ったりもした。噂好きな都の民からは「山の義賊」と呼ばれることさえあった。

 義賊の首領の名は猿丸。

 猿丸は、荒ぶる山賊達の中でも一際大きく、猛々しかった。伸び放題の頭髪を後ろで束ねて、それを鋭く太い針のようなかんざしで留めていた。着物の上に獣の毛皮を羽織っていた。そのため、大きな獣が立ち上がったかのように見えた。存在するだけで辺りを威圧するような雰囲気があった。

 いつも背中に武器を背負っていた。それは、剣でも矛でもなく、今まで誰も見たことのない代物だった。人の背骨の形のようにかぎ型に湾曲した、棍棒とでも呼ばざるを得ない物だった。木製なのか、石や金属なのか、何でできているのか分からないが、不気味に黒光りしていた。見るからに強固そうだ。巨大な動物の骨の一部のようにも見えた。猿丸は、これを器用に操った。ぶんぶんと高速で振り回し、身体の周囲を回転させた。風を切る音とともに猿丸の力の波動が伝わってくる。それが彼の強さと大きさを見る者に強く印象づけた。

 その武器は、また、采配さいはいの役目も果たした。猿丸が見栄でも切るように、回転させていたそれを、正眼にぴたりと動きを止めて、次の瞬間すっと一振りすると、それだけで、配下の山賊達は一斉に示された方向にぱっと展開し、一人一人がその役割を着実に実行した。猿丸が高見でひらりひらりと舞うように采配し、山賊達は沈黙の内に大きなうねりとなって餌食の旅人に襲いかかった。

 山賊達は、岩山の奥にある松や檜の巨木が立ち並ぶ森の中で、木の上に小屋を組み立てて暮らしていた。小屋同志は吊り橋や梯子で繋がっており、空中の砦を思わせた。

 略奪を行わないときは、荒くれたちは皆陽気に楽しく暮らしていた。砦の中は、あちらこちらで笑い声が絶えなかった。砦の中で争い事を起こすのは御法度だった。猿丸がそれを禁じ、背く者は罰を与えることも辞さなかった。猿丸そのものが掟であった。奪った物は、誰も独り占めすることなく、必要な者に必要なだけ配分された。そのため誰も不満を抱かなかった。

 猿丸は、一団を率いる首領として、組織の秩序を維持し、家来達を指揮監督する一方、外部からの侵入者や捕り方の攻撃から、家来やその家族を守る役目を、先頭に立って果たしていた。そのため、冠嶽一帯を幅広く偵察して歩くことが猿丸の日課となっていた。偵察は幾人かの小隊に編成され、交代で行われた。万一に備え、砦の見張りと偵察とが複数の集団に分かれ、役割を分担していた。

 しかし、猿丸だけは単独で行動することが多かった。その方が効率的であったし、何か事件が起こったときの対応も一人でいる方が迅速にできたからである。伴も連れず岩山を出て冠嶽を下り、近くの村々まで足を延ばすことも少なくなかった。

 その日、猿丸は久しぶりに桃の郷の近くまでやって来た。ひらりひらりと岩場を飛び越えながら渓流沿いに下って来ると滝の上に出た。猿丸は、岩の上に身を伏せて用心深く下界を観察した。ここからなら川下まで見渡せた。川の周辺に怪しい人影は見当たらなかった。かつて、都の商人達が街道を避けて川沿いを上ってくることもあったし、よそ者の山賊や得体の知れない物の怪が近寄ってきたこともあったのだ。川から桃の郷の家々まで見渡したが、特に異常は見られない。

 安心して立ち去ろうとした時、視界の隅に若い女の姿が飛び込んだ。桃の並木の向こうに歩いて行くのが見え隠れしていた。猿丸のいる場所からは随分距離があったが、長い黒髪に清楚なたたずまいが、村の娘にない気品のようなものが見て取れた。近くで見てみたいと思った。次の瞬間には駆け出していた。

 猿丸の瞬発力は凄まじいものだった。強靱な脚力は、猛烈な勢いで岩場を駆け下り、遠く離れた岩と岩の間を跳躍する事を可能にしていた。まるで猿そのものだった。

 女は、きぎすだった。

 きぎすが桃の並木を抜けて河原に出る頃には、猿丸はもう直ぐ側までやって来ていた。最後の岩を飛び越えたながら、猿丸は足下の岩陰の浅瀬に幼い男の子が水遊びをしているのに気がついた。跳躍しながら、はっと振り返ったため目測を誤って、猿丸は川の浅瀬に降り立ってしまった。高い水しぶきが上がった。河原にたどり着いたきぎすが、その勢いに驚いてきゃっと悲鳴を上げた。

 水浸しの野獣が川の中央に立っていた。その向こうの岩陰には桃太がいるはずだ。きぎすは「桃太、逃げて。」と鋭く叫んで、すばやく周囲を見回し桃太を探した。だが、桃太の姿はどこにもなかった。既に自分で逃げきれたのだと思った。

 しかし、実際は、その推測は少し違う。きぎすが最初に悲鳴を上げた次の瞬間、桃太の背後の岩間から黒い人影が現れて、桃太を小脇に抱え込んで、さっと川を渡り、桃の木陰に飛び込んだのだ。猿丸はあっと驚いた。猿丸の動きを凌駕する素早い行動だった。水の上を走ったのではないかとさえ思われた。振り返りざま、黒い人影を目で追うことさえできなかったのだ。はっとして再びきぎすの方に向き直る。きぎすはくるりときびすを返し、もと来た桃並木に姿を消すところだった。猿丸は慌てて追いかけようとして、ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら川を渡った。岸に上がる時水の流れに足を取られ、無様に頭から水の中に倒れ込んだ。自分の失態にかっとなりながら、猿丸は岸に上がり、きぎすを追いかけ始めた。水浸しのままでは思うように走れない。ようやくきぎすの背中に追いつこうとしたその時、桃の木の間から黒い人影が現れて、目の前にすっと割って入った。猿丸は突然のことに、足を滑らせ尻餅をついた。だが、次の瞬間にはくるりと起き上がりざま背中の棍棒を帯の間から抜いて、さっと真横に払い間合いを取って、黒い人影と対峙した。

 黒い人影は、見たこともない黒ずくめの装束で立っていた。足先まで伸びた垂れ衣が異国の者を思わせるいでたちであった。そして右手に長い杖を持っていた。猿丸を驚かせたのは男の目だった。かっと見開いたその目は、燃えるように真っ赤だった。

「物の怪。」

 猿丸は思わず口に出していた。人ではないと見えたのだ。相手の雰囲気に飲まれていた。

 男はゆっくりと杖を両手に持ち替え、通せんぼをするように横にした。猿丸は、だっと踏み込んで真っ向から力一杯打ち込んだ。力で杖を折り割って、叩き伏せようとしたのだ。その自信があった。しかし、棍棒が杖に達したと感じた刹那男がするりと身を翻し、棍棒はむなしく空を切った。しまったと思う間もなく、杖が猿丸の足を払っていた。猿丸は仰向けにひっくり返された。杖が鼻先に突きつけられていた。完全に気迫に押さえ込まれた格好だ。猿丸は一瞬何が起こったか分からなかった。えい、と棍棒で杖を払い起き上がったが、間髪入れず鳩尾みぞおちを杖で一突きされ、息を失った。うっと身をかがめた瞬間跳ね上げられた杖の先端が猿丸の顎を強打した。猿丸はもんどり打って、再び仰向けにひっくり返った。猿丸は「殺られる。」と思った。とてもかなう相手ではない、敗北感が襲った。思わず目をつぶってしまった。これまでの戦いの中では決してしたことがなかったことだ。頭を割られ、あるいは、刃物で喉を引き裂かれる絶望的な光景が瞼の裏に浮かんだ。だが、時が経っても何事も起こらなかった。さわさわと桃の梢をわたる風の音が辺りを包んでいた。恐る恐る目を開けると、そこにはもう誰もいなかった。悪い夢でも見たような気分だった。女の後を追う気にもならなかった。疲れ切ったかのようにゆらゆらと立ち上がり、重い足取りで砦への帰路に立った。顎の肉が切れて血が噴き出していた。屈辱感に苛まれながら、あの魔物は、そして、あの女と子供は一体何者だったのだろうという思いが心を捉えて離さなかった。

 きぎすは、黒い魔人に気付くこともなく、先に逃げたであろう桃太を追って一目散に走って逃げる途中、桃の木の陰にしゃがみこんで隠れている桃太を見つけた。後ろを振り返り、野獣がもはや追ってきていないことを確認してから、桃太のところへ駆け寄り、桃太をぎゅっと抱きしめ、

「よかった、けがはない? 怖かったね。もう大丈夫よ。」と声を掛けた。桃太がうんと頷く。少し安堵した。それから、もう一度後ろを確認してから、桃太を抱えるようにして、家路を急いだ。

 一方、長い時間を掛けてようやく猿丸が砦に戻ると、大騒ぎになっていた。猿丸が自ら定めた時刻になっても戻らないのは初めてのことだったからだ。

「お頭、大丈夫ですか。」

「うるさい、俺に構うな。」

「しかし、傷が。手当をしませんと。」

「構うなといっているだろう。」

 猿丸は苛立っていた。部下達を振り払い、自分の小屋に引きこもったきり、外へ出てこなかった。

 こんなことは初めてだ、と部下達は不安を覚えた。あの傷は、一体誰にやられたのかと噂し合った。まさか、と一人が否定する。猿丸様より強い者があるものか。争いによるものではない。いやいや、猿丸様の様子は尋常ではない。何者か、手練れの者と戦って、相打ちか、はたまた、敗れて命からがら逃げ帰ったか。いずれにしても、と年長の一人が言う。猿丸様が最強ではないかも知れぬということだ。猿丸様に頼っていてはだめだ。自分のことは自分で守らなければならない。ここを攻め込まれたら、我らに生き残る道はないぞ。

 ほんのしばらく前まで、鉄壁の団結力を誇っていた軍団は、不可解な猿丸の行動で、ばらばらに崩壊しようとしていた。

 猿丸にも部下達がひそひそと噂し合うのが聞こえていた。それがなおさら、猿丸を苛立たせた。口惜しかった。手も足も出せず、何がどうなったかも分からぬほど簡単にあしらわれてしまったことが、猿丸の自尊心を踏みにじった。

 猿丸は、寝台に横たわり、静かに目をつむり、先ほどの出来事を繰り返し思い起こしていた。何故負けたのか。確かに打ち据えたと思った瞬間相手の姿が消えていた。透けて抜けたように、相手の身体を捉えることができなかった。力なら誰にも負けない自信があった。しかし、力を使うこともままならなかった。あんな技を使う者にあったことがない、と猿丸は思った。やはり、魔物か。それに、河原の女と小僧は何者だったのだろうか。何故あのようなところにいたのか。女はこの辺りの者ではなかった、と猿丸は思う。高貴な都人の雰囲気があった。女の素性を知りたいと思った。女が何者か分かれば、魔物の正体も、倒し方も分かるかもしれない。

「いまいましい魔物め。」

 猿丸は呟いた。魔物が何者であろうと、この次出会った時には決して不覚はとるまい。必ずこの手で倒してみせよう。

 猿丸は、棍棒を手に、だっと小屋を飛び出し、一番高い木のてっぺんまでするすると登った。そうして、木の枝にすっくと立って、月に向かって野獣のように吠えた。それは、部下達の不安を吹き飛ばすほどの、荒々しく力強いものだった。ぴんと張りつめた空気が降ってくるようで、山賊達は身が引き締まった。皆が蒼い月を見上げた。


 きぎすは、いつもと変わらず、何事もなかったように桃太を抱いておじいさんとおばあさんの待つ家に帰ってきた。今日の出来事は、老夫婦に心配かけないよう、しばらく黙っておこうと思った。

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