Ⅴ 召喚魔術のお稽古

 他方、ドン・キホルテスとサウロが草刈りに勤しむ要塞の傍ら、この城の主ともいえる船長カピタンマルクは、敷地の一角に建つ古い御堂の中に籠っていた。


 もともとはこの要塞にあったプロフェシア教の私的な祈祷所を、彼が悪魔召喚用の儀式場に改修したものだ。


「よっこらせっと……」


 薄暗い石造りの堂宇の中、くるくると巻かれていた円筒状のものをマルクは開き、足下の冷たい床の上にそれを広げる。


「さて、新作の簡易式魔法円はうまく作用してくれるかな?」


 その絨毯のようにぶ厚い一枚の布の表には、仔山羊の皮で作った紐を子供の棺桶から抜き取った釘で巨大な円形状に張り付け、その円の中に血玉髄ブラッドストーンという宝石を糊付けすると今度は大きな三角形を描いている……。


 また、円の外側には左廻りに「A・e・a・j」、円の内側の下方には「J.H.S」と聖なる文字が書き込まれており、布を綺麗に敷き終わると、マルクはその脇に処女の作った蝋燭を二本、壁際にある棚から持って来て静かにそっと立てた。


 それは、最近新たに手に入れた魔導書『大奥義書グラン・グリモア』に記されている専用の魔法円である……。


 本来はその都度、術者が自ら描いて用いるものなのだが、マルクはこうしていくつもの種類の魔法円を事前に用意しておき、それを船に載せておくと緊急の魔術使用にも対応できるようにしているのだ。


「準備はこれでよしっと。さあ、さっそく始めるとしよう……」


 続いて、新品の火桶も持って来て足下の三角の上方に置くと、その火桶に石炭、樟脳、ブランデーを入れて火を灯し、なんとも言い難い匂いの煙で堂宇内の闇を満した。


 ちなみに今のマルクは朝のラフな姿とは異なり、黒いフード付きジュストコール(※ロングジャケット)を羽織ると三角帽トリコーン魔女の帽子ウィッチハットを合わせたような帽子を被り、腰にはカットラスと短銃を下げた黒い革ベルトを巻いている。


 また、ジュストコールの左胸に金の五芒星ペンタグラム、右裾には仔牛の革製の六芒星ヘキサグラム円盤を着けており、これが魔術儀式を執り行う際のマルクの正装なのだ。


「では、失礼して……霊よ、現れよ! 偉大な神の徳と知恵と慈愛によって、我は汝に命ずる。汝、悪魔宰相ルキフゲ・ロフォカレ!」


 その姿で魔法円の中心に立ったマルクは、腰の短銃を引き抜くとその銃口を前方の闇に掲げ、悪魔召喚のための〝通常の召喚しゅ〟を唱え始める。


 だが、それは短銃に見えてじつは短銃ではない。柄や発射機構のカラクリは銃そのものであるが、その銃身はハシバミの木の枝で作られた短銃型の魔法杖ワンドなのだ。


 ちなみに短銃の形をしているのは伊達ではなく、引金を引くと火皿の上で硫黄と水銀が高速でぶつかり、わずか一瞬の内ながらも「卑金属を貴金属に、卑しき人の魂を神に近しいものに変える…」と云われる賢者の石エリクシールを錬成できるという、マリアンヌの発明品だったりなんかもする。


「…霊よ、現れよ! 偉大な神の徳と知恵と慈愛によって、我は汝に命ずる。汝、悪魔宰相ルキフゲ・ロフォカレ! ……うーん、さすが悪魔宰相さまはなかなか出てきてくれないか……ならば……」


 そのまま何度となく〝通常の召喚呪〟を唱えるマルクであったが、いつまでも変化のないことに業を煮やすと、短銃型魔法杖ワンドに加えてカットラスも引き抜き、悪魔への圧力のレベルを一段上げることとする。


 こちらも柄こそ半円形のナックルガードの付いたカットラス型であるが、その妙に短い刀身には神聖文字と魔術記号が刻まれており、いわゆる魔術用の短剣ダガーとなっている。


「…霊よ! 我は再度、汝を召喚する! 悪魔の中で最も偉大なる皇帝ルシフェルの名を用いて! 汝、次席上級六悪魔の一柱、悪魔宰相ルキフゲ・ロフォカル!」


 そして、通常呪に代わって〝さらに強力な召喚呪〟を唱えること数回。マルクの見据える虚空の暗闇に、ついに変化か現れ始めた……。


 ボッ…と前方の火桶から一際大きく炎が立ち昇ったかと思うと、湧き出す甘い香りを帯びた煙の中に異形の者の姿が浮かび上がる。


 頭には三本の捻じれた角、細身の身体はロバの脚と尻尾を生やした道化師のような恰好をしており、右肩には大きな輪っかをかけ、左手には銭袋のようなものを握っている。


「なんだ小僧、また貴様か……ま、今回は前回と違い、いきなり強力な呪文で呼び出さなかったことだけは褒めてやろう。皇帝陛下に次ぐ自席上級六悪魔、中でも悪魔宰相たるわしに対しての礼儀というものを少しは学んだようだな」


 気味の悪いしわがれ声で、そう語りかけてくる異形の者の名はルキフゲ・ロフォカレ。今回、マルクが用いた魔導書『大奥義書』で呼び出すことのできるかなりの高位悪魔である。


「やあ、ルキフゲ。この前はお世話になったね。おかげでソロモン王の72柱の悪魔、序列1位のバアルもすんなりと呼び出すことができたよ」


 そのいかにもな恐ろしい姿をした悪魔に対し、マルクは特に驚くでも臆するでもなく、いつもの調子で穏やかな微笑みを湛えたまま、場違いに朗らかな声で挨拶をしている。


 じつはマルク、以前にも一度、ルキフゲを呼び出したことがあるので初対面ではないのだ。


「フン! 賢者の石エリクシールを放つ銃で脅しておいて何をぬけぬけと……じゃが、今度はそうはいかんぞ? いくら脅そうと必ずや対価はいただく。もしも願いをかなえてほしくば、そなたの魂をその対価に…」


 他方、悪魔ルキフゲは苦々しげに鼻を鳴らすと、悪魔お決まりの対価の交渉を始めようとするのだったが。


「ああ、別に今回は頼み事ないから特に願いはかなえなくていいよ」


 マルクは召喚魔術の術者らしからぬことを、ケロリとした顔で平然と口にする。


「…………はあ!? そ、それじゃ、なぜわしを呼び出した!? かなえたい願いもなしに悪魔を呼び出す者など聞いたことがないぞ!」


「うーん……なぜと言われても、正直、ただ呼び出しただけなんだけど……ようは練習だよ。ほら、『ソロモン王の鍵』や『ゲーティア』による召喚術には慣れてるんだけどさ。『大奥義書』の流儀に則ったものはこの前が初めてだったから。今後のためにも慣れて起きたいと思って」


 一瞬、理解が追いつかずにポカンとした後、時間差でルキフゲが声を荒げると、マルクは困ったような顔でそう説明をする。


「じゃ、じゃあ、ただ悪魔召喚の練習がしたいからと、この悪魔宰相たる高位のわしを呼びだしたというのか!? ただ練習のためだけに!?」


「うん。そういうことだね。ただの練習って言うけどさ、僕はプロの魔術師だからね。一回こっきりで素人がする召喚ならともなく、魔術師にとっては日々の練習大事だよ?」


 驚き、呆れて聞き返すルキフゲだったが、マルクはやはりさも当然というようにそう答えるだけだ。


「いや、それにしたって練習で高位の悪魔呼び出すこたあないだろう……普通、そういうのは魔術師でもぶっつけ本番だぞ……な、何かないのか? 何か一つくらい望みはあるだろう? ほら、対価はおまけしてやるから遠慮せずに言ってみろ?」


「いや、だから別に何もないって。そういうわけなんで召喚も成功したし、目的は果たしたからもう帰ってもらってけっこうだよ?」


「いいや! きっと何かあるはずだ! ほら、自分の心に問いかけてみろ! なんでもいいぞ? なんでもかなえてやるからとにかく何か願え……ていうか、頼むから何か願ってくれ!」


 それでも首を横に振り、あっさり儀式を終えようとするマルクに対し、本当に何も望みがないとわかったルキフゲは俄かに慌て出す。


「この悪魔宰相がただの練習で呼び出されただけなど、このまま地獄に戻ったら皆の笑い者じゃ……もうこの際、ぜんぜん望んでないことでも別にいいから。とにかく何かわしにかなえさせろ! そ、そうだ! 何か食べたいものとかないか!? なんでも出してやるぞ!?」


「ええ〜? いやあ、そう言われも特に今はなにも……」


 その圧に、眉根を「ハ」の字にして困惑するマルクであるが、ルキフゲは先程までの見下した態度とは一変。願いを聞いてやるどころか逆に願ってくれるよう懇願し、最早、完全に立場が逆転してしまっている。


「じゃ、じゃあこうしよう! 夕飯! そう! 今日の夕飯だ! 夕飯には何が食べたい? そいつをくれてやろう!」


「夕飯〜? ……うーん…じゃあ、ヤギの脚の肉で」


 もう、なにがなんでもとにかく願い事をさせようと催促してくる悪魔宰相に、いい加減、うんざりしたマルクは適当に思いついたものを口にする。


「よし! ヤギの脚の肉だな? そんなものはおやすいご用意……て、それ、わしの脚見て思いついたじゃろ?」


 マルクのひどくてきとー・・・な返答に、ヤギならぬロバの脚をした悪魔ルキフゲは、なんとも嫌そうにその恐ろしげな顔を歪めた──。

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