第110話
「……で、どうしてここに逃げてきたの」
「なんか、いろいろ考えてたら頭がパンクしそうになっちゃって」
私はシアニル兄様のアトリエに逃げ込んでいた。
普段何かを作っている時の兄様は、家族でもあまりアトリエに足を踏み入れてほしくないってことはみんな知っている話。
それは私だって例外ではないのだけれど、でも今はちょっと静かに考える時間がほしかった。
(三人は前に進んでる。私も、前に進まなきゃいけない。だけど……)
前世の分、私はみんなよりも大人なんだからしっかりしなくちゃ、とは思うのだ。
だから政略結婚は仕方ないけど関係を築いて、目標である『穏やかな家庭』を築くことの理想に近づけるよう頑張ってきたつもりだ。
だけどここに来て、私は、私自身が
(恋をしたくない。大人になりたくない)
私は家族がほしかった。あったかくて、抱きしめてくれる家族が。
そしてそれは今、叶っている。
優しい父がいて兄たちがいる。
大好きだと言って抱きしめてくれる。
まさに
「……ニア、ニーア。ほら、おいで」
「シアニル兄様」
アトリエの隅っこで体育座りする私に、シアニル兄様が作業の手を止めて私を呼んでくれた。
邪魔なんかしたくなかった。
でも、その優しい声と広げられた手に抗えず、私は兄様に勢いよく抱きつく。
「どうしたの、ニア」
「お嫁さんになりたいけど、なりたくない。みんなとずっと一緒がいい」
「……うーん、そっかぁ」
どだい無理な話だ。自分でもおかしなことを言っていると理解している。
まるで本当に子供になってしまったかのような気分だ。
いや、私は子供だった。
十歳の子供だ。
「父様と、兄様たちがいて、幸せなの」
「うん」
「あの三人のこともユベールのことも、とってもかっこいいなって思うし、私は皇女だからしっかりしなくちゃって思うし」
「うん」
「でもお妃様たちにあの三人のことで話しかけられると急かされてるみたいで」
それが辛い。
早く結婚して、この温かな家族と離れろって言われているみたいで。
(兄様たちだってずっと城にいるわけじゃない。婚約者がいて、いつかは出ていく)
わかっているのに。
今のままだったらいいのにと思ってしまうのはわがままだって。
トン、トン、トン。
背中を緩く叩くシアニル兄様の手が優しい。
「ニア、大丈夫。確かにいつまでも城にはいられないし、ぼくらは住む場所を変えるだろう。でも焦らないでいいんだ」
「……うん」
「ニアには可愛い足があるでしょ? 好きなところに、行くことができるんだ。この国の皇女であるお前が行ってダメなところはないって、父上も仰ったろう?」
「うん」
ああ、なんてみっともないんだろう私。
なのに兄様が抱きしめてくれる手がどこまでも優しくて、甘えたくなってしまう。
こんなんじゃだめなのに。
しっかりしなくちゃだめなのに。
「ああ、ニアの花嫁姿は綺麗だろうなあ。でもお嫁に行かせたくないかも。うん、わかったような気がする」
「ええ……?」
それはわかっちゃいけないやつなのでは。
私が首を傾げると、兄様はおかしそうに笑った。
「それで? 最近は候補者たちとどんな話をしたの?」
ニヤニヤ笑ってるのに、どうしてシアニル兄様は上品なんだろうか。
世の中って理不尽だ。
「えっとね……ユベールも私の候補者になったって兄様も聞いた?」
「うん、聞いたよ」
「それでね、父様が……」
結婚するということはいつか自分たちが民を導く側になるということ。
周囲の協力は必要だけど、周囲に言われるがままじゃだめだって諭されたこと。
自分たちがどう選んでいくのか、考えろと言われたこと。
「サルトス様には一緒に木を育てていける相手になりたいって言われて」
「うん。……うん?」
「ピエタス様も、絵をプレゼントしてくれてね? これからも一緒にお茶していきたいって言ってくれたの」
「……うん」
「フォルティス様も獣人族は愛が重いけどそれでもいいかって。比べようがないからわかんないって答えちゃったけど、一途なのはいいことよね?」
「うーん、そっかあ。……そっかあ」
なんだろう、シアニル兄様がプルプル震えている。
笑いを堪えているようだ。
「これは他の兄弟たちにも共有しないとだね!!」
「ええ!?」
「さすがは我が可愛い妹だよ! 帝国一の花嫁になる日も遠くないね」
「ごめん兄様、何言ってるかちょっとわかんない」
抱きしめる手はそのままに、シアニル兄様は勢いよく立ち上がりドアを蹴り破った。
おかげで外で待機していた護衛騎士たちが目を丸くしているじゃないか。
「庭園にお茶を用意して、暇な兄弟たちは来てくれていいって連絡しておいて」
シアニル兄様はそれだけ言うと私を抱えたまま歩き出す。
護衛騎士や侍女さんたちが慌てる姿には目もくれない。
私は目を丸くするしかないけど、なんだろう。
落ち込んでたのが、どこかに吹っ飛んだのだった。
「……ありがと、兄様」
「いいんだよ、いつだってニアが辛い時はぼくらがそこから連れ出してあげるからね」
頼りになる兄様がいて、妹は幸せです。
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