ページを埋めた人

時雨 蒼雫

ページを埋めた人

「電話かけてもいい?」

突然のメッセージに瞬きが増える。外は乾いた風が肌を刺す季節になってきたというのに、じんわりと手に汗を感じる。見間違いだろうか。再び光る画面を覗き込み、届いたメッセージを確認する。電話は得意じゃない。数週間前にアプリを通して知り合った人。短いメッセージを送る彼はあまり自分を語らない。知っているのは、彼が今出張中であることと、出身地が九州であるということぐらい。そんな数少ない情報で形作られた頭の中の彼が発する声は想像もつかない。どうしよう、断るべきか。ああ、でも…。歩いたり座ったりと心が決まらない。そうして自分の足音の騒がしさに疲れてきて、やっとベッドに腰を落ち着ける。やってみるかな。少しの好奇心が文字の向こうの彼に応えるように声に出しながら文字へと変えていく。少し深めに息をついて送信するそのタイミングで画面に彼の名前が表示される。あ、と勢いで電話に出てしまう。

「既読ついてたけん。待てないし、声聞きたくてかけたんやけど。今だめだった?」

少し訛りのある落ち着いた低めの声が耳に流れ込む。こんな声なのかと意識した瞬間に心臓が踊り、耳から熱が伝わる。どうしよう、本当に話している。こういう時頭をよぎるは要らぬ情報ばかりで。最近のスマホは性能が良い。周囲の音も拾うことがある。もしかすると吸う息の音も聞こえてしまうかもしれない。ぐるぐると巡る思考に今までの呼吸を忘れてしまう。

「もしもし、聞こえてる?」

彼の声に現実に引き戻され、少し上ずった声が出る。恥ずかしい。

「もしかして、緊張しているの?可愛いなあ」

的を得た彼の発言に心臓のリズムが乱れる。明らかに慣れていない私と慣れていそうな彼。可笑しそうに笑う声に、対面しているわけでもないのに身振りをしてしまう。変に汗をかいてしまって、服装を間違ってしまったかと錯覚する。

「ねえ、仕事が落ち着いたら、デートしようよ。顔見て話したいし、手つなぎたい」

部屋の温度はまた上がったようだった。頷くのがやっとで言葉を上手く発せないまま電話を切って息をつく。胸に当てた手にはまだ収まらない鼓動が伝わり、頬は自然と緩んでいく。電話後に交換した彼の写真は色気のある目元が印象的で、付け加えられた「可愛くて好きな声だった。また電話しよ」に心臓はまたリズムを崩した。この人とデートするんだ。捗る妄想にその日は目が冴えて全然寝付けなかった。電話の回数が増える度、余白の目立った日記帳を文字が埋め尽くすようになった。


「泣いてるん?今どこおると?会いに行くけん動かんで」

彼が出張から戻ったその日。朝から調子が悪い、そういう日は大体運も悪い。不運に重なる不運が生んだ小さな事故。気が付いたら涙が出ていて、彼に何となくメッセージを送ってしまっていた。返信の代わりに電話がかかってきた時、冷静な自分が帰ってきて急に恥ずかしくなった。電話を切るときには涙も乾き何度も大丈夫と伝えたが、以降メッセージに既読がつかない。連絡がつくまでは動くに動けない。帰るわけにもいかないからと近くのコンビニで飲み物とお菓子を買う。手が冷たいなとポケットの中で握ったり開いたりをしていた時、大きいバイクの排気音が近づいてきた。何となく怖そうな雰囲気に目を逸らすもバイクは目の前に停まってしまった。靴のつま先に視線を向け、なるべく気づかないふりをする。

「大丈夫?もう泣いてない?」

聴き覚えのある声がする。視線を上げると、ヘルメットを外しながら降りてきたのは写真で見た彼だった。電話越しで聴くよりも低い声。細身で長い手足。写真よりも柔らかい雰囲気。優しく頭を撫でてくるその仕草に指先に熱が戻ってくるような気がした。

「まだ落ち着いてない?こっちおいで」

そのまま抱き寄せられ、身動きが取れない私の頭に彼が顎を載せてくる。香水の匂いが鼻孔をくすぐり、抱きしめられていることを自覚する。彼の胸に耳を寄せると、自分と彼の心臓の音が反響しリズムの違いが感じ取れる。

「てか、もう泣いてないやん。けど、やっと会えたからもう少しこのままでいい?」

楽しみにしていたことが嬉しい。頬が緩むのを感じながら頷く。

「ありがとう。初めてちゃんと顔見たけど写真より可愛いけん、緊張するわ」

耳元で笑い声とリズムの変わらない鼓動が聞こえる。緊張しているなんて嘘だ。同じくらいドキドキしてくれれば良いのになんて傲慢な思いが沸き立ち、睨むように彼を見上げる。

「なん、そんな可愛い顔で見て」

そう話した彼は顔を近づけてきて、反射で目を閉じた私の額に唇をつけた。え、と理解するより先に目元に彼の手が覆いかぶさり、そのまま唇が重ねられた。温度の上がった血液が体中を巡り、末端までが熱を持ったのを確かに感じる。

「耳まで赤くなってる。可愛いね」

耳元で囁きながら目元から手を離して目線を合わせて笑いかけてくる。その目で見ないで。私まだ準備できてない。そんな焦る思いとは裏腹に気持ちは制御できず転がり落ちていく音が確かにした。その音に確信を持ちながらも気づかないふりをして、目線を逸らす。

「体冷えちゃうけん帰ろ」

こちらの気持ちを透かしてみたのか、深く追うことはせず彼は手を繋ぎながら家の前まで送ってくれた。夢見心地という言葉がしっくりくるほどでこの日の日記は言葉が上手く出てこなかったが、その余白が心地良かった。


「次に付き合う人とは結婚も考えているんよね」

何度目かのデートの終わりに彼が話したこと。出会ってから約2か月が経つ。季節もすっかり冬へと入り、寒い日が続いていた。お互いの仕事の都合があるものの、ほぼ毎週末は彼と過ごし、疲れていても彼が会える時間であれば彼の家に会いに行くこともあった。彼の言葉に自分のことを考えてくれているのかとも思ったが、頭をよぎる部屋にあった私物たち。一緒に動画を見たり、ごはんを食べたり、ドライブに行ったり。楽しく優しい思い出が私をぬるりと包み込む。そうなんだ、とだけ返事をして帰る準備をする。

「ね、今日も泊っていかないの?」

今泊まるとより関係が曖昧になってしまうことを危惧して、遅くなっても家には絶対に帰ると決めている。それを知ってか知らずか彼は毎回甘い笑顔で尋ねてくる。普段は何かと理由をつけて帰るが、その日は少し期待をしてしまっていた。もしかしたら。彼が頭を撫でてくる。温かいな。この時間が続かないかな。顔を見て言葉を発するのが怖くて少し俯いたまま、私のことはどう思うか聞いてしまった。

「んー、内緒」

心のどこかで諦めたような気持ちを残しながら、彼の笑顔に笑顔を返す。さっきの話は私の話じゃなかったんだな。靴を履いて、いつものように彼とハグをしてから家を出た。吐く息は白く、空気に馴染んで消えていく。彼から貰う言葉は優しくて私を嬉しくしてくれるものばかりのはずなのに、気づいたら見えなくなる。さっき彼の部屋で見つけた右手のささくれの痛みが増した気がする。痛いから今日はペンを握れないと思う。


「今から会えない?どうしても会って話がしたくて」

最近は連絡の頻度もかなり減って、会う機会も減っていた。忙しく駆け抜けた春も終わりかけ、雨の降る日が増えたように思える。じとりとした空気は気分にも重りをつけ、何をするにも足を引きずってしまう。会って話がしたいなんて言う人じゃない。この頃は会話をしていてもどこか一方通行で、でも変わらずスキンシップはあってという具合で一緒にいたい気持ちと逃げ出したいちぐはぐな気持ちを扱いきれていなかった。そんな中での違和感のあるメッセージに嫌な胸騒ぎがする。電話じゃだめかな。震える指先で平常心を装うことを意識して文字を打つ。

「電話じゃだめ。会って話したいことだから」

間髪入れずに来る返信。会うのかと思うと緊張と違和感が鼓動に拍車をかける。最後に会ってから1か月弱。今会うと顔を見るだけで何故か涙が出る気がする。つんとした鼻の奥に気付いているから、仕事が忙しくて今日は会えそうにないとだけ返事をしてスマホの電源を切った。

「そっか。実は今月で異動が決まったけん、もう会えん。元気でな」

電源をつけて気づいたこれが最後のメッセージで、彼とはそこから連絡がつかなくなった。彼はいつも優しかった。撫でてくれる手は大きく、悩むと立ち止まってしまう私の手を優しく引いてくれた。きっと最後も彼なりの気遣いで連絡をくれたのだと思うと優しさが痛い。彼は私の友人や職場の話をしていると、怒った表情で胸元に紅い印をつけて。「消えるまでにはまた会おうね」と目を細めて頬を撫でてくれた。でも、傍にいるふりをして、隣の席には座らせてくれない。私の心も頭も彼でいっぱいなのに、鼓動のリズムは彼と一緒になることはなかった。二つの季節を過ごして気温は上がったはずなのに、冷房で指先はまた冷たくなっている。

 また出会った季節が来ようとしている。あの日捲ったページで指を切ってから日記帳を開くのをやめた。でも、本棚には並んだままで新しい物は買えないでいる。

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