第25話 陽炎ノ涙
産声をあげることすら叶わなかった魂が、拠り所を喪って、姿を保てるわけがない。彼らは潤の死によって、自我が崩壊していくはずだった。だが、その直前。彼の実の妹である、百合花が現れた。彼女を依存先とすることで、精神だけはこの世に留めることができた。
〈――それなのに〉
〈外〉の世界の水月は、孤独だった。
何年もかけて、人の姿を再構築して。ようやく百合花の前に姿を現すことができると思ったのに。彼女の隣には、心に決めた男がいた。やがて、男が姿を消しても、彼女の瞳に、水月が映ることはなかった。
――誰にも認識されることはない。そのために、潤とともにいた時は安定していた姿は、ひどくおぼつかなかった。ようやく彼女が見てくれた時の水月は、陽炎のように揺らめく、醜い怪物だった。それでも良かった。百合花が笑って過ごせるのなら、隣にいるのが自分でなくとも……それで、良かった。
だが男は、百合花に牙を剥いた。魂の拠り所を奪った挙句、彼女の心に深い傷を負わせた。赦せるはずがなかった――だから、水月は、徹底的に全を痛めつけた。
〈ねぇ、もう大丈夫だよ。きみを傷つけるものは――〉
「いやあああああああああああああああああ!!」
劈く悲鳴に、水月は酷く狼狽した。彼女を救い、向けられたものは――激しい拒絶と、恐怖だった。
〈あ……、あははは。まて、まてーーっ!〉
ズキンズキンと痛む心に、厚い蓋をして。水月は、潤との思い出を反芻し、今と重ねた。ぼやける視界の中、必死に彼女の背を追いかける。……けれど彼女は、時折振り向いて笑いかけてくれることは、なかった。
追いかけているうちに、見覚えのある場所に行き着いた。
〈ここ、は――〉
理解すると同時に、百合花が廃れた鳥居をくぐった。水月は、神社の前に立ち、鳥居の向こう側を見つめた。石造りの地面も、境内を覆うように生える木々も、寂れた祠も――安心するような匂いも、潤とともに過ごした時と、何もかも同じだった。……けれど。
潤の亡骸が、脳裏に浮かぶ。もう、この場所には来たくない――水月は、悲しげに姿を揺らめかせると、煙のように消えていった。
場所は変わり、暗がりの路地裏。水月は、再び百合花の前に姿を現した。だが、彼女の隣には、別の男がいた。しかも、男から感じ取れる気配は、水月にとってかなり嫌なもの。朧気な記憶──怖いものを振りかざす黒い影と、全く同じだった。男の力に触れた時、嫌悪感はより明確なものとなった。
追いかけても追いかけても、拠り所とした彼女は、残虐な男とともに逃げるばかりで。揺らめく指先は、空を切るばかりだった。
〈――そうだ。あいつと同じ、男になれば〉
自分の思う「男」の姿をつくりあげ、百合花の前に姿を現した。やっと、潤に見せていたものと同じ姿で、顔を合わせることができたのだ。だが、彼女は……、公園にいた人間たちが潤に向けたものと同じ視線を、水月に向けた。
〈どうして……? かなしい、かなしい、かなしい……〉
それでも、自我を保つためには、潤の名残を持つ、彼女を「水」とするしかなかった。拒絶されても、恐怖されても。彼女に縋るしか、なかった。
〈――お願い。わたしを見て。わたしを愛して。
どれだけ拒絶されようとも、恐怖の眼差しを向けられようとも。水月は、彼女の姿を追いかけた。そうすることでしか、存在を保つことができなかった。潤との思い出を、自身の消滅とともに掻き消したくなんて、なかった。
振り払われて、追いかけて。切り裂かれては、心を取り戻して。それを繰り返していくうちに、彼女はもの言わぬ骸となっていた。
〈あ、あああ……、あああああああああああああああああ!!〉
水月は、生まれてくることすらできなかった魂。誰かに寄りかかっていないと、自己を保つことすらままならぬ、不安定な存在。それなのに、またも拠り所を喪ってしまった。
乾ききった月は――「水」を求めて、暴走を始めた。
〈いのちをちょうだい〉
……。
……。
……。
――いかないで。
◇ ◇
「――ごちそうさまでした」
ガクンと崩れ落ち、膝をつく水月。「絶望」を喰われ、人格を形成する大切なモノを奪われた水月は、何の感情も宿さずに天井を見上げている。
「なぁ、水月」
壊れた水月を見下ろし、ショウが言う。強大な霊の絶望を喰らい、力を得たことで、身体の傷は完治していた。
「みんな、死んだ。消えたよ。お前に殺されて、魂を喰われて」
「絶望喰い」の過程で、副次的に流れ込んできた、だれかの記憶。それは――産声をあげることすら叶わなかった魂と、現世の生きとし生ける者から疎まれる半妖の、あまりに儚い共依存。すべてを知ったショウは、なんとも言えない表情で語りかけた。
「なぁ――命を奪うことで、お前の心は満たされたのか?」
水月の目に、怒りが宿った。それは、月光というより――獣の目だった。
【黙れ、強姦殺人野郎! 綺麗事を抜かすな!!】
「……!?」
ドスの効いた男の声。顔立ちは水月そのものだが、完全に別人に見えた。
「お前……だれ」
不自然に途切れた言葉。鋭利な爪が、目にも止まらぬスピードでショウの首を跳ねた。勢いよく吹き飛ばされた頭部は窓にぶつかり、血痕を残す。首は数メートルほどごろごろと転がった後、動かなくなった。首が切り離された胴体は、切断面から鮮血を撒き散らしながら、力なく倒れた。
「はっ……! はぁ……、はぁ……」
ショウの身体が倒れ込むとともに、水月は正気を取り戻した。乱れた息を吐きながら、おそるおそる己が手を見やる。真白い手に、血がべっとりとこびりついていた。
「ひっ……!」
赤く染まった自身の手に、水月はひどく怯えた。心に深い傷を残したあの出来事が――もう戻らない大切な×の×の記憶が、思い起こされるのだ。
「あ……れ……?」
水月は、頭を抱えた。ゆら、ゆら、ゆらり。水月の姿が、おぼつかなく揺らぎ始めた。
〈なんで、こわいんだっけ……?〉
【おれはここにいるよ。水月】
――思い出せない。忘れてしまったものが、とても大切なものであることは、痛いほどに分かるのに。肝心なところは、霞がかってしまったかのように、思い出すことができなかった。
〈やだ……、いや、だ……〉
【一緒に溶けてなくなろう。大丈夫。1人じゃない】
なまえ、神社、石、声。木、祠、空、鳥居、雨、雲、男、隣にいた――、
追憶をなぞろうとするたび、思い出の断片は次々と消えていく。
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……。
【……】
……。
記憶が、曖昧になっていく。自己が、崩壊していく。それとともに、水月の身体も、夜の校舎へと溶けていった。
〈ぼクは……、わたシ、は。ダレ……?〉
――その言葉を最後に、「水月」という魂は消滅した。
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