第24話 水無月物語~おわり~

(すい……げつ……)


 薄れゆく意識の中、水月との思い出が、走馬灯のように駆け巡る。色違いの両目は無残に潰され、もう何も映しはしない。幾度も刺された腹部からは、赤黒い内臓が露出していた。


 黒い怨霊の手には、べっとりと血がついた包丁が握られている。臓物が出るほどに刃を突き立ててもなお、怨霊の憎しみは潰えていなかった。恨めしそうに――そして、どこか悲しげに、ぐったりとする潤を見下ろしている。


「……、て……」


 潤の唇が、小さく動いた。壊れた機械のような動きで頭をあげ、ゆっくりと虚空へと手を伸ばす。血が流れ、ぽっかりと空いた眼孔と、黒ずんだ目が、ばっちりと合った。


「愛、して……る……」


 掠れた声で、愛を睦み。それを最後に、潤は事切れた。――瞬間、怨霊を覆っていた漆黒が、はじけ飛んだ。


 黒い殻から現れたのは、水月と瓜二つの顔をした霊だった。ただ、淡い金色の目を持つ水月とは違い、その目は血のような赤色をしている。そして性別が、水月とは真逆のように見えた。服は何も身に着けていないが、水月と同様、人体を完全に理解してはいないのだろう――人間のシルエットをしているものの、身体のすべてが白くぼやけていた。


「……なん、……っで、……」


 絞り出すように発せられた声は、ノイズのようだった。水月と同じ顔の名もなき霊は、膝から崩れ落ちた。霊の目に、じわりと涙が滲みだす。目の淵からあふれ出たのは――血と変わりなかった。


「――アイツばっかり!!」


 激しい怒りを露わにし、赤く染まった衿に掴みかかる。


「なんとか言えよ! なぁ、なぁってば!」


 両手で身体を揺さぶるが、死体が答えるはずもない。どれだけ問いかけても無反応な彼に、霊の顔がだんだんと歪んでいった。


「――潤?」


 背後で鳴った、澄み切った声。霊は、勢いよく振り返った。淡い金色と、燃える真紅の目が絡み合う。


「……だれ?」


 首をかしげる水月。霊が、妬ましげに唇を噛んだ。


「じゃま」

「――――っ!」


 潤の姿が見えないことに苛立ち、水月は凄まじい霊力を放った。圧倒的な力に押しつぶされ、霊は姿を保てずに掻き消えた。その後ろから現れたのは、ぐったりとして動かない潤の姿だった。


「っ潤!」


 水月が、顔を真っ青にしながら彼のもとに駆け寄る。


「潤、大丈夫!? どうしたの!?」


 必死に呼びかけながら、赤く染まった肩を揺さぶる。骸となった彼が答えるわけがないのだが、水月はまだ「死」を目にしたことがなかった。知識としてはあっても、実際に見たことのないものを即座に理解することはできない。――それは、瓜二つの霊もまた、同じである。


「潤! ねぇ、ねぇってば!」


 何度も、何度も呼びかけて。

 肩を揺さぶって。

 何も言わぬ唇と、とめどなく溢れる血を見て。

 一切の力が抜けきった身体に触れて――。

 じわじわと、思い知る。


「……じゅん?」


 ――ぐちゃ。


 おそるおそる、触れた腹部。先ほど触ったのとは、明らかに違う感触だった。生あたたかくて、弾力がある。そこは、少し硬い触り心地だったはずなのに。頭をぐらつかせながら、水月は己の手を見る。


「え……」


 白い手は、べっとりと赤で染まっていた。手にこびりついた血と、ぐったりとする潤を交互に見ることを繰り返し……、水月は、完全に理解した。


 ――潤は、死んだのだと。


「うわああああああああああああん!」


 亡骸の前で、崩れ落ちた。彼はもう、話さない。動かない。もう二度と、雨のように穏やかな声が、やさしい言葉を投げかけてくることはない。もう、二度と――その手が、水月に触れることは、ない。


「いやだ……っ、いやだあああああああああああ!!」


 暗澹たる空の下。小さくおぞましい境内に、水子霊の慟哭が響く。生すらも知らぬ無垢な魂に、唯一無二の存在の死は、あまりにも重すぎた。潤の命はもう、雨とともに溶けていった――受け入れられなくて、受け入れたくなくて。水月は、ただひたすらに泣き続けた。


 ――やがて、空が白み。日が昇って、また落ちても。悲しい霊の泣き声は、止むことはなかった。心に、埋めようのない穴がぽっかりと空いたかのように――水月を満たしていた水が、流れ出ていく。


 ぽつ、ぽつ……。


 地に、水滴が落ちる。雨はすぐに激しくなり、あっという間に辺りを潤した。ノイズのような雨音とともに、水月の身体が、だんだんと歪んでいく。


「あ――いや、だ……」


 かりそめの身体が、陽炎のようにゆらゆらと揺らめく。人の形を失っていくとともに、視界がぼやけていく。潤の姿が、霞がかり――遠ざかっていく。


〈や、だ……。きえない、で……〉


 透明になりかけの手を、潤へと伸ばした、その時。


「――お兄ちゃん?」


 水月の耳に、少女の声が届いた。ぼやけた視界に、潤によく似た色の女の子が立っているのが映った。灰色の髪に、アイスブルーの左目を持つ彼女は、幼き日の百合花だ。


 ――おにいちゃん。兄。潤の血縁。潤と似た姿形を持った存在。


〈――――、〉


 縋るように、揺らめく手を百合花へと伸ばす。すぐにその手は掻き消えて、水月の身体は、夜の闇へと溶けていった。

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