第23話 水無月物語~雨音に溶ける月~

 濡れた唇を、水月のそれに強く重ね。すぐに覚えた違和感に、潤は顔を離す。接吻は初めてだったが、それでも「明らかにおかしい」と言えるほどの、違和感だった。


 ――感触が、なかったのだ。まるで、空に口づけたかのような――そんな感覚だった。


「あ――」


 流れ込んできた不可解の念に、水月が気まずそうに視線をそらした。


「そ、の……」


 水月の唇が、小さく言葉を紡ぐ。薄い桃色が控えめに動くのを、潤は飢えた瞳で凝視した。


「さっき、わたしのこの姿は、人間の真似をしてみただけって、言ったよね」

「……」

「だから、ね。大まかなことは再現できても、その。細かいところとか、見えないところとかまでは……わからなくて」

「……」

「……あの、潤?」


 相槌も打たず、言葉ひとつ発しない潤。無言のまま、じぃっと見つめてくる彼に、水月が困惑の声をあげた。


「じゅ――」


 潤が、白い手首を荒々しく掴んだ。


「さわって」


 穏やかで――そして、欲を孕んだ声で言いながら、白い手を己の頬に添えさせる。手のひらに、じわりと熱が広がった。


「さわって、水月」


 男の手が、柔い手を包み込んだ。茹る頬を伝わせ、潤んだ唇へと誘う。水月は、戸惑いの眼差しで潤を見上げる。2人の視線が絡む。潤は、赤く滲んだ目を妖しく細めた。


「これが“くちびる”だよ。……分かる?」

「え、……あ、」


 ふに、と。白い指先を、唇に押しつけた。慣れぬ雰囲気に気まずくなり、水月は無意識に手を離そうとする。潤が、握る力を強めてそれを阻止した。


「ダメ」


 幼子に言い聞かせるように。今度はやさしい力で、水月の指を1つ、1つと折っていく。


「――ほら」


 残した人差し指で、唇の輪郭を、粘膜を触れさせる。端から端までなぞらせて、下唇を押させて。湿った指先を、上唇で食む。


「真似、できそう?」


 唇の隙間から、つぅ――と唾液が垂れる。淫猥な雫が、水月の首筋に落ちた。


「じゅ、潤!」


 じりじり、じわじわ、ぞくぞく。知らない感触に――、彼の思念に怯え、水月が制止をかけた。胸板に添えられた手に、潤は動きを止めた。


「もう、やめよう。なんか潤、変だ――っひ!?」


 ――れろ。見せつけるように、潤の舌が細い指先を舐る。水月の肩が、びくんと跳ねた。


「こういう感覚は、分かるんだ?」

「こういうって……、よく、わからないよ。なんか、むずむずして、今すぐやめて欲しいん、だけど」

「本当に?」


 鋭い視線に射抜かれて、水月は言葉を封じられた。――おかしい。彼から教わることは、すぐに理解できたはずなのに。わからない。まったく未知の感覚に、金色の瞳がおぼつかなく揺らぐ。


 やめて欲しいのは本当だった。けれど、全力で拒絶したいかと問われれば、明確に違う。嫌だけど、嫌じゃない。矛盾した感情――。


「潤っ!」


 考えても考えても、導き出せぬ答え。迷宮から助けを求めるように、彼の名を呼んだ。


「わからない……。わからないんだ、この感情が。だから――」


 自由なほうの手を、潤の頬へと伸ばした。


「わたしに、全部教えて」


 ――ドクン。潤の心臓が、いっそう強く脈を打った。頭をガツンと殴られたかのような衝撃。ぞろりと湧き上がった情欲が、眼下の獲物を喰らい尽くせと喚く。


 白い肌を指でなぞって。音を立てて舐め回して、ふいに噛みついたら、無垢な魂はどのように鳴く。征服したい。滅茶苦茶に掻き抱きたい。穢れを知らぬ××に××を××××て、尽きるまで何度も、何度も、何度も。×××××熱を×××××――×××たい。


 喉仏を上下させ、暴れる欲を唾液とともに飲み込んだ。淫猥な言葉の代わりに、艶めかしい息が漏れる。気を抜いたら、理性など消え失せてしまう。昂りを抑えるために、潤は大きく息を吸って、吐いた。


「――いいよ、教えてあげる」


 耳元で囁くと、華奢な指を口腔へ導く。なまあたたかい軟体が、ヌルヌルと蠢く感触。水月は、思わず指をひっこめようとした。


「逃げちゃダメ」


 逃げようとした指をを食み、甘くとろけるような声で叱る。


「今夜は――ちょっと悪いことを、覚えよっか」


 これから一体、何が起きるというのか。不安、そして少しの期待が、ぐるぐると渦巻く。


「わかった。色んな事、教えてよ。……じゅん」


 雨は、まだ止まない。すべてを濡らす空の下、2体の異形は、傘も差さずに乱れ合った――。



 ◇



 ――雨が、止んだ。


 祠の前で、規則正しい寝息を立てて眠る水月。濡れた青髪に、潤の手が触れた。あどけない寝顔に、思わず笑みがこぼれる。


「……水月」


 柔らかな声で、愛しい霊の名を呼ぶ。慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、青色の髪を撫でた。


「ずっと、一緒だよ」


 とうに神など消えてしまったであろう、祠の前。愛おしい霊に、誓いを立てるように言う。柔い唇を、そっと親指で撫でて、顔を近づけようとした――その時だった。


 ――ぞわり。


 ふいに、潤の身体に悪寒が走った。鳥居をくぐった瞬間に味わう、身の毛もよだつような感覚――それとよく似ている。境内を彷徨う怨念が、彼らに敵意を向けてきたのだ。


「……誰だ」


 気配は木の影からだった。潤は水月を庇うように立ち、悪意の塊を睨みつける。木の後ろから、黒い影が覗く。黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたかのような姿の、悪霊だった。


「この子を傷つけるのなら――っ!?」


 獣の爪を鋭利にし、臨戦態勢に入ろうとする。――が、それと同時に潤の体が吹き飛び、木に叩きつけられた。


「がはっ……!」


 背中を強く打ち、ずるずると木の根元に座り込む。潤は立ち上がろうとして、手に力を込めた。しかし、身体が石のように重たくなり、立つことができなかった。


「ぐ……っ」


 頭だけは、正常に動いた。見上げた視界に映し出されたのは、黒く塗りつぶされた男の影だった。潤は、その場から飛び退こうとした。――だが、彼の身体は、指1つすら動かすことも叶わない。


 ――落ちてくる刃先が、やけにスローモーションに見えた。






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