第22話 水無月物語~発熱~

 雨は、依然として激しく降りつけている。神社には、雨風を凌げるものは何もなかった。祠の前で、2人。傘も差さずに、鳥居の向こうを眺めた。


「潤、さむい?」

「うん……。水月は?」

「うーん。よく分からない」


 水月が首をひねると、潤ががばりと華奢な身体に抱きついた。平然としてはいるが、水月の身体もまた、氷のように冷えていた。


「なんだ。水月も寒いんじゃん」

「……そうなの、かな?」

「そっか……」

「やっぱりわたし、潤とは違うんだね」

「うん。それは、もちろん――」

「違う。そういうことじゃない」


 水月は、ふるふると首を振った。


「わたしは、生きていない――ううん、多分、生きたことすらないんだと思う。……だから、分からないの。潤の見ていた世界も、感じているものも」

「生きたことが、ない……?」


 水月から身を離し、そう問い返して、はっとした。――生きたことが、ない。つまり、生まれる前に死んだ魂ということ。潤には、思い当たる怪異があった。


「きみは、あの時の――」


 8年前、はじめて産土神社に訪れた時。潤は、淡い光を放つ、胎児の霊に触れた。それが水月だったと知り、潤は衝撃を受けた。


 たしかに思い返せば、胎児の霊と水月が繋がることは、いくつもあった。怨念の吹き溜まるこの場所で、何色にも染まっていない無垢さも、話すことはおろか、言葉すらも知らなかったことも――甲高い泣き声をあげることも。


「潤が思い出していることは、わたし、よく覚えてないの」


 今にも泣きそうな顔で、水月が言った。


「……でも、これははっきりと言える。この姿は、ぼんやりした記憶の中の人と、潤を参考にしてつくったものなんだ」


 膝に顔を埋め、くぐもった声で話す。


「人間を、真似してみたの。だから、潤の見ているわたしは、紛い物で……。きっと、本当のわたしは、醜い怪物なんだと思う。……ううん、姿すらも、ないのかもしれない」

「大丈夫だよ」


 潤は、すぐさま肯定の言葉を口にした。水月に寄り添い、そっと肩を抱く。


「皮膚の内側には、肉やら血管やら内臓やら、グロいのがぎっしりと詰まってるんだ。おれだって、そう。この世にある限り、薄皮を剥いだら醜いのは誰だって同じさ」


 やさしく、やさしく。華奢な肩を、とんとんと叩く。懐かしい感触に、水月の目が気持ちよさそうに細められた。


「だから、きみがどんな姿になったとしても、絶対に嫌ったりなんてしない」

「潤……」


 水月が顔を上げ、潤を見つめる。水月から、「嬉しい」という感情と、安堵の念が流れ込んできた。潤は微笑み返すと、青い前髪に人差し指を置いた。


「水月の方こそ、おれのこと嫌いになるなよ? これからはむしろ、おれのほうが――」


 死体になって、きみに醜態を晒すから。――その言葉は、突如彼の内に沸き起こった感覚に遮られ、告げられることはなかった。


「……っ? あ――なん、だ、これ……!?」


 ズクン、と。急激に身体が熱くなり、心臓の動きが早まった。


「はぁ……っ、はぁっ、は……、ぁ、……」


 胸を押さえながら、荒い息を吐く。長い間、雨に打たれたことによる発熱……では、なかった。この感覚は――――。


 脳裏に、2匹の獣の姿が映し出される。飢えた呼吸を繰り返し、身体を揺らし、欲望をぶつけ合う――コウビ。


「潤……?」


 水月が、潤の肩に手を置く。潤の肩が、大げさなほどに跳ねた。


「ご、ごめ」

「――水月」


 慌ててひっこめようとした手を、潤が掴んだ。肌に張りついた灰髪の隙間から覗いた目に、水月は息を呑んだ。


 ギラギラと光るアイスブルーの右目。

 充血した左目。

 射抜くような視線、強い力。

 見たこともない彼に、水月は金色の目を揺らがせた。


「う……っ、く、……っ、そぁ!!」


 苦悶の声をあげ、潤が勢いよく身を離す。水月は、戸惑いながら彼の背中を見つめた。


「潤……?」


 激しく上下する彼の背に、水月がおそるおそる触れようとした時。


「触るな!」


 潤が怒声をあげた。びくん、と水月の肩が跳ねる。


「あ、わ、わたし……、なにか、した……?」

「……」

「ねぇ、潤。こっち、向いてよ」

「……」


 水月が、許しを乞うような声で、潤の背に問いかける。だが、彼は何も答えない。


「ねぇ、潤」

「……」

「ねぇ――」


 言葉のたびに、涙声になっていく。背後から鳴る声に、潤の胸はひどく締めつけられた。本当は、今すぐにでも「なんでもないよ」と言ってみせて、力強く抱きしめたかった。しかし今は、獣の衝動を抑えることで精一杯。問いかけに応じる力すらもない。


(ちく、しょう……)


 理性の霞む心の内で、悪態をつく。父親と妹を侮蔑する資格などない。血は争えない――潤は自嘲した。


「うわあああああああああああん!」

「――!」


 悲痛な泣き声に、潤は思わず振り向いてしまった。視界に捉えた、美味しそうな雌の姿に、潤の本能がどくんと脈を打つ。襲い掛かってしまいそうなのを、足に力を込めてぐっとこらえた。


「無視しないでええええ! う"あ"あああああああああ! ごめんなさい”いいいいいいい!!」


 潤の葛藤など知らぬ水月は、泣き声をあげながら、彼に飛びついた。かろうじて保っていた潤の理性は、星の彼方に吹き飛んだ。


「――っじゅ、ん?」


 気づけば、押し倒していた。無垢な声に、わずかばかりの理性が呼び戻される。だが、もう――。


「お願いだ……っ」


 荒い呼吸を漏らしながら、切なる声で乞う。唇の端から、つぅ──と唾液が垂れた。濡れた唇の隙間から、淫靡な赤色が覗く。血走った目で水月を凝視しながら、潤は身体を降下させていく。降り注ぐ雨とともに、潤の髪から滴る雫が、水月に落ちた。


「嫌いにならないでくれ」


 噛みつくように、唇を重ねた。






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