第21話 水無月物語~雨鼠~

 ざあああああ――――。


 ノイズのような音を奏で、激しい雨が降り注ぐ。暗澹たる空から落とされる雫は、家を、塀を、電柱を湿らせていく。雨粒が地面から跳ね返り、無防備な足を濡らした。


「さぶ……」


 潤が、生気のない声で呟いた。草履はぐしゃぐしゃで、雨傘を持つ手は冷え切っている。松葉色の着物が、べっとりと肌に張りつき、寒さを加速させた。目はうつろに黒い地面を眺め、足取りはふらふらとおぼつかない。


 びちゃ……、びちゃ……、と。濡れた音を鳴らしながら、闇に包まれた住宅地を行く。何をしたいのかも、どこへ行きたいのかも分らぬまま、潤は当て所なく足を進めた。



 ――5年前の、秋。浅葱鼠色の空の下で、潤は、水月に別れを告げた。うつつと彼岸の狭間で揺らめく半妖は、ヒトにも、妖にも忌み嫌われる存在。……一緒にいれば、水月を不幸にしてしまう。ゆえに潤は、胸を引き裂く思いで別れを告げた。


 ――否。水月のためというのは、ただの建前。単純に、父親が怖かったのだ。


 怒ると怖い父の機嫌を損ねたくない。それは、年端のいかない子どもなら、誰もが思うことだ。社会から隔絶された潤ならば、なおさらだった。父の内なる狂気に勘付いてはいたものの、潤は普通に、鉄鼠を親として慕っていたのだ。


 ――今日、この日までは。


 よりにもよって、彼の誕生日だった。長い間、父親に抱いていた感情は、一瞬で黒い霧に覆い尽くされた。親愛も、信頼も、敬虔の念も、家族の絆も。全部、全部、全部、跡形もなく崩れ去った。


 深夜2時。厠に行こうとして、通りかかった父親の寝室から、奇妙な物音がした。子犬が鳴くような声と、猛獣の唸り声。じめっていて変な臭い。わずかに開いた戸の隙間から、潤はそっと、部屋を覗いた。


『――――』


 目に飛び込んできた光景に、潤は愕然とした。大きな鼠の化け物が、華奢な少女に覆いかぶさっている。大小2匹の獣が、布団の上で踊り狂っていた。


『何、してるの……?』


 気がつけば、そう漏らしていた。大きな獣が、ぐるんと振り向く。アイスブルーの眼が獰猛に光り、裂けた口は飢えた息を吐き出している。その下で、小さな獣が、恍惚として征服者を見上げていた。


 ――親と子どもが、身体を重ねている。目の前に広がっている光景を、じわじわと理解していく。すさまじい嫌悪感に顔を顰め、潤は逃げるようにその場を後にした。


 悍ましい夜が明け、朝が来て。交合っていた父親と妹は、平然と、いつもどおり潤に接した。昨夜のことが夢でないのは、こびりついていた残り香で、すぐに分かった。


 いつからか、彼らの臭いに違和感を覚えてはいた。それが性交の名残だとは、思いもしない。


 あのような悍ましい光景を見て、耐えられるわけがなかった。1秒たりとも、彼らと同じ空間にいたくなどない。そうして、潤は家を飛び出してきたのだ。


「う……」


 しかし、豪雨の中、目的地もなく歩き回るのは、体力を激しく消耗した。視界がぼやけ、立ち眩みそうになる。


「くそ……」


 足に力を入れ、なんとか踏みとどまる。視界の端にうつった電柱に手をつき、悪態をついた。


「はぁ……、はぁ……」


 肩を大きく上下させ、息を整えようと試みる。しかし、どれだけ気を張ろうとも、意識は霞む一方だった。傘を持つ手から、身体を支える足から、力が抜けていく。


(あ……。もう、無理だ)


 手から落ちた傘が、暴風に吹かれてどこかへ飛んでいく。身一つの彼を、無限の雨が襲う。押し潰されるまま、潤は今にも倒れそうになった。


 ――その時だった。ふわり、と。柔い感触が、潤の身体を包んだ。


「潤」


 小川のせせらぎのように、澄んだ声が鳴った。あまりに懐かしく、忘れられずにいた声。


「す……い……」


 幻影だとしても、また聞くことができたのが、ひどく嬉しかった。夢うつつのまま、潤はゆっくりと目を開く。追憶の彼方に葬り去ってしまったはずの青色が、ぼんやりと映った。


(ああ、このまま……、消えない、で……)


 眩い光に触れようとするかのように、潤は手を伸ばす。その手を、何者かが、しっかりとした力で取った。


「潤のばか!」

「い"っっ……! ――!?!?」


 突如、頭に激痛が走る。脳みその中で、小型の爆弾が破裂したかのような。とてつもない痛みだった。あまりの衝撃に、彼の意識は一気に現実に引き戻された。


 悶絶しながら頭を押さえ、何事かと目を開く。すると、冴えた視界いっぱいに、水月の顔が広がった。水月は、ふくれっ面で、潤をキッと睨んでいる。淡い金色の双眼には、涙の膜が張っていた。少年少女時代の記憶のまま止まっていた顔立ちは、潤と同じくらいにまで成長していた。


「すい、げつ……」


 名を呼ばれると、水月は潤に飛びついた。ぐら、と足が崩れる。そのまま、彼らは地面になだれ込んだ。倒れる2人の上に、雨が降り注ぐ。


「い"って……」


 潤は、固い土に頭を強く打った。鈍い痛みに顔を顰め、後頭部をさすりながら首を起こす。水月は、潤の着物をぎゅっと握りしめながら、大粒の涙を零していた。


「うう~っ、ひっく、じゅんの”……っ、じゅんの、ばかああっ!」


 涙声で悪態をつくと、ずぶ濡れの着物に顔を埋める。


「う"わあああああああああああん!」


 水月は、胸に顔を押し当てたまま、泣き声をあげた。たまらなくなり、潤は、細い背に腕を回した。


「ごめんね」


 ぎゅっと、腕に力を籠める。


「もう、絶対に離れないから」

「ふ、……っく、……っう、――ん」


 言葉どおりの強い思念が、水月の中に流れ込む。確固たる意思に、水月はひどく安心した。泣き叫ぶのを止め、小刻みに肩を震わせながらも、こくりと頷いた。


 ふいに、右側から瘴気が漂ってくる。目を向けると、石畳の地面の向こうに、不気味な祠が見えた。当て所なく歩いているうちに、無意識に足がこの場所へと動いたのか、あるいは――。潤は、水月を愛おしげに見つめた。


「帰ろう。おれたちの家に」


 2人は手を繋いで、廃れた鳥居をくぐり抜けた。



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