第20話 水無月物語~地獄~
「ここを、抜け出す?」
「うん」
潤は真剣な顔で頷いた。
「おれたち、この場所でしか遊んでこなかったでしょ? 外に出れば、もっと楽しいことがあるよ」
鉄鼠に咎められたのは、水月に会うことではない。産土神社に訪れることである。ならば水月を、そこから連れ出してしまえばいい。そう思いつき、「最後の別れの機会だから」と父親を言いくるめたのだった。
「もっと、楽しいこと……」
水月は興味深そうに呟くと、ぱあっと表情を花咲かせた。
「うん、行ってみる!」
「決まりだな!」
水月の手を引いて、走り出す。鳥居を抜けると、澄んだ空気が肌を撫でた。目の前に広がる空き地が、ひどく眩く感じる。
「これが、外の世界……」
感嘆の声を漏らす水月。だが、初めての外は少し怖いようで、不安げに辺りを見渡していた。
「大丈夫! おれがついてるから」
安心させるように、真白い手をぎゅっと握る。すると安心したようで、水月は笑顔を見せた。
「じゃあ、ここで鬼ごっこしよう!」
潤は広大な空き地を指さした。軽く数十人が遊んでも不自由のないくらい、平坦な地面が広がっている。
「鬼ごっこ……、久しぶり!」
「神社よりも広いし、のびのび走れるぞ!」
「よーし! 潤、タッチー!」
「あ、やったな? 待て~っ!」
秋天の下、少年たちは幼い子どものように走り回った。
「はぁ、はぁ……」
「はーっ……。おれも鈍ったなぁ。こんなに走り回ったの、久しぶりだ」
砂の上に大の字で寝転がり、空を見上げる2人。
「昼間の空も、きれいだね」
水月が、息をはずませながら言った。
「そうだね」
澄んだ水色の空に、白鼠色の薄い雲がゆったりと泳いでいる。ああ、なんて平和なんだろう。静かな空を眺めながら、潤は穏やかに目を閉じた。
「……ねぇ、潤」
水月が、潤のほうに寝返りをうち、ふわふわとした笑顔を向けた。
「わたし、もっといろんな場所に行きたい」
その言葉に、潤もまた微笑んだ。
「うん。一緒に行こう」
白く柔い手を、ぎゅっと握った――。
◇
手を繋いで、閑静な住宅地を歩く。握った手を振りながら、水月は鼻歌を歌った。
(うかつだった……)
上機嫌な水月とは反対に、潤は頭を悩ませていた。ちらりと、隣を見やる。端正な横顔は、ニッコニコでご満悦そうだ。
(外、おれもそんなに慣れてないんだよなぁ)
潤の外出の用事といえば、水月に会いに行くこと以外は、散歩くらいしかなかった。ある程度道は把握しているが、歩く以外の目的を持ったことがなかったので、困ってしまった。
同年代の子どものように、学校に行くことも、店で買い物をすることも、友だちと対話することも、必要なかった。すべて、鉄鼠から受ける教育で、こと足りてしまうからだ。
「ねぇ潤!」
水月が、潤の顔を下からのぞきこんだ。明るい声色に、潤は現実に引き戻される。
「あそこ、行きたい!」
水月が指さしたのは、公園だった。近所の子どもたちが数人ほど遊んでいて、ベンチでは親と思しき大人たちが談笑していた。
「じゃあ、そこ行くか」
「うん!」
元気よく返事をすると、水月は我先にと公園へ駆け出した。無邪気な後ろ姿を、潤はほの昏い目で眺めた。
「――こと足りてたんじゃない……。不自由がないように見せるために、お父さんが画策したんだ」
「どうしたの?」
水月が、不思議そうに首を傾けた。潤は心の暗雲を断ち切ると、朗らかに笑った。
「なんでもない!」
父親に従っていたのが、甚だ馬鹿らしく思えた。今はただ、親友とともに初めてのことを楽しみたい。潤は、清々しい気持ちで走り出した――。
「ぎゃああああああああ!!」
幸福感は、すれ違った子どもの叫び声によって、一瞬で消し飛ばされた。
「うわあああああああああん! ママあああああああ!!」
潤が驚いて子どものほうを見る。叫び声に驚き、水月もそちらを振り向いた。
「れいちゃん、どうしたの」
母親が駆け寄り、我が子を抱きしめる。その様子に、水月が吃驚したかのように大きく目を開いた。
「あ"あああああああああああん!」
子どもは、激しく泣きわめきながら、一生懸命に潤を指さした。
「え……」
潤は困惑した。泣かれることをした覚えが全くない。母親が、子を庇うように抱きしめると、潤をキッと睨みつけた。
「うちの子に近づくな! 化け物!!」
「ばけ、もの……?」
放たれた暴言をかみ砕くのに、数秒を要した。
「お、おれ、何もしてな……」
「近づくな!!」
母親が石を投げた。潤は難なく躱したが、心はひどく動揺していた。
「あ、あの。おれ、なにか――」
潤は自身の非を知りたくて、親子に歩み寄ろうとする。その瞬間、ぞわりと嫌な空気が纏わりついてきた。……それは、産土神社に入った瞬間に感じるものと、よく似ていた。
青ざめた顔で、辺りを見渡す潤。視界に入ってくるのは、侮蔑、嫌悪、忌諱、嫌厭の目。大人も、子どもも、男も女も。全てのめだまが、潤を迫害するかのように睨みつけていた。
「あ……」
――コワイ。悪意という悪意が、潤に矛先を向けている。視界がぐらつく。足が貼りついたかのように、動けない。冷や汗が頬を伝い、ぽたりと落ちた。
「うわあああああああああああん!」
息が詰まるような汚濁を、清らかな泣き声がかき消した。はっと振り向いた先にあったのは、恐ろしい鬼たちの後ろで泣き叫ぶ、水月の姿だった。
「……っ、水月!」
濁りを掻き分け、潤は慌てて水月のもとへ駆け寄った。だれかが、「1人で喋ってる、気味悪い」と呟いたが、彼の耳には届いていなかった。
「どうしたの、大丈夫?」
「う"あ"あああああああああ!」
潤が問いかけるが、水月は泣き声をあげるばかりだ。潤は背後を一瞥すると、か細い手を取った。
「戻ろう、あの神社に」
水月の手を引き、早歩きで入口に足を進める。
「――化け物は、どっちだよ」
去り際、潤は誰にも聞こえぬ声で、そう吐き捨てた。
◇
「――ごめん。嫌な思いさせちゃった」
境内の前で、2人。鳥居の隙間を見つめながら、座り込んだ。
「……っ、外って、こわいね」
水月は、まだしゃくりをあげているが、だいぶ落ち着いたようだった。
「……わたし、悲しかった。みんなが、潤をいじめた」
「水月……」
きゅっと胸が締めつけられる。あの恐怖の中、心配してくれていたことを、とても嬉しく思った。そして……、悪意の渦中に放り込んでしまったことを、悔恨した。
「ごめんね、水月」
白い手に、そっと自分の手を重ねる。
「ぜんぶ、おれの都合だったんだ」
「潤の都合?」
悲しげにまつげを伏せながら、潤はこくりと頷いた。
「――この神社ってね。本当は、良くない場所なんだ」
「え……っ?」
水月は、目を白黒とさせた。――当然のことだった。ずっと、この場所に棲みついていたのだから。
「なん、で……?」
水月が、不安げに問う。
「調べてみたんだけど。この神社は、すごく下衆な事件が起きた場所なんだよ」
「ゲスな事件って、何……?」
「口に出すのは、ちょっと気が引けるかな……」
痴情のもつれで、男が女を殺した事件だなんて、言えるはずがなかった。
「とにかく、その事件が原因で、ここは怨念に覆い尽くされた。常に瘴気が立ち込めていて、魂に悪影響を与えるんだ」
「……? わたしは、なんともないよ。潤だって、平気だったじゃない」
「それは、水月と関わっている時だけだよ。きみがいないと、おれはこの場所に長居できない」
「……。だから、わたしを連れ出そうとしたの? 外が、あんな世界だって知ってて?」
「違う!」
潤が声を荒げた。水月の肩が、びくりと跳ねる。
「おれだって知らなかったんだ! あんな目を向けられるって知ってたら、連れ出したりなんか――!」
そこまで言って、潤は父親の行動の意図を知った。半妖である彼は、人間から迫害される存在。だから、人間社会から出来る限り隔絶しようとしたのだと。
「……水月」
震える声で、名前を呼ぶ。返答はない。水月の顔を、どうしても見ることができなかった。
「っおれ、もうここには来られない」
絞り出すように、そう言った。水月の表情が、絶望に染まった。
「な……っ、なんで!?」
悲痛な叫びに、一言すらも答えることができなかった。裾にすがりつく水月の手を、そっと外す。
「ごめんね、水月。バイバイ」
目をそらしたまま、別れを告げる。顔を見てしまえば、離れられなくなってしまいそうだった。未練を振り払うように、潤はがむしゃらに走って行く。
水月の頬に、つ、と涙が伝う。深い悲しみのあまり、声も出なかった。伸ばされた手のはるか先にいる潤の背は、あっという間に見えなくなってしまった。
『もう、ここには来られない』
潤の言葉を反芻すると、涙が込み上げてきた。別れの言葉を、逃げるように去った後ろ姿を思い浮かべるたび、ズキンズキンと心が悲鳴をあげた。
「ふ、っぐ、うう……っ、ううううう……」
痛い。苦しい。彼の言葉は、鋭利な刃物のようだ。水月は、膝を抱いて嗚咽した。
――祠の裏から、水月の様子をじぃっと見つめる影がいた。
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