第5話 寛恕

 凶刃が、水木のからだを切り裂く――――ことは、なかった。


「――――っ!?」


 全が、驚いて自分の腕を見る。肘から下が消失しており、煙が出ていた。


「もう……っ、やめてよ……」


 顔をくしゃりと歪めながら、ゆきが言った。その手には、炎の残滓が揺らめいている。全の腕を消失させたのは、彼女の力によるものだった。


「もうやめてよぉおおおおおお!」


 崩れ落ち、ゆきは泣き叫んだ。


「もう……いやだよぉ……。生まれてきちゃいけなかったとか、死ねとか……っ。もう、そんな言葉を聞くのはいやだ……」

「そうだね。君は、さぞ苦しい思いをしたことだろう。その元凶こそ、この男だ」


 しゃくりあげるゆきに、水木は全への追撃を煽る。


「憎いだろう? 殺したくてたまらないだろう。さぁ、そのままトドメを――」

「分かんないよ!」


 駄々をこねるように叫ぶと、ゆきは完全に炎を消した。それは、これ以上全に攻撃しない意思の表れだった。


「だって、わたしが生まれてくる前の話だもん! その人のことだって、今、初めて見たもん! 元凶とか言われても分かんないっ! 混乱しただけだった!」

「な――――」

「……水木先輩」


 亜希が、何かに引っ張られるようにして起き上がる。そして、地面から浮いたまま、水木と全の傍らへとやってきた。


「貴女がそこまで怒るのは――筋違いです」

「は……? 何を言っているんだい、亜希?」


 眉をピクリとさせながら、水木が問い返す。全が、驚いた顔で亜希を見上げた。


「貴女は、最終的に今淵から解放された。何不自由のない日常を手に入れられたではありませんか。その身分で、その人に度の過ぎた暴言をぶつけるのは、良くありません」


 亜希が、きっぱりと言い放った。水木の表情が驚愕に染まる。


「何故だ! お前は、その男が憎くないのか!?」

「はい。憎いというより、驚きとか、混乱の方が圧倒的に大きかったです。だって、いきなり自分によく似た男性が現れて、今淵の不幸の元凶だと言われてみてください。誰だって戸惑いますよ」


 そう言うと、亜希は悲しそうに目を伏せた。


「それよりも……、私は、自分が本当に化け物だったということを突き付けられたほうが……よほどショックでした」


 己の片腕をぎゅっと掴んだ。


「私は……私たちは、本当に、あの人の娘ではなかったんですね。受精せずに生まれた、化け物なんですから。死んだら溶けて水になって、形すら残らないなんて……何も、おかしいことじゃなかった」


 そこまで言うと、亜希は顔をあげた。


「ですが、同時に気づいたことがあります。私とゆきは、あなたが生まれてこなければ、存在していなかった」


 全の目をしっかりと見つめ、亜希は断言した。


「たしかに、私たち今淵の人生は、散々なものでした。母親は自殺、父親は悪辣。ゆきはマンションの一室に閉じ込められ、私は小学校から高校まで、気味が悪いとずっといじめられてきました。そんな地獄みたいな家で、兄さんは相当な苦労をしたことでしょう……」

「そうだ。それは全て、その男の――!」

「――ですが、あなたがいなければ、ショウくんと結ばれることはなかった!」


 水木の言葉を遮り、亜希は声を張った。


「オカルト研究部の楽しい日常も、ゆきと過ごした時間も。ショウくんやクニオくんとおしゃべりする時間も……きっと、なかった。私は、その時間を否定したくはありません!」

「――――!」


 水木は、己の過ちを悟った。これまでの発言の全てを悔いた。


 彼女はようやく理解した。今淵春生が誕生しなければ、亜希は存在しなかったという事実を。今淵春生を否定することは、亜希を否定することと同義であることを――。


「だから、私はあなたにこう言います」


 緊張ぎみに、亜希はひとつ息を吐くと、慈愛を込めて笑った。


「春生兄さん。生まれてきてくれて、ありがとう」


 全の目が、大きく見開かれた。


「わ、わたしも!」


 とてとてと亜希の隣にやってきて、ゆきが言った。


「わたし、学校に行くことができなかったけど……! おにいちゃんとおねえちゃんが来てくれて、うれしかった! 死んでからだって、桜ちゃんと出会えた!」


 まくし立てるように語ると、ゆきは力いっぱい叫ぶのだった。


「悪いことばっかじゃ、なかった!」


 あたたかくて、やさしい言葉。はじめてもらった、からの言葉。それは、どれほど切望しても叶わぬ、夢物語に過ぎないものだと。全は絶望し、諦めきっていた。


 しかし、それが今、目の前にある。手の届く場所にある。全は、目の奥が熱くなるのを感じた。


「……その、言葉は……、俺には、勿体なさすぎる」


 俯きながら、喜びを噛みしめるように言う全。そして、ゆっくりと顔を上げると、亜希とゆきを交互に見て――――笑った。


「ありがとう」


 子どものような笑顔。幸福に満ちた声。たった5文字の単語には、一生分の思いが込められていた。

 恐ろしい獣のような姿から一変し、屈託なく破顔する様子に、亜希もゆきも目を丸くした。


「……ねぇ、赤い髪のきみ」


 全が、ゆきの方を見て言った。


「わたし、ゆきだよ」

「そっか。ゆきちゃん」


 全はゆきの前へやって来ると、中腰になって視線を合わせた。


「頼みがあるんだ」


 真剣な顔で言う全。ゆきが身構えていると、全は儚げに笑うのだった。


「俺を――――殺してくれ」

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