第23話 ねずみのうた

「全くん……? どうしてこんな……」


 3年越しに再会した彼は、見違えるほどにボロボロになっていた。目の前の現実を信じられず、思わずそう呟くと、全はその場から走り去ろうとした。


「ま、待って!」


 とっさにネズミにズボンの裾を噛ませ、引き留める。全はバランスを崩したが、即座に手をつき被害を最小限に留めた。


 百合花は窓枠を飛び越え、ビルの中へと入ると、膝をつく全のもとへと走る。


「来るな!」


 全が叫んだ。


「俺はもう……きみと顔を合わせる資格がない。今すぐここから離れてくれ」


 百合花に背を向けたままそう言うと、全はふらりと立ち上がった。


「どうして!? 久しぶりに会えたのよ!? なのに、どうしてそんなことを言うの……!?」

「俺は人を殺した!!」


 張り裂けそうな声で、全が叫んだ。


「ここに閉じ込められてからだって、ずっと、自分の身体を喰って飢えを凌いだ……。埃も喰った。机も喰った。俺はもう、きみの隣にはいられない……」

「そんなことないわ! 私は、あなたと再会できて嬉しい! 永遠に家に閉じ込められる前に会えて……本当に良かった」

「なん……て?」


 衝撃の告白に、思わず振り向く全。百合花は彼のもとへ駆け寄ると、ぎゅっと腕を回した。


「お願い。今夜だけ……。鉄鼠が来るまでの間だけでいい……。一緒にいて」


 切なる声で、懇願する。全は、黙って身体の力を抜いた。



 ◇



「……ここ、は」


 スマホのマップを見ながら行きついたのは、シックな装いのラブホテル。この建造物へ足を踏み入れる目的は、おおよそ決まっている。


「……ごめんなさい。だって、顔を合わせずに会計ができるの……こういう所しかないらしいから」


 迷わずに入り口へ向かう百合花。全は、その場に立ち尽くしたまま動かない。


「それに……一緒にいるにしても、あんな汚い場所は……私も少し、嫌かな」


 動かない全を急かすように呟くと、くるりと振り返った。


「行こう、全くん」


 すぐに手折れてしまいそうな笑顔。全は、重たげに足を動かし始めたのだった。



 ◇



 遠くで、シャワーの音が鳴っている。枕を抱き、目を瞑りながら、水音に耳を傾ける百合花。彼女は、この音が嫌いだった。


 水の叩きつける音。それを聞くたびに、思い出す。8年前の6月、激しい雨が降り注ぐ夜。あの不気味な神社――産土うぶすな神社で、兄の亡骸を見た日のことを。


「百合花ちゃん」


 控えめに呼ぶ声。風呂を終えた全は、見違えるほどに綺麗になっていた。ボロボロだった衣服は、道中で百合花が購入したジャージ姿へ。そして――目元をすっぽり覆っていた前髪は、目にかかる程度にまで切り揃えられていた。


「もう、あがったの?」


 露わになった金色の瞳に鼓動を早めながらも、平静を装って問う。


「水に濡れるのは嫌いなんだ」


 そう言って、全はぶるぶると首を左右に振った。百合花がクスリと笑う。


「ふふ。本当に猫みたい。かわいい」


 彼女の言葉に、全の表情が曇った。


「……どういう、つもりなんだ?」

「え?」


 全はタオルを乱雑に投げ捨てると、百合花の肩を強く掴んだ。その表情は、悲しみとも、怒りともとれる色をしていた。


「あれだけ性行為を嫌悪していた君が……っ! どうしておれをこんな所に誘い出すんだ!」

「違うわ。それは、鉄鼠あいつが相手だから嫌なだけ。あなたが相手だから――好きな人が相手だから、望んでいるの!」


 戦慄く唇に、己の唇を重ねる。今度は、百合花からのキスだった。


「……好きよ、全くん」


 甘い声で、告げる。


「今夜で、あなたと会えるのは最後だから……。だからお願い。私を抱いて」


 潤んだ瞳で。上気した頬で。想いを全て乗せて。濡れた唇で、懇願した。


 全は何も言わない。静かで、熱い時間。心臓の音だけが、彼女の耳のすぐ傍で鳴り響いていた。


「…………そうか」


 長い沈黙の後、全が唇を開いた。


「父親に犯されることを嫌悪しながら、俺に最後に求めるのは、父親と同じ行為なんだな」


 放たれたのは、失望の言葉だった。


「違っ……」


 弁解の言葉は、押し倒された身体と共に、ベッドに沈み込む。


「はぁ……。どうして気づかなかったんだろう。あんなに一緒にいたのに」


 ──どうして。百合花の頭は、その言葉で埋め尽くされた。


 好きな人に抱かれることと、嫌いな奴に犯されること。それらは、全く別のこと。「似て非なる」と表現できるほど紛らわしいものではない。明確に、違う行為。


 それなのに、何故彼は「同じこと」だと言ってのけるのだろう。百合花は理解できなかった。


「心外、って顔だな。頭の中で、きみがどんな言い訳を並べてるのかは知らない。けど、どのみち――」


 彼の唇が、歪な笑みを作った。


「お前はただの淫乱だ」


 吐き捨てられた、侮蔑の言葉。何を言われたのか、頭が理解することを拒んだ。あまりのショックに、百合花は指1本も動かすことすらできなかった。


「……でも、いい」


 嘲笑の吐息と共に、全は言った。


「俺はお前が大好きだから。お前がそう望むなら、満足するまで……」


 全の口が、大きく開かれる。そしてそのまま、白いうなじに噛み付いた。


 さながら猫の交尾のような体勢。牙が皮膚の下に沈み、百合花は呻き声を漏らした。


「大丈夫」


 甘く、優しく。言い聞かせるように、雄猫は囁く。


「お前は何も悪くない。春猫に噛まれたとでも、思っておけばいい……」


 蕩けそうな快楽と、張り裂けそうな痛みの中、激しい息遣いだけが木霊した。



 百合花は、不思議な感覚を覚えていた。だんだんと意識が薄れていくのを客観的に感じ、気絶するのを自覚した。


 肉体から魂が抜け出したかのように──あるいは、別の視点からこの日の出来事を観ているかのように。百合花は、気絶している自身の隣に佇む全を眺めていた。


〈あっはははは! オマエは本当にバカだね!〉


 ――甲高い女の声が、全を嘲笑った。


(……知らない声だ。誰だろう。全くんと喋っている。姿形はない。声だけが聞こえる。おかしい。私はこの時、意識を失っていたはずなのに……。どうして、知らない光景を見ているの……?)


〈まともに愛情を注がれないと、こんなにもひん曲がるんだね! アタシの口車に乗せられるがまま、好きな女の子に暴言吐いて犯すなんて……っ、アンタ、この娘のことが好きだったんじゃないのかい!?〉


 百合花の目に映るのは、ベッドに腰を掛ける全の姿だけ。静寂に響き渡る罵詈雑言に、彼は顔を俯かせるばかりだった。表情は、伺えない。


〈バカなオマエに教えてやろうか。この娘は、オマエのことをたしかに愛していたのさ〉


 全が勢いよく顔をあげ、眠る百合花のほうを見やる。2つの満月は、驚いたように、悲しそうに、百合花を映していた。


「……ごめん」


 懺悔する全の視界の隅で、何かが揺らめいた――――。



「あなた――――」


 水底から浮上する感覚。彼女の意識は、現実へと引き戻された。


 見上げる視界に移るのは、相も変わらず全の顔。百合花は、彼の両頬に己の手を添えて、問うた。


は、だぁれ?」









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る