第22話 別れ、そして現れ
「はぁ、はぁ、はぁ……」
日が完全に落ちた、午後7時22分。百合花は、一心不乱に夜の通学路を走っていた。鉄鼠の隙をつき、家を飛び出していたのだった。
――やはり、自分に嘘はつけなかった。好きな人を拒絶し、嫌悪する化け物に尽くして一生を終えるなど、できるはずがない。
(私は、全くんが好きなの――!)
激しい恋心を燃やしながら、百合花は約束の地へと駆け抜けていった。
10分ほどで、目的地へとたどり着く。全はまだ来ていない。百合花は桜の木の下に立つと、夜の校庭をぼんやりと眺めた。
昼間は人で溢れかえり、笑顔と感動に包まれていた場所が、今はしぃんと静まり返っている。なんとも不思議な感覚だと、百合花は目を細めた。
「全くん……」
彼の顔を思い浮かべるだけで、鼓動が高鳴る。蜜のように甘く、水のように苦しい感情が、彼女の胸に渦巻いた。
早く、会いたい。
身を焦がす想いを胸に、百合花はただひたすらに彼を待ち続けた。
――そうしているうちに、時計の針は真っ直ぐになった。彼を待ち続けて、5時間が経過した。どれだけ想っても、焦がれても、彼は現れなかった。
「そん……な……」
騙された。裏切られた。深い絶望が、彼女の心に渦巻く。ふらりと地面に崩れ落ちそうになるが、1つの希望を見出だし踏みとどまる。
──全は、待ち合わせ時間を「夜」だと言った。ならば、陽が昇るまでは約束の範囲内。百合花は、祈るように指を交差させた。
「大丈夫。全くんは来る。全くんは来る――」
「百合花」
男の声が、彼女の名を呼ぶ。しかし、その声の主は全ではなかった。
「お父……様」
「帰って来なさい。それほど待っても来ぬということは、そういうことだろう」
「しかし――!」
「己の立場を忘るるな、と我は申したぞ」
鉄鼠は獣の姿と変化し、百合花を威圧した。さんざ閨で「教育」を受けた彼女の身体は、意思に反して地面にひれ伏す。
「うむ、良い子だ。百合花」
毛に覆われた手が、灰色の頭を撫でる。まるで、親が子どもを褒めるかのように。
「傷心するでない。古来より、猫とは気まぐれなもの。風が一つ吹けば、気分なぞ幾らでも変わる」
「――――」
「だが、我らの契りは絶対ぞ。我がおまえに求むることは、何も変わらぬ」
獣の手が、灰色の耳を撫でる。まるで、情人と戯れるかのように。
「さぁ、帰るぞ。百合花。もう十分、待っただろう――」
蜘蛛の糸は、プツリと切れた。
その日の夜は、いつも以上に苛烈を極めた。
――卒業式の日から、3年と3ヶ月が経った。
百合花は、変わらず学校へ逃げる生活を続けていた。だが、もう長くは続かない。あと1年もしないうちに、高校を卒業してしまうからだ。
『もう充分理解しただろう。おまえは、人とは相容れぬと』
蒲団の中で囁かれた、父親の言葉。
『おまえも馬鹿ではあるまい。それを深く理解したうえで、大学へ行くなどとはぬかすまいぞ』
『……はい。重々、承知しております』
首を振ることなど、できなかった。圧倒的な暴力を前に、小さな獲物は屈するしかない。あと1年もしないうちに、鉄鼠の欲の捌け口でしかいられなくなる。逃れたかった未来が、確定してしまった。
「はぁ……」
陰鬱な気分のまま、夜の校舎を歩く。家に帰れば、発情した獣が待ち構えている。
帰りたくない。けれど、帰らなければもっと地獄。絶望に苛まれながら、百合花は一歩一歩と足を進めていった。
そうして、1階の踊り場にさしかかる。百合花は違和感を覚え、立ち止まった。
だれか、みている……?
きょろきょろと辺りを見渡し、気配の正体を探る。すると、上り階段の先に、モヤのようなものが揺らめいているのに気づいた。モヤはどんどん大きくなっていく。それにつれて、気配の不気味さが増幅していった。
「――――っ」
人1人包み込めるほどの大きさになった時、百合花の恐怖が限界を迎えた。弾かれるように駆け出し、階段を下ろうとした。
〈みつけた〉
無邪気な声。心臓が縮こまる。
上り階段の先にいた陽炎が、階段を下ろうとした百合花の眼前に、瞬時に現れたのだ。
〈やっと……やっと会えたね。百合花〉
揺らめきの中から、ぎょろりと2つの目玉が現れる。百合花の心に、感じたことのないほどの凄まじい恐怖が滲み出した。
――それは、鉄鼠とは比べ物にならぬほどの、戦慄。今すぐにでも逃げ出さなければと、生存本能がけたたましく叫んだ。
「いやあぁああああああああああああああああああああああ!!」
揺らめきを切り裂き、霧散した間を駆け抜けていく。
〈わかった、鬼ごっこがしたいんだね!〉
階段を下る百合花の背後から、楽しげな声が鳴る。
〈ああ……でも、まだ姿がうまく保てないや。きみを追いかけ続けるのは、ちょっと難しいな〉
廊下を走り、昇降口へと全力で疾走する。どれだけ逃げても、幼い声は一定の距離を保って百合花に語りかけた。
まるで、いつでも追いつけるぞとでも言うかのように――。
〈でも、いいよ! やっと会えたんだもの! あそぼう、百合花〉
正門を出ても、幼い声はまだ追ってくる。絶えず襲い来る恐怖に、百合花は走り続けることに精一杯だ。方向も、目的地もない。ただ無茶苦茶に走ることしかできなかった。
息が上がっても、身体が悲鳴をあげても、止めることのできない足。立ち止まったら、死ぬ。底知れぬ恐怖に侵された末に、殺される――。
そうして、夜の道を走り続けて、どれほどの時が経ったのか。
「っ――はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
壁に手をつき、必死に呼吸を整える。
――行き止まり。
アイツが来る。殺される――。
恐怖に震えていると、おぞましい気配が消え失せていることに気づいた。
「え……?」
不思議に思い、きょろきょろと辺りを見渡してみると、怪物は何処にもいない。ただ、広大な空き地があるばかりだった。
「……はぁ」
恐怖から解放され、どっとその場に崩れ落ちる。平静を取り戻していくうちに、今度は別の恐怖が百合花を苛み始めた。
「ここは……どこなのかしら」
彼女が今いるのは、ボロボロの見知らぬ廃ビル。心霊スポットだと言われてもおかしくないほどの不気味な風貌と、雰囲気を漂わせていた。
「じきに父親が迎えに来るでしょうけど……何をされるか分かったものではないわ」
夜の勤めを放棄した罰として、苛烈な折檻を受けることだろう――。先のことを想像するだけで、気が滅入るのだった。
「はぁ……」
壁に背をもたれかけたまま、ずるするとその場に座り込む。
いっそ、このまま迎えなんて来なければいいのに。
この静かな暗闇の中で、ずっと1人でいられたらいいのに。
膝を抱え、全てを拒絶するように顔を埋めた――その時だった。
ガシャアアアアアアアン!!
ガラスの割れる音。
とっさに飛び退き、音の主を睨みつける。男はボロボロの黒い衣服を纏い、離れていても伝わるほどの悪臭を放っていた。ホームレスだろうか。たしかに、ここ一帯は人気がなく、廃れているため、いたとしてもおかしくはない。
百合花は、束の間の安寧が消えてしまったことに落胆した。いっそ殺してしまおうか。物騒な考えが出始めた時、男が口を開いた。
「百合花ちゃん」
百合花は驚愕した。掠れているが、間違いない。それに、彼女をそう呼ぶ存在はただ1人しかいない。
「全……くん?」
それは、3年ぶりの再会だった。
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