第21話 ネコとネズミ

 櫛通りの良さそうな黒髪に、金色の目。細身の身体、灰色のジャージ。それは、ラブホテルでの姿と同じもの。


「ぜん、くん……?」


 百合花が、おそるおそる全の方へ手を伸ばす。全は、薄ら笑いを浮かべると、彼女を押し倒した。


「――――――!?」


 突然のことに動転する百合花。全の手がスカートの中に侵入し、彼女の足を撫ぜた。


「な……」


 全を見上げると、目が合った。金色の双眼が、蔑みと欲を孕み、ギラギラと光っていた。それは、昨日見た景色と同じ――。


 百合花は、力なく目を閉じた。閉じた瞼の隙間から、涙がこぼれ落ちる。



 全とのハジメテ。それは、百合花にとって、かけがえのない思い出になるはずだった。それなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。失意のまま、全との記憶を反芻した――。




 ――全と初めて出会ったのは、8年前の6月。明確に覚えていないのは、全の姿をはっきりと認識する前に、百合花が気絶してしまったからである。


 彼らが会話を交わし、仲が深まるきっかけとなったのは、その1年後。学校の廊下で顔を合わせて、全が百合花に声をかけたのが始まりだった。


「あ、あの!」


 すれ違いざまに掛けられた声に、百合花は驚いて振り返った。学校という人間たちの世界で、異形の自分が話しかけられることはないと思っていたからだ。


 前髪を隠した男子児童――全は、もじもじとしながら百合花を見つめた。


「覚えて、ないよね。俺、あの不気味な神社で、君を見かけて――」


 その言葉で、百合花は全てを理解した。


「あの時は、ありがとう。あなたのおかげで、すごく安心したの」

「……! そっか。なら、良かった」


 全は不器用に笑うと、そそくさと立ち去ろうとした。


「……ねぇ」


 このまま終わらせてはいけない気がして、百合花は全を呼び止めた。


 鉄鼠の娘である彼女を嫌悪せず、1人の人として接してくる人間。そんな存在は、またと現れない。勇気を振り絞り、百合花は全に駆け寄った。


「あなた、私が怖くないの?」


 蜘蛛の糸を手繰り寄せるかのように。全をじっと見つめながら、百合花は問いかけた。


「え?」


 戸惑う全に、百合花はずいと顔を近づけ前髪をあげた。アイスブルー単色の左目――彼女が人でないことを物語る部位を、全に見せつけた。


「父親に言われたわ。私は、人間から迫害される存在だって。だから、人間社会に溶け込むことは不可能だ、と。実際その通りだったわ。でも、あなたは違った」


 百合花の言葉に、全は黙って前髪をあげた。


「きれい……」


 前髪の奥から現れたのは、満月のように光る金色の目。思わず、感嘆の声が漏れる。淡く儚い美しさに、吸い込まれそうな感覚に陥る。


「き、れい……? そう言われたのは初めてだ」


 頬を赤く染めながら、不器用な手つきで前髪を戻す。


「と、とにかく。俺もきみと似たようなものなんだ。だから、怖くない」

「――――」


 ――1日中、父親と同じ屋根の下で過ごすのが嫌だった。


 だから、「人間社会で生きていきたい」などと嘘をついて、人間と同じように学校へ通った。一時でも父親から逃れられるのなら、周囲からの迫害など喜んで受け入れようと、覚悟を決めていた。理解者ある友人を作ることなど、端から諦めていた。


 しかし、現実はそこまで鬼畜ではなかった。地獄の中でも、一輪の花を咲かせてくれる。学校という人間のコミュニティに、化け物が2人――運命といっても過言ではない出会いに、百合花の心は舞い上がった。


「まさか……、仲間に会えるなんて、思わなかったわ」


 感極まった声で呟くと、百合花は全の手を取った。


「友だちになりましょ」

「え、……ええっ!?」


 引っ込められそうになった手を、逃がさないとばかりに掴んだ。


「ダメかしら?」

「そんなことは……ない」


 少し間の置いた肯定だったが、彼の表情に不服は見られなかった。


「ありがとう」


 百合花は満足げに笑った。


「私は園城百合花。あなたは?」


 百合花が問う。全は一呼吸置いた後、血色の悪い唇を開くのだった。


「俺は、全。霧崎全――」



 ――これが始まり。禁断の再会。


 鉄鼠と人の娘の間に生まれた少女と、化け猫にとり憑かれた少年。世の理から排除された2匹の獣。彼らが出会ってしまえば、あとは恋という名の奈落へ堕ちていくだけだった。


 それでも、想いを伝えるまでには時間がかかった。互いが互いにとって、唯一無二の存在。だからこそ、一歩を踏み出すのが怖かったのだ。さらに、百合花に関して言えば、可愛らしい躊躇いなどより、もっと絶対的な壁があった。


『霧崎全といったか。忌々しい気配を身に宿す、陰気な小僧』


 運命の出会いから間もない夜のこと。情事後の閨で、鉄鼠から全に対する言及がなされた。


『お前にとって、良き存在であろう。交流を止めるような非道なことはせぬ。ただ――』


 背を向ける百合花を、大柄な身体が包み込んだ。


『己の立場をゆめ忘れるな。あの小僧と恋に落つることは許さぬ』


 耳元で囁く、悪魔の声。無慈悲な宣告に、百合花の目から涙が零れた。


『――もし、破ったら?』


 後ろの怪物を振り返らぬまま、百合花がか細い声で問うた。


『その時は、我じきじきに始末せむ』


 ――想いを伝えてはいけない。百合花は必死に、己の心を押し殺そうとした。


 全ては、唯一無二を守るため。彼女の全てと、一緒にいたいがため。百合花は、彼への想いを墓場まで持っていこうと決めた。恋人になれずとも、幸せだったから。人間にも怪異にもなり切れず、父親の性具として終えるはずの生に、希望を与えてくれたから。


 だが、その時は来てしまった。胸が高鳴り、気分が高揚する、幸せなはずのひと時が。



 ――学校での出会いから4年後、中学校の卒業式。晴天の下、春風の吹く校庭では、青春の時を過ごす生徒たちで賑わっていた。


「う……、せまいわ……」


 生徒たちの間を縫い、全の姿を探す百合花。じゃれ合う男子生徒たちの後ろに、春空を眺める彼の姿を見つけた。


「全くん!」


 手を振って呼びかけると、全は笑顔で百合花の方を向いた。


「卒業おめでとう、と言うのが普通かしら?」

「全くおめでたく思えないな」

「そうね。そのとおりだわ」


 2人で苦笑いを浮かべた。


「はぁ……。全くんのいない生活か。嫌になるわ」

「俺も……」


 しんみりと沈む百合花と全。生徒たちの朗らかな笑い声が、遠くに聞こえた。


「ね、高校には行くの?」

「行かない。あいつらが望むのは、最低限の世間体。義務教育さえ終えられれば、心置きなく俺を捨てられる」

「……この先、どうするの?」

「そうだな……。普通に働くのは無理だろうから……。風俗なり、死体清掃なりで喰っていくしかないんだろうな」


 自嘲するように、全は言った。


「――百合花ちゃんは?」

「え?」

「百合花ちゃんは、この先どうするの?」


 ざあああ――――。


 風が吹く。髪が乱れ、一瞬だけ全の目が露わになる。金色の瞳は、真剣な目で百合花を見つめていた。


「わた、し……?」


 一瞬見えた目に心を射抜かれ、トクンと胸が高鳴る。百合花は顔を赤らめ、視線を逸らした。


「私、は――――」


 少し考えた後、おずおずと唇を開いた。


「私は、来年中学を卒業したら、高校に行くと思うわ。少しでも、父親から離れる口実が欲しいの」

「そっか……」


 沈黙が訪れる。最後の日だというのに、話が思い浮かばないもどかしさ。2人の間に、無為で――しかしかけがえのない時間が過ぎていく。


「――なぁ、百合花ちゃん」


 覚悟を決めたように、全が彼女の名を呼んだ。


「俺と一緒に逃げよう」


 一切の戯れはない。本気の誘い。彼の言葉は、百合花の心の真ん中に深く響いた。


「む、無理だわ! だって、ネズミはそこら中にいるのよ! 今だってアイツは、私たちを見ているかもしれな――」

「それでも!」


 狼狽する百合花の言葉を遮り、全が叫んだ。


「今日、この日が終わったら、俺たちはもう会えない。学校っていう唯一の繋がりが、なくなるんだよ」


 それは、見ないようにしていた現実。改めて口にされると、悲しさと寂しさが一気に押し寄せてきた。そんな心情を感じ取ったかのように、全が彼女の手を取った。


「だから、一緒に逃げよう。あんな奴のせいで、もう一生会えないなんて――そのほうが嫌だ!」


 ――刹那、急激に迫る金色の瞳。唇に、柔らかい感触がした。ワンテンポ遅れて、何をされたのかを理解する。百合花の顔に、熱が集まっていった。


「君が好きなんだ、百合花」


 また、風が吹く。再び見えた金色の目は、強い意思と、恋情による熱を孕んでいた。


「俺と一緒に、生きて欲しい」


 嬉しい。

 悲しい。

 恥ずかしい。

 ファーストキス。

 辛い。

 好き。

 ダメ。殺されてしまう。


 色々な感情が絡み合い、頭の中がぐちゃぐちゃになる。全は、真っ直ぐに百合花を見つめ、答えを待っている。


 何か、答えなければ。百合花は慌てて、唇を開いた。


「ぁ――――」


 断らなければ。でも、断りたくない。

「私も好きだ」と彼の胸に飛び込みたい。でも、そうすれば彼は殺されてしまう。

 見つからない答え。己の感情と、逆を求める現実の狭間で揺れる。死に物狂いで言葉を探していくうちに、頭が混乱していった。


「……そうだよね。急に言われても、困るよね」

「――あ、」


 答えを躊躇う百合花に、全が身を引いた。


「今夜、ここ――校庭の桜の木の下で待ってる。OKしてくれるなら、来て」


 そう言うと、全はくるりと背を向けた。百合花は反射的に、細い背に手を伸ばした。


「ぜ――、」

「……また、会えることを願ってる」


 それだけ告げると、全は人混みの中へと消えていった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る