第20話 揺らめく月よ

「ねぇ、百合花さん」


 蓮を焼き尽くした後、ゆきが百合花の傍へやって来た。


「わたしのこと、利用したよね」


 赤い目が、ギロリと百合花を睨みあげた。


「……ごめんなさいね。でも、私の補助がなければ、あなたは――」

「あんなやつ、あなたに気を遣わなきゃ一瞬で倒せた! わたしの怨念、舐めないで!」


 彼女の怒りを表すかのように、ごうっ、と炎が燃え盛る。肌を刺す灼熱に、百合花は顔を歪ませた。


「あんたがここに乗り込んでこなければ、桜ちゃんとずっと一緒にいられたのに!!」

「ちょっと、それは理不尽――」

「ばかああああああああああああああああ!!!」


 劈く叫び声。同時に、百合花は体内に熱を感じた。――気づけば、彼女は「図書室」を飛び出していた。




「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


 無我夢中で、日暮れの校舎を走る百合花。あと数秒、「図書室」を出るのが遅かったら、彼女の命はなかっただろう。


 ゆきが叫んだ瞬間、百合花の身体の中心に、極熱の何かが宿った。それは、まるで弾ける寸前の爆弾。急速に広がりゆく熱に、本能が叫んだ。


 "逃げなければ、ヤバイ"、と。


 あのまま「図書室」に留まっていたら、百合花の身体は灰燼と化していただろう。


「はぁ、はぁ……」


 屋上へ続く階段の踊り場に来ると、百合花は壁に寄りかかった。息を整えているうちに、自然と心に落ち着きが戻ってくる。そうして、逃げ出したことを激しく後悔した。


「あのまま死んでいたら、楽になれたかもしれないのに。私、バカだなぁ……」


 漠然と、死にたいと思って生きていた。けれど、結局死ぬのは怖いのだと。生きて、誰かに愛されたいのだと。ゆきに殺意を向けられた瞬間、己の本心を思い知った。


「はぁ……」


 心の底から、ため息が漏れる。冷静になってみれば、結界の主の機嫌を損ねることをしてしまった自分に、嫌悪しか感じなかった。


「せっかく、見つけたのに。何でこんなに、うまくいかないんだろう……」


 運命は彼女に、父親の性具として一生を終えろとでも言うのか。無力な嘆きは、薄闇の中へと溶けゆくばかりだ。


「かわいそう」


 澄んだ声とともに、階段の下に揺らめきが現れる。


「――――っ!」


 恐怖で固まる百合花。現れたのは、彼女を追いかけ回す恐ろしい怪異――陽炎の怪物だ。怪物は、ニヤリと目を細めると、上にいる彼女に接近し始めた。


「い、いやっ……! 来ないで……!」


 屋上へ避難しようにも、恐怖のあまり一歩も動けない。そうしているうちに、怪物はゆっくりと階段を上ってくる。


 ゆっくり……。

 ゆっくり……。


 百合花の恐怖を弄ぶかのように、怪物は、徐々に近づいてきた。


「追い出されたんだね」


 近づくにつれ、怪物のからだに変化が起こった。ぐにゃり、ぐにゃりと。流動するように、混ざっていくように、揺らめきが不規則に蠢いた。


「ぁ……あぁ……!」


 背には扉。ドアノブを開いても、蹴破っても、肘でついても、簡単に開くことができる。それなのに――動けない。舐めるように近づいてくる怪物を前に、指先すら動かせない――!


「こわがらないで。ぼくのことをみて」


 ぐにゃり、ぐにゃり。


 歪む景色は、徐々に人の形を成していく。ひどく曖昧だったものが、判然たるものへと姿を為そうとしている――。


「ずっときみを追い求めていた。ずっとカタチを探していた――。やっと、見つけたんだ」


 陽炎が、青年の姿へと形を変えた。


 白いYシャツに、黒ズボンという服装は、ショウとよく似ている。夜のような青い髪に、月のような金色の双眼。青白い肌、ゾッとするほど美しい顔立ち――。誰もが見惚れる容貌だが、そのおぞましい気配は、陽炎の時と何も変わらなかった。


「い、や……。いやぁ……」


 青年が、百合花の1つ下の段にやって来る。そっと彼女の頬を両手で包むと、ゆっくりと顔を近づけていった。


「ぼくを見て」


「い……や、……」


「ぼくのことを、映して」


「こない、で……」


「ぼくは……、ぼくの名前は――――」


 鼻先が触れるほどに、顔が接近する。百合花は直視してしまった。と同じ、金色に光る双眼を――。


「ぼくは――――水月すいげつ


 そっと触れ合った唇。そのまま動いた唇が、名を紡いだ。



『お前はただの淫乱だ』



 ――金色の双眼に、囚われる。



「ぁっ…………い、」


 蓄積されていた恐怖が、頂点に達した。


「いやああああああああああああああああああああああああ!!」


 絶叫しながら、百合花は爪を鋭利にし、青年の身体をズタズタに引き裂いた。しかし、肉の切れる感触はない。爪は、ひたすら空を切り続けた。それでも、錯乱のまま、百合花は青年を切り裂き続ける。青年の身体は、攻撃を受けるたびに、ぐにゃりぐにゃりと歪んでいった。


〈なん……で?〉


 悲しげな声で、百合花は正気を取り戻す。見ると、皮膚や内臓、骨が混ざり合ったものが、目の前でぐにゃぐにゃと揺れていた。


「いやああああああああああああああああ!!」


 百合花は悲鳴をあげながら、壁を蹴破り屋上へ逃亡した。


〈まって、いかないで〉


 背後で悲しそうな声が鳴ったが、気にしている余裕は彼女にはない。


〈わたしを、おいてかないで……!!〉


 ――ああああああん。


 悲痛な声とともに、喘ぎ声とも泣き声ともつかない声が響く。おぞましい声を振り切るように、百合花は屋上の端まで全速力で走った。


「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!」


 フェンスにしがみつき、絶望する。――逃げられない。怪物に捕えられるか、地面へと落下するか。どちらにせよ、この先にあるのは――死のみ。


 コツ……、コツ……。


 後ろから、足音が聞こえた。終焉へのカウントダウン。悪魔が、百合花の命を奪い去ろうと、近づいて来ている。


 コツ……。コツ……。


 だんだんと、足音が近づいてくる。


 コツ……。コツ……。


 歩く音が、やけに頭の中に響いた。一歩一歩、追い詰めるように。獲物を舐め回すように。忍び寄る足音は、死と絶望を手に百合花へと迫り来る――。


 ――やがて、音は百合花の背後で止まった。音の主は、何もしてこない。


「……え?」


 ふと、怪物の気配が完全に消えていることに気づく。ならば、この足音は一体誰のものなのか。その答えを知るばく、百合花はおそるおそる、後ろを振り返った。


「――なん……で?」


 そこに立っていたのは、百合花の想い人。その身に化け猫を宿す男――霧崎全きりさきぜんだった。






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