第8話 混乱

 意識の浮上。

 百合花は大きく息を吐いた。


「桜ちゃんとの記憶を見たんだね」


 向かいの本棚に背を預けながら、ゆきが言った。


「……良かったわね。あの子に会えて」

「うん!」

「だったら、早く仲直りしたほうがいいわ。あの子のおかげで、今があるんでしょう?」


 百合花がそう諭すと、ゆきはしゅんと項垂れた。


「うん……。でも、桜ちゃん許してくれるかな……」

「大丈夫よ。記憶を見た限りだと、あの子にとってもあなたは特別なはず。そう簡単に絶縁なんてされないわよ」


 隣に寄り添い、肩に手を置きながら言い聞かせる百合花。ゆきは捨てられた子犬のような目で、百合花を見上げた。


「そう……かな?」

「ええ」


 にっこりと笑って頷くと、ゆきの表情に希望が表れた。


「よーし。わたし、桜ちゃんに呼びかけてみるね! ちょっと時間かかるかも!」

「分かったわ。私は引き続き、"本"を読ませてもらうわね」


 そういえば、「赤い図書室」は現実世界に働きかけることができるのだった――そんなことを思いながら、百合花は本を開いた。タイトルは、「おねえちゃんの素顔」だ。百合花の意識は、記憶の海へと沈んでいった――。



 ピーンポーン……。


 インターホンの音が鳴る。ゆきは飛び起きて、玄関へと駆けだした。鍵を開けると、4つ上の姉である亜希が、紙袋を両手に立っていた。


「おねえちゃん!」

「お邪魔しますね」


 身内にも関わらず、亜希の敬語は崩れない。


「あれー? 今日はおにいちゃんは一緒じゃないんだ」

「はい。外せない用事があるみたいで、今日は私1人で来ました。不満、でしょうか?」

「ぜんぜん! そんなこと思ってないよ!」


 ゆきは慌てて両手を振る。すると、亜希は安心したように微笑んだ。


「よかったです。2人で食べようと買ってきたものが、無駄になっては悲しいですから」


 そう言うと、亜希はがさごそと紙袋を漁った。中から出てきたのは、アイスにマシュマロ、そしてコンビニスイーツと、甘いお菓子のラインナップ。全部、ゆきの大好物である。赤い瞳が、らんらんと輝いた。


「わぁあああ! やったぁ~!」

「ふふ。兄さんには内緒ですよ。きっと羨ましがりますもの」

「たしかに! 2人だけのヒミツ! ね!」


 そうして、姉妹のお菓子パーティーが始まったのだった。



「ねぇおねえちゃん」


 杏仁豆腐を食べつつ、ゆきが口を開く。その傍らには、文学全集の「源氏物語」が置かれている。


「おねえちゃんは、源氏物語の中でどの人が好き?」


 小首をかしげながら、ゆきが問う。亜希は口元に手を当てて、膨大な登場人物を思い浮かべた。


「そうですね……。やはり、浮舟でしょうか」

「はぇ~。マニアックなところいくね!」

「言うほどマニアックでしょうか……?」

「うん。だって、後半に出てくる人だから。それって、あの膨大な長編をしてないと出てこないってことでしょ?」

「……ふふ、そうですね」


 純粋無垢なゆきは、かいつまんだ読み方を知らない。そのことに触れずに、亜希はクスリと笑った。


「それでそれで。浮舟のどこが好きなの?」


 ゆきが身を乗り出して尋ねる。


「2つの激しい熱に焦がされ、最後には押し潰されてしまう――。名前のとおり、ゆらゆらと揺らめくそのさまは、儚くて美しい。そう、思うんです」


 胸に手を当てながら、焦がれるように亜希は語る。


「へぇ。おねえちゃんは、ラブロマンス的なやつが好きなの?」

「はい。けっこう、ドロドロとしたものが好きですよ。自分自身が陰湿なもので」

「む~。またそうやって自虐する!」

「自虐も何も、事実ですから」


 そう言って笑う姉に、ゆきはむーっとほっぺたを膨らませる。虚弱さからは考えられない早さで姉の膝に乗ると、目の前の長い前髪を上にあげた。


「ちょっと!?」

「んへへ、やっぱりかわいいじゃん!」


 焦る亜希に、ゆきはにぱーっと笑う。微笑ましい姉妹の風景。


 長い前髪の内から現れたその顔は――。



「――――っは!?」


 急激に意識が戻される。……否、百合花が自ら記憶の海から脱した。


「はぁ……、はぁ……はぁ……」


 肩を大きく上下させ、必死に呼吸を整える。強制的に覚醒するほどの衝撃が、百合花を襲ったのだった。


「どう、いう……こと……?」


 ゆきを見た時に感じた、わずかな違和感の正体。それへの答えはすなわち――亜希の素顔だ。櫛通りの良さそうな黒髪。その内から現れたのは、瞳孔の狭い金色の双眼。猫のような釣り目に、引き締まった顔立ち――それは、まさに。


『お前はただの淫乱だ』


 ラブホテルで陽炎の怪物に惨殺された、想い人と瓜二つだった。


「どうして……? だってぜんくんの苗字は、霧崎きりさき。あの人に兄妹はいないはず。一体どういうこと……?」

「どうしよう!」


 百合花が頭を抱えていると、ゆきが慌ただしく隣へやってきた。


「桜ちゃんとコンタクトが取れない! 何かあったのかな!?」


 そう叫ぶゆきの顔は真っ青で、かなり慌てふためいていた。


「学校の外に出た、とか?」


 百合花が言うと、ゆきはぶんぶんと首を横に振った。


「そうだとしても、ほぼ毎日"図書室"に来てたんだもん、その気になれば、どこにいたって繋がれるの! なのに……なのに、桜ちゃんの気配がつかめないの!」


 不安に駆られるまま、「図書室」内をあちこち移動するゆき。百合花はどうすることもできず、見守ることしかできなかった。


『あ、あ~。テステス、マイクテスト』


 ふいにノイズ音が走り、どこからか少年の声が鳴った。


『ああ、やっとつながった! ボクはコンピュータ室のシミズ。赤い図書室、聞こえる?』


「シミズ君!?」


 学内の全ての情報を握る、コンピュータ室の主。唐突な恩人の登場に、百合花は驚いた声をあげる。一方でゆきは、忌々しそうに上を向いた。


「いま忙しいの! あとにして!」


『キミたちの安全のためだ、ちゃんと聞いてくれ! 赤い図書室、今すぐここの入り口を遮断しろ。現実世界との接続を断ち切れ!』


「やだ! だめだよ、桜ちゃんが心配だよ……」


『あの子はもう無理だ! あとで伝えるから、今はとにかく図書室の扉を――』


 プツン。

 言葉の途中で、電源の落ちる音が鳴った。


「ここにいたか」


 扉の開く音。入り口には、赤い目の少年――園城蓮が立っていた。


「だ、だれ……!?」

「蓮……。あなたが来るだなんて……」


 困惑するゆきの隣で、百合花が冷たい声色で呟いた。


「口を開くな雌豚。お前の声など、1音たりとも聞きたくはない」


 汚物を見るかのような表情をしながら、蓮が侮蔑の言葉を吐いた。百合花の表情から、一切の生気が消え失せた。


「園城百合花。父さんからの言伝だ。今すぐ家に帰れ」

「嫌。あなたが帰って」


 同じ屋根の下で暮らしているとは思えぬ会話。父親から性的虐待を受ける百合花と、父親を崇拝する蓮。彼らが相容れないのは、当然のことだった。百合花が感情のない声色で短くつっぱねると、蓮の表情が憤怒に染まった。


「父さんからの命令だぞ……。それを、無下にするというのか……ッ」

「きゃっ……!? な、なに……!?」


 地鳴りの音。ゆきは驚いて、辺りをきょろきょろと見渡した。


「絶対に許さない……! ぶちのめしてから連れて帰るからなこの淫乱女が!!」


 鬼の形相で、蓮は手印を結ぶのだった。





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