第6話 迫る影
長い潜水から、帰還を果たす。百合花は大きく息を吐きだした。
「……どうやら、赤い図書室が凶悪だったのは、本当のようね」
そう呟いて、再び長いため息をつく。
3つめの記憶。赤い図書室になるまでの経緯と、凶行――。だが、非難する感情は微塵も湧いてこなかった。記憶を通じて、痛いほどに感じた。少女の、あまりに悲痛な心の叫び。
「はぁぁ……」
家に閉じ込められ過ごした生い立ちを見ていたがために、余計に感情移入をしてしまった。心に重々しい雲がのしかかり、百合花は3度目のため息をついた。
(核心に迫る記憶は、こんな感じで容赦ないのかしら。これ以上見るのは、しんどいものがあるわ。もっと軽い記憶はないの……?)
本棚を物色していると、文学作品のタイトルを見つける。
「これは……」
「ふふん、侮るなかれ! たしかにこれはわたしの記憶であって本物ではないけど、本物と一言一句変わらない自信はあるよ♪」
ゆきは音もなく百合花の隣に現れると、得意げに胸を張った。その様子を、百合花は何とも言えない表情で眺めた。
(……憎しみと殺意に囚われた子が、こんなに明るくいられるだなんて。木下桜……あの子は一体、赤い図書室に何をしたのかしら)
そんなことを思いながら、百合花は文学作品――『人間失格』を読み始めるのだった。
「ゆきちゃんのバカ、ゆきちゃんのバカ、ゆきちゃんのバカ!」
ぶつくさと言いながら、桜は夜の廊下をずんずん歩いていく。まだ夜のうちに「図書室」を後にするのは、初めてのことだった。
「白峰ショウはやばい奴なのに! なんで分かってくれないの!」
ぷりぷりと怒りながら、地団駄を踏む。気が触れそうなほどの大きな不満は、静寂の中へと無為に消えていった。
「園城百合花、あいつもあいつだよ! やばいやつって分かってて、何で一緒にいるのよ!」
そこまで言って、桜は沈黙する。流れ込んできた悍ましい映像を思い返し、口元を手で覆い隠した。
「う"ぇ……っ。思い出したくない……。凶悪ではないけど、ものすごい気色悪いやつだし……どのみち、同類かぁ……」
桜は頭を抱え、代わりに内臓を垂れ流した怨霊を思い浮かべた。……彼女にとっては、そっちの方がよほどマシだった。
「はぁ。もう、いいや。分かってくれないゆきちゃんなんて、キライだもん」
半泣きになりながら、独り言ちる。本当ならば、児童が登校し始めるくらいの時間に歩いてるはずの廊下。暗闇の中に、桜の行き場所はない。唯一の理解者であり、親友であるゆきとの決別は、本当は死ぬほど辛いのだった。
「――こんばんは。お嬢さん」
ふいに、後ろから男の声が鳴る。振り返ると、学ランを身に纏った少年が立っていた。メガネの奥にある赤い瞳に、桜はすぐに警戒心を剥き出しにした。
「そんなに身構えなくてもいい。俺はきみと同類だ」
「どう……るい?」
「そうだ。きみは視える人間だろ?」
「……っ」
一瞬で見抜かれた性質。桜はさらに警戒を強めた。
「あんた、誰……?」
「知る必要はないと思うが……まぁ、いいか。俺は園城蓮。父さん直々の命を受け、園城百合花を探しに来た」
「えんじょう……。百合花さんの弟?」
蓮の眉が、ぴくりと動いた。
「あの女は父さんの娘というだけだ。断じて弟などではない」
「はぁ……?」
「さて、要件を言わせてもらおうか」
蓮は不機嫌に声のトーンを落とすと、あからさまに話を逸らした。
「園城百合花のもとへ案内しろ」
高圧的になされた命令。応じてはいけないことは明白……というより、素直に答えようという気がさらさら起きなかった。
「……知らない」
「そんなはずはない。お前から、あの女の残滓が強く臭う」
ずいと接近し、蓮は強く断言する。
「さぁ」
「早く」
一言ごとに蓮が近づき、桜は下がる。
「言え! あの売女はどこにいる!」
壁に追いやり、蓮が怒声をあげる。彼の感情に呼応するかのように、地の鳴る音が響いた。桜の表情が、戸惑いから嫌悪に変化する。
「……そんなに、その"父さん"とやらが大事なの?」
桜が臆することなく問いかけると、蓮は嘲笑を浮かべた。
「はっ! 愚問だな」
そう言い放つと、蓮はその表情を恍惚に染めた。
「嗚呼――本当なら、"父さん"などと、くだけた呼称で呼びたくはない……。神だと崇めるのも烏滸がましい。あの方は――鉄鼠様は、段ボールにうち捨てられていた俺を拾い、力の使い方を教えてくれたのだ。それどころか、ご自身の家に俺を住まわせてくださったのだ! 生涯を捧げ、誠心誠意仕える以外には考えられぬ!」
まくし立てるように並べられた崇拝の言葉。蓮が鉄鼠を褒め称えれば称えるほどに、百合花から流れ込んできた悍ましい記憶がよぎった。
「……まじで言ってるの?」
「…………は?」
思わず漏れた言葉に、蓮はすさまじい形相になった。
「だって、あの大鼠……。百合花さんを……娘を……っう"ぇっ、……お、犯してたんだよ!!」
吐きそうになりながら、桜は叫ぶ。目の前の男が、獣を崇め奉る理由が、まったくもって分からなかった。
「……お前は、父さんを
「ッあ"……!?」
先ほどよりも、大きな地鳴り。蓮が、桜の首に手をかけた。
「あの素晴らしい御方を、貶めるというのか!!」
ガラスの割れる音。
壁ごしに机や椅子が動き回る音。
蓮の怒りを表すかのように、無機物が暴走を始めた。
「あ"っ……が…………」
「許さない。許さない許さない許さない許さない許さない……!!」
ギリギリギリギリ。
鬼の形相で、桜の首を全力で締め上げる蓮。揺らぐ視界に映る赤い目には、病的なまでの信仰心が表れていた。
「あの御方が娘を犯すなんてあり得ない! 悪いのはあの女だ。あの女が、父さんを誘惑したんだ! そうだ、あの女が悪い……あの女のせいなんだよ!!」
自分に言い聞かせるような物言い。それは、蓮が都合の悪い現実から目を背けていることの表れ。しかし、盲目なまでに鉄鼠を信仰する少年は、そのことに気づかない。
「……っああ、いけないな」
抵抗が止んだことに気づき、蓮はパッと手を離した。その場に崩れ落ちる桜。激しいポルターガイスト現象は、ぴたりと止んだ。
「怪異の心象風景までも覗けるほどの力……。悔しいが、俺よりも相当な格上。そんな奴を殺して、怪異化などされては、返り討ちに遭いかねん」
そう呟くと、蓮は廊下の向こうへ視線を向けた。
「お前の来た道を辿り、売女の場所を探るとしよう。では、失礼させてもらうぞ」
桜に染みついた百合花の気配を辿り、蓮はその場を後にした。
「……残念だ。お前とは分かり合えると思ったんだがな」
◇
「いれ……ないで……」
誰もいなくなった廊下。
地を這いながら、か細い声で桜は呟いた。
「しゃだん……して……ゆきちゃ……」
身体に力が入らない。朦朧とする意識の中、桜は「図書室」へ戻ろうと必死に腕を動かす。
「ダメ……、しらせ、ないと……。ゆきちゃんが、あぶない……。百合花さんのせいで……」
ああああああん……。
喘ぎ声のような、泣き声のような声を発しながら、桜の目の前に陽炎の怪物が現れる。それとともに、流れ込んでくる心象風景。一瞬にして、桜は怪物の正体を知った。
「あ……なた……は……」
にぃ、と怪物の目が細められた。
〈いのちをちょうだい〉
桜の身体が、原型を留めぬほどに滅茶苦茶になる。そして――彼女の魂は、肉体とともに怪物に取り込まれていった。
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