第3話 記憶のカケラ~ゆきの家~

 手前の棚から、1冊の本を取り出す百合花。無地の表紙には、「9月4日、初めての出会い」と書いてある。


『百合花さんに、知ってほしいの。お兄ちゃんのこと。ショウさんのこと。そして……お姉ちゃんのことも』


 ゆきの言葉を反芻する。真剣な表情で乞われた願い。それは、心の奥深くに踏み込ませること。きっと、相当な勇気を出しての行動だろう。蔑ろにする由はない――。


 百合花はひとつ息を吐くと、ページをめくる。――刹那、重だるい空気に圧し潰されるような感覚を覚えた。


 頭が霞む。


 瞼が落ちる。


 だらんと手が下がる。


 彼女の精神は、またたく間に水の中へと沈んでいった……。


 窓辺のベッドで佇む少女。その髪と肌は雪のように白く、大きな瞳は血のように赤い。生気のないその顔は、紛れもない、今淵ゆき本人。物憂げに本のページをめくるその姿は、半歩の過ちで消え失せてしまいそうなほどに儚かった。


 トン、トン、トン。


 3回のノック音。その途端、ゆきの表情に生が宿る。死んだ魚のようだった赤い瞳も、水を得たかのようにキラキラと輝き始めた。


「ゆきー、来たぞー」


 明朗な男の声。それを合図に、ゆきはベッドから飛び降りる。どたどたとフローリングを走り、来客を出迎えた。入ってきたのは、凛とした顔立ちの黒髪の男。そして、長い前髪で目が隠れた、ボブヘアの女。

 彼らは、9つ上の兄・夏樹と、4つ上の姉・亜希だ。その他に、見知らぬ男が1人。恋愛漫画に出てきそうな、茶髪の美男子だ。――彼は、人であった時の白峰ショウである。


「おにいちゃん、おねえちゃん、こんにちは! ……えっと、その人は?」


 ショウはぱちくりと目を瞬かせたが、すぐに快活な笑みを浮かべた。


「はじめまして、白峰ショウっていいます。夏樹さんと亜希のともだちでーす」


 くだけた口調、親しみやすい人柄。そして何より、"異常"な者に対しても分け隔てなく接することのできる優しさ――。ゆきが心を開くのは、一瞬だった。


「わたしはゆき! 今淵ゆきだよ! よろしくね!」


 はじけるような笑顔で、ゆきも自己紹介をした。その様子を、夏樹と亜希は微笑ましく眺めた。


「座って座ってー!」


 床にぺたんと座り、来客を誘うゆき。六畳一間ほどの狭い空間には、不自然なほどに家具が置かれていなかった。床はフローリングが広がるばかりで、カーペットもテーブルも存在しない。あるものと言えば、本がぎっしりと詰まった大きな本棚と、ベッドくらい。あとは、備え付けとしてキッチンがあり、その付近に冷蔵庫があるくらいだ。それ以外は、本当に何もない空間。明らかに異常な光景だった。


 だが、今淵兄妹にとっては当たり前のようだった。亜希は何のためらいもなく腰を下ろし、夏樹はバッグから大量の食糧を取り出すと、冷蔵庫やその付近に置いていく。訝しげな表情を浮かべながらも、ショウは黙ってその場に座った。


「ショウさん!」


 さっそく、ゆきはショウに話しかけた。


「ショウさんは今、何年生?」

「ピッカピカの1年生~」

「廃れてんだろ高1」


 自分の両頬に人差し指を当てながらボケるショウ。少し離れたところから、夏樹の容赦ないツッコミが飛んできた。


「じゃあ、おねえちゃんと同い年だ!」

「そうそう! そして同じクラスなんだ。オレら超仲良しなんだぜ! な、亜希?」


 亜希は照れくささから顔を背けた。


「フラれた~」

「おねえちゃん照れてる~」


 さらに顔を背ける亜希を、ゆきは無邪気に小突いた。


「そうだ、ゆき」


 食糧を置き終わった夏樹が、また別のバッグをゆきに渡した。それを見るや否や、ゆきの目が輝く。


「今日の土産」

「わーい! ありがとう、おにいちゃん!」


 はしゃぎながらガサゴソとバッグを漁り、中身を取り出すゆき。そこには、大量の本が入っていた。


「ゆきちゃんは、本が好きなの?」


 ショウがそう聞くと、ゆきは、にぱーっと無邪気に笑った。


「うん、大好き!」

「へぇ~、すげぇな。オレなんて、漫画くらいしか読まねえよ? 小説とか、読んでるだけで頭痛くなってくるし」


 すると、ゆきはぎゅう、と本の束を抱きしめた。


「これが、わたしの生きる意味だから」

「生きる意味かー」


 そんなに本が好きなんだなぁ、と思いながら、ショウは穏やかな表情でゆきを見た。


「ゆきって、すごいんですよ。英語の本もすらすら読めてしまうんです」


 亜希が付け足す。冴えない容姿の彼女は、身内や近しい者でも敬語を崩さないようだ。


「え!? マジ!?」


 ショウは目を剥いた。


「ゆきちゃんって、何歳……?」


 壊れたおもちゃのように首を動かしながら、ショウが訊ねる。ゆきは、弾けるような笑顔で答える。


「今年で12歳!」

「小6!?」


 ショウの言葉に、ゆきはほんの一瞬だけ、寂しそうな表情をした。


「すげーな。その頃、オレ校庭でサッカーして走り回ってたぞ」

「あー、容易に想像がつくわ」


 夏樹が言った。


「校庭でサッカー? なにそれ、聞きたい! 聞かせてショウさん!」


 ゆきが目を輝かせながら、身を乗り出してショウを見つめた。


「お、おう。特に何も変わったことはねーぞ。校庭でサッカーしてたとしか……」


 校庭でサッカー。言葉どおりの意味しかなく、深く追求されるようなことではない。それなのに、ゆきはきらきらとした表情で話の続きを求めている。ショウは困惑するしかなかった。


「それしか言えないんですか」

「語彙力ねーよな」

「酷くね!?」


 理不尽にも、今淵兄妹はゆきの味方に付いてショウをけなした。


「ごめんなー、こいつ運動はできるけどアホなんよ」


 夏樹がふざけた調子で言う。ゆきはじーっとショウを見つめると、腑に落ちたようにぽんと手を叩いた。


「たしかに! 勉強はそんなに得意じゃなさそう!」

「ゆきちゃんまで!?」


 ガーン、とショックを受けるショウ。亜希が吹き出した。


「でも、運動は得意なんでしょ? うらやましいなぁ。わたし、こんな身体だからスポーツできなくてさ」

「おう! 運動神経には自信あるぜ! スポーツは基本、何でもできる」


 ショウは途端にドヤ顔になって言った。


「すごーい! モテモテなんじゃない?」

「……それがそうでもねーんだよなぁ」


 肩を落とすショウの姿に、ゆきの目がキラーンと光った。そして、そそくさと姉のもとへと移動する。


(ねぇねぇ、これチャンスなんじゃない?)

(何がですか?)


 ぽしょぽしょと、内緒話を始める。


(ショウさん、彼女いないんでしょ? アタックしちゃえ!)


「えぇえ!? む、むりですよ!」


 妹の衝撃発言に、亜希の顔が急激に赤くなる。


「なにがー?」

「何でもありません!」

「いてっ!?」


 何一つ理解できていないショウの肩に、亜希のか弱い右ストレートが飛んだ。


 ◇ 


 ――楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。


「やべ、もうこんな時間か」


 夏樹の一声で、3人は窓の外に目を向ける。見ると、外はもう白みかけていた。


「もうすぐ夜が明けますね。帰りましょうか」

「そーだな。……ふわぁ。変な時間に起きてたら、眠ぃな。でも、楽しかったな!」


 ショウがあくびをしながら言った。ふと、ゆきの方を見ると、今にも泣きだしそうになっていることに気づく。


「ゆ、ゆきちゃん? どした?」

「もう、いっちゃうの?」


 あまりにも寂しげな声に、チクりと胸が痛んだ。


「なぁ夏樹さん、明日休みだし泊ってくのって――」

「駄目だ」


 夏樹がぴしゃりとそう言い放った。厳しい顔つきに、ショウは少したじろいだ。


「大丈夫。また来るから」


 夏樹はすぐに柔らかい笑みを浮かべ、ゆきの頭をやさしく撫でる。耐えきれず、ゆきの赤い目から、涙がこぼれ落ちた。


「いつに、なる……?」

「すぐ来るよ。安心しろ。兄ちゃんも亜希も、お前の味方だからな」


 夏樹の言葉に、こくんと頷くゆき。


「ショウさん」

「ん?」


 涙をぬぐいながら、ゆきはショウに話しかけた。


「また、きてくれる?」


 たまらなくなって、ショウはゆきの手を取ると、ぎゅっと握った。


「ああ、約束する。絶対来るから」


 目と目をしっかり合わせ、そう宣言する。ゆきは、嬉しそうに笑うのだった。


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