第13話 百合花vsムラサキババア
不気味な音を立てながら、4番目の扉が開く。ぬぅ……っと、みすぼらしい老婆が顔を出した。腰ほどまで伸びた白髪、悪意に満ちたおぞましい表情。紫色の口紅に、紫色の着物。トイレに現れる、ムラサキを基調とした老婆の怪異――それすなわち。
「ムラサキババアね」
百合花が怪異の名を口にする。「そうだ」と言わんばかりに、老婆はニタリと笑った。
「ムラサキババア?」
「花子さんと同じく、トイレに出現する怪異よ。人間の肝臓を好み、獲物を殺す時は必ず肝臓を抜き取るというわ。撃退方法は案外簡単。S君、何でもいいから紫色のものを――」
最後まで言うより前に、老婆――ムラサキババアが百合花に飛び掛かった。彼女の首をホールドすると、そのまま鏡の中へ入っていく。
「おい、待て!」
Sが伸ばした手は、着物の裾をかすめるのみだった。為す術もなく、百合花は鏡の向こうへ連れ去られてしまう。
『大丈夫よ』
波紋を浮かべる鏡から、百合花の声が鳴る。
『すぐに戻るわ』
その声を最後に、鏡は平常の姿へと戻った。
――しぃんと辺りが静まり返る。何の気配もしないが、依然として景色は紫色のまま。それが意味するのは、空間が未だムラサキババアの支配下にあるということだ。Sにできることは何もないに等しい。百合花を信じて待つくらいしか、術はなかった。
「わざわざこんな所まで連れて来て、何のつもり?」
百合花が憎たらしく言う。ムラサキババアはニタニタと笑うばかりで、何も答えない。
「女の私のほうが弱いと思ったのかしら。それは大きな間違いだけれど、良い判断ね。S君の能力で弱点を突かれたら、詰みだもの」
百合花は爪を鋭利にすると、勢いよく前へ飛び出る。横に一閃、ムラサキババアの腹部めがけて爪を薙ぐ。野生の獣よりも鋭く、俊敏な身のこなし。だが、獲物を仕留めるには至らない。ムラサキババアは一歩後ずさり、難なく避けた。
間髪入れず、2撃目、3撃目。
百合花は獣の爪で攻撃を続けるが、ひらりひらりと躱される。まるで、風になびく布のように、手ごたえを感じさせない。
「さすが、それなりの知名度を持っているだけあるわ。そう簡単にやられてはくれないようね」
トントン、とつま先で地面を叩く。重心を低くし、脚に力を込めると、高く跳躍した。ムラサキババアの頭部をめがけ、脚を振り落とす。命中すれば、体が左右真っ二つになるほどの威力。落下による速度の上昇も加わり、回避不能に思われた――が、それも避けられる。
百合花の着地した地面が大きく窪み、すぐに元に戻った。着地から間を置かず、百合花は低姿勢から蹴りを放つ。しかし、後ろに飛び退かれて掠りもしない。
ムラサキババアが着地した先の背後を取り、鋭利な爪で脇腹から両断を狙う。息吐く間も与えさせぬ猛攻、容赦ない鋭い一撃。だが、爪は獲物の頭上を薙ぐのみに終わる。ムラサキババアが上半身を倒して回避したのだ。
百合花はすかさず、倒された背に蹴りを食らわそうとする。だが、ムラサキババアはそのまま下半身を上げ――逆立ちになり、彼女の脚を避けた。
「っそれが老人の動きなの!?」
驚愕のあまり、気づいたらそう叫んでいた。ムラサキババアは軽々と側転し、悠然と立つ。挑発するように、ケタケタと嗤い出した。
「……」
距離が空いたのを機に、百合花はいったん攻撃の手を止めた。そして、思考する。
――速さでは到底かなわない。どう足掻いても、ムラサキババアを捉えることができなかった。だが、逃げに挺しているあたり、力はさほどないのだろう。一度捕らえさえすれば、楽に倒すことができる。……そう、捕らえさえすれば勝ち。あいにくと、絶対にそうはならないだろうが。
ムラサキババアの作戦は単純明快。それは、百合花を消耗させること。彼女の体力が尽きるまで、逃げ回ることだ。疲弊すればするほど、百合花は不利になる。体力が尽きれば、最期。一瞬で肝臓を抜かれ、殺されるだろう。無計画に動き回るのは愚行。だからとて、有効策は思いつかない。
何もしないという選択肢も、異空間――敵の作り出した結界に連れ込まれた以上、やはり不利になるのは百合花だ。結界内は、その空間を作り出した主の力を増幅させる。戦意喪失と見なされれば、何が起こるか分かったものではない。
(なるべく体力を消耗しないようにしながら、攻撃を続けるしかないわね)
そう結論づけ、百合花は足を踏み出した。思考を巡らせながら、攻撃を繰り出す。相変わらず、ムラサキババアはひょうひょうと躱し続けた。
ドォオオオオオオン!!
「っ痛」
百合花の拳が、壁に激突した。鈍い痛みに、表情が歪む。
「――――!」
その時、頭に電流が走る。煩雑とした脳に突如浮かんだ、すばらしい妙案。百合花はほくそ笑んだ。
(なんだ、簡単じゃない)
百合花は、全力でムラサキババアから離れていった。無限に広がる紫色の空間を、一心不乱に駆けていく。己から逃げる百合花を、ムラサキババアは愉快そうに眺めた。
――ソウダ。逃ゲロ。儂ヲ恐怖シ、逃ゲ惑エ。
オマエハ永劫、コノ紫色ノ世界カラ逃レルコトハデキナイ――!
全速力で走る百合花の耳に、しゃがれた声が響く。纏わりつく声を無視し、ひたすら走り続けた。
(この辺りかしら)
ムラサキババアの姿が、豆粒のように見えた。2人の間に空いた距離は、校舎の端と端ほどまでに遠い。
百合花はその場に座り込むと、大きく腕を振り上げた。
ドゴッ……!
振り上げた腕を、思いきり地面に叩きつける。何度も、何度も、何度も、何度も。狂ったように、打ち付ける。
ナニヲ、シテイル?
ムラサキババアは、理解不能といった表情で彼女の異常行動を眺めた。――が、ほどなくして真意に気づき、爪を剥き出しにして百合花のほうへ走り出した。まさに閃光。己の支配する空間だからこそ為せる高速移動。数秒も経たず、ムラサキババアは百合花の目の前に迫った。紫色の鋭利な爪が、振り上げられる。
百合花は何のためらいもなく皮膚を引っぺがすと、ムラサキババアの前に掲げた。
「ムラサキ、ムラサキ、ムラサキ!!」
唱えられた、滅びの呪文。ムラサキババアは、断末魔の叫び声をあげた。手に持たれていたのは、紫色に変色した彼女の皮膚。何度も地面に打ち付けたことによるアザだった。
――ムラサキババアを簡単に撃退する方法がある。それは、己の保有する紫色のアイテムを持ちながら、「ムラサキ」と3回唱えること……。
紫の空間の主は、もだえ苦しみながら、煙のように消えていった。
「不可視の収納ケースからものを自在に取り出せるS君がいれば、楽に倒せたのだけど……」
どっとその場に崩れ落ちる百合花。……危なかった。奇策を思いつかなければ、今ごろ彼女は紫色の世界に囚われ、喰い尽くされていたことだろう。危機を乗り越え、安堵感に浸る彼女の耳に、不穏な音が届く。
ピシッ……。
紫色の世界が、ヒビ割れていく。それから数秒も経たぬうちに、世界は音を立てて崩れ始めた。この場に留まり続ければ、崩壊とともに百合花も消滅する。
「っもう! 息をつく間もないんだから!」
悪態をつき、出口を探す。辺りを見渡していると、剥がれた破片の向こうにSの姿を捉えた。考えるよりも早く、彼のほうへ身を投げた。
「あ、景色が元通りに――ってっうおおお!?」
百合花の消えた鏡を見守っていたSと、脱出した彼女が鉢合う。互いが互いを避ける猶予もなく、そのまま2人は床に倒れ込んだ。
「ってぇ……。大丈夫か?」
「問題ないわ。少し危なかったけれど」
特に動じることなく、百合花は冷静に彼の上から立ち退いた。彼女の姿を見たSは、ぎょっとした。白い腕が、血まみれだったのだ。皮膚はぱっくりと剥がれ、赤黒い血がどくどくと流れ出している。
「お前、これ……!」
「平気よ」
「大丈夫じゃねーよ!」
「平気だわ。それよりも、トイレの花子さんを――」
トイレの中を調べようとする百合花の腕を、Sが強く掴んだ。
「動くな」
短く命じる。威圧感の中に、並々ならぬ真剣さを感じ取り、百合花は押し黙った。無抵抗を感じ取ると、Sは目を瞑った。
箪笥。
1段め、なし。
2段め、なし。
3段め、薬箱。開ける。白い円柱――。
目を開ける。
何もないところから、包帯が出現した。
「スマホのライトつけてくれ」
言われたとおり、百合花はスマホの電灯モードを起動する。Sは包帯を手に取ると、彼女の腕にくるくると巻いていった。
「あなた――」
百合花が言う。Sは何も答えず、ハサミを発現させて包帯を切る。
「不器用ね」
「あ”ぁん!?」
彼女の指摘どおり、Sの施した処置は、とても手当と呼べるものではなかった。巻き方が不規則すぎるうえに、もっこりとしている。
「自分でやるわ」
包帯をくるくると解かれ、Sはムッとして顔を背けた。
「んだよ、せっかくやったのに」
「気持ちは嬉しかったわ。ありがとう」
百合花が、柔い笑みを浮かべて言った。初めて見る彼女の和やかな表情に、Sは意外そうに目を開いた。
――つぅ。
ふいに、Sの背を何者かがなぞった。勢いよく振り返ると、少女が彼を覗き込んでいた。黒目が異様に大きく、肌は死人のように青白い。
「うわああああああああああああ!? ユーレイ!!」
Sは盛大に腰を抜かし、後ずさった。黒いおかっぱ頭、赤い吊りスカート。いかにも昭和といった出で立ちをした少女の霊は、何も話すことなく、じぃっと2人を見つめている。
「あははははははは!」
突然、笑い声とともに電気がついた。声の主は、少女。腹を抱えて笑う彼女からは、一切の禍々しさが消え去っていた。
状況が呑み込めず、ぽかんとするS。横に立つ百合花を見上げると、心底呆れた眼差しを向けられる。
「あははは、こっ……、ここまでびっくりされるなんて……っ、思わなかった!」
目をこすりながらそう言うと、少女は2人に向き直った。
「私、花子。ニンゲンからは、トイレの花子さんって呼ばれてる」
少女――花子さんは、にっこりと笑うのだった。
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