第9話 vs人体模型
飛んできた臓器を、それぞれ別方向に飛び退いて回避する。腸は、猛烈な勢いで追いかけてくる。障害物に当たるたびに、激しい音が鳴った。
「厄介ね……!」
黒板付近の机を用い、襲い来る腸を躱す。どうにかして、本体を攻撃しなければ。しかし、腸のスピードは速い。少しでも油断すれば、致命傷を負ってしまうだろう――。百合花は、苦い表情で人体模型を一瞥した。
「食らえっ!」
Sが、顕現させた包丁を投げる。しかし、包丁は刺さらず、コンと音を立てて落下した。どうやら、人体模型は、任意のタイミングで物体に戻れるようだ。
追ってくる腸は脅威。本体への攻撃は弾かれる。体力が尽きる前に、人体模型の弱点を炙り出さなければ――。
「園城さん!」
百合花が思考を始めようとした時、Sが声を張り上げた。彼の方を見ると、おぞましい提案が飛び出してきた。
「内臓、爪で切り裂けるか!?」
百合花は、全力で拒否したかった。しかし、他に良い案が思いつかない。彼に従うのが最善策だろう。汚物を触るか、命の危機か――天秤にかければ、選ぶのは容易い。
「う”っ……。わ、分かったわ」
爪を鋭利にし、迎え撃つ体勢を取る。うねりながら向かってくる腸を、ギリギリで回避した。すれ違いざまに、一閃。鋭い爪で、切り裂いた。生暖かさと、ぶよぶよとした感触が伝わってくる。腸は、5本の爪のとおりに切断され、ボトボトと落ちていった。
「う”……気持ち悪ぅ」
指についた残骸を、必死に払おうとする。しかし、こびりついてしまって、なかなか取れなかった。
「どうやら、内臓は切れるみてーだな。それに、効いてる」
腸の動きは止まっていた。切断面から血を流したまま、静止している。Sのほうに向かって行ったのも、それ以上は動いてこなかった。
「このまま内臓を攻撃し続ければ……」
Sの背後で、腸が再び動き始める。百合花はすぐさま叫んだ。
「バカ! 避けなさい!!」
とっさに頭を下げるS。直後、爆音が鳴った。
「うわぁ……」
Sが、青い顔で上を向いた。天井にめり込んだ腸。生じた亀裂。パラパラと落ちてくる破片――。あれに当たったら、命はなかったことだろう。
腸が、しゅるしゅると本体へ戻っていく。それとともに、床に落ちていたものや、百合花の指についていたものが、吸収されて元通りになった。
「くっそ、ダメかよ」
「来るわよ」
百合花の言葉の後、すぐに臓器が弾け飛ぶ。先ほどと同じように、2人はそれぞれ別方向へ回避した。反撃前よりも、速さも威力も増している。状況は、振り出しに戻るどころか、悪化してしまった。
「くっ……」
百合花は唇を噛みしめた。机を遮蔽物にして、なんとかやり過ごすが、避け続けるにも限界がある。
――万事休すか。そう悟りつつも、何とか活路を見出そうと頭を動かした。
(せめて、教室の外にいるネズミたちに――)
ドォォォォォォォン!!!
激しい音が鳴り、その方向へ目を向ける。腸が薬品棚にぶつかり、Sがそれを回避したところだった。無傷のガラスと薬品を見て、百合花は落胆した。
――大きな力を加えても、傷一つつかない物品。それが意味するものは、ここが「結界内」だということ。――つまり、外部に働きかけることが、不可能という訳だ。
「最悪だわ……」
結界内における「背景」というのは、所詮「飾り」に過ぎない。結界の主が不要と思えば消失するし、必要と思えば残り続ける。目で見て、触れることはできるが、ないも同然――そういうものなのだ。
(あら……? でも、何かおかしいわね……)
百合花の頭に、ある疑問が浮かび上がった。考えようとするが、腸を避けながらでは集中できない。もどかしさに、百合花は表情を歪ませた。
「園城さん!」
再び、Sが声を上げる。思考を中断させられ、百合花は少し苛立った。
「何よ!?」
「ありったけのやつぶち込むから、アイツの気ぃ逸らせるか!?」
「……っ分かったわ、やってみる」
考えている暇はない。直感で、百合花は挑発を始めた。教卓を人体模型の方へ蹴り飛ばし、黒板に貼られている小物を、片っ端から投げていく。人体模型の意識が、明らかに百合花へ向いた。Sに仕掛けられていた腸も、彼女の方へ向かってくる。
「ぐ……っ!」
さすがに、2本同時は厳しい。言い出しっぺのSは、何をしているのか。恨みの視線を向けようとした時、Sから合図が出される。
「園城さん、離れて!!」
百合花は即座に、人体模型から距離を取った。刹那、一斉発射される、20余りの凶器。包丁、フライパン、テーブル、椅子、瓶、棚。凶器となり得るものたちが、人体模型に打ち込まれていく。それらは全て命中し、衝突音を立てた。――が、悉く弾かれ、人体模型に傷1つ付けることもできなかった。
「っくそ、これだけやっても効かねーのか!」
「今度は私が!」
Sが攻撃をしている間に、百合花は違和感の答えを導き出した。
薬品棚は壊れなかったのに、天井は亀裂が入ったまま。薬品棚を残して、天井を修繕しない意味はない。人体模型の思考回路が壊れているだけなら、それまで。だが、少しでも可能性があるのなら、それに賭けない手はない――。
彼女が指を鳴らすと、ネズミの群れが現れた。ネズミたちは、一目散に人体模型へ纏わりつく。人体模型は、あっという間にネズミに覆い隠された。
「不完全な結界で助かったわ。呼び寄せるのに苦労したけれど、なんとかなったわね」
ネズミの大群には、さすがに為す術もなかったのだろう。人体模型の動きは止まり、暴れていた臓器も、力なく床に落ちた。
「なぁ、玄関の時もそうだったけどよ。そのネズミ、どっから出してんだ?」
蠢くネズミを見ながら、Sが言った。
「力を使っただけ。不思議なことは何もない、伝承通りの力のはずだわ。聞きたいのは、こちらの方よ。あなたこそ、その力は何? 不可視の収納棚でも、持ち歩いているのかしら」
「伝承通りって。アンタ、そんなに有名な怪異なん?」
「前も言ったけれど、微妙な知名度だと思うわ。私はその――」
百合花が言いかけたその時、衝撃音が鳴る。ネズミたちは吹き飛ばされ、ボトボトと床や机に落ちていった。
ほどなくして、人体模型がむくりと起き上がった。あれだけのネズミに襲われても、無傷だった。剥き出しのほうの目が、ぎょろりと2人を睨みつける。
「なんてこと……。ネズミの歯でも砕けないの!?」
「ああクソっ、どうすりゃいいんだ!」
Sがドン、と机を叩く。その反動で、いくつかのネズミの死骸が、床に転げ落ちた。ボトリと落ちた残骸が、彼の足に当たった。
「仕切り直し……なのね」
再び動き出す腸。臨戦態勢を取る百合花だったが、Sが完全に静止していることに気づいた。
「何をぼーっとしているの!? 来るわ!」
Sは何も答えない。獰猛にうねるそれは、すぐ後ろまで迫ってきていた。だが、彼は動こうとしない。
もはや、これまで。百合花はSを見捨て、腸との戦闘を始めようとした――その時だった。
――――ドシュッ。
突き刺さる音が鳴り、人体模型の動きが止まる。襲い掛かろうとしていた臓器が、しゅるしゅると本体へ戻されていった。
「え……?」
突然のことに、困惑する百合花。固まっている間に、全ての臓器が模型の中に収まっていった。そして、数刻も経たぬうちに、人体模型はつくりものへと戻っていった。
「動力源は、心臓だ」
淡々と、Sは語る。
「――なら、そこを潰してしまえばいい」
動かなくなった心臓から、包丁を引き抜く。心臓は、人体模型からポトリと落ち――床を、跳ねた。
「――あ」
心臓だと思っていたのは、ボールだった。
子どもに扱いやすい柔らかさ、そして大きさをした、赤いボール。女の子は、これを使って、ポチと遊んでいたのだろう。
「これが、パーツね」
「はぁあああ……。怪異倒すこと前提とか、マジ勘弁してくれよ……」
Sは脱力し、その場に座り込んだ。
「そう簡単にはいかない、ということでしょうね。……とはいえ、あの怪異は私も嫌だったわ」
呟きの後、再び女の子が現れた。女の子は、微笑みを浮かべると、唇を開いた。
『みつけた みつけた 赤いボール 2人であそんだ だいじなボール とうこうまえも おうまがときも 2人であそんだ楽しいきおく』
鈴の鳴るような声で、うたう。
『でもね たりない たりないの おねがい おねがい ポチを見つけて ふかく ふかく しずむ前に』
そこまで言うと、女の子は、霧のように消えていった。
「さあ、次の場所に行きましょう」
手を差し伸べ、百合花が言った。
「何だよ、もう分かったのか? つーか、少し休ませてくんねぇ?」
「ダメ。さっさと立ちなさい」
Sの腕を引っ掴み、無理やり立たせる。
「深く沈む。おそらく、水のことを言っているんだわ」
「……そんじゃあ、次の場所はプールか?」
「ええ。そのとおりよ」
――ガラッ。
百合花は迷いなく、用済みの教室から退出した。しぶしぶながら、Sもその後に続く。恐ろしい空間と化していた理科室は、何事もなかったかのように、静寂を取り戻していた。
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