第10話 プール更衣室の怨霊

 理科室を後にし、廊下を歩く2人。暗闇の中、スマホのライトだけが頼りだった。


 コツ、コツ、コツ……。


 2人分の靴音が、やけに響く。自分たちが立てているはずなのに、ひどく不気味に木霊する音。Sは、ひとつ息を吐きだすと、身震いをした。


「まだ怖いの?」


 前を歩く百合花が問う。


「あたりめーだ」


 Sの答えに、百合花はため息をついて振り返った。


「あなた、本当に理解できないわ。人体模型には冷静に対処できていたのに、今更どうしたっていうの?」

「なんか息苦しいし、不気味なんだよ」


 自分を落ち着かせるように、大きく深呼吸をするS。百合花は、納得したように「ああ」と呟いた。


「怪異の巣窟にいる影響かしら。感知能力が上昇したようね」


 百合花が窓に目を向ける。視線を追うと、窓の外に髪の長い女がいた。彼らがいるのは3階で、ベランダはない。当然、そこに立つことなど不可能だ。


 女の肌は異様に白く、目は黒で塗りつぶされている。鼻はなく、口は裂けていて歯はない。女は、真っ赤な口をかっ開くと、両手で窓を叩き始めた。


 ドンドンドンドンドンドンドン――!!


 静寂に包まれた廊下に、激しい音が鳴り響く。


「うぎゃああああああああ!!?」

「無視しなさい。あんなものに構っていたら、キリがないわ」


 Sの腕を、百合花が掴む。


「あ……ああああ……」

「怯えないで頂戴、情けない。さっさと行くわよ」


 Sを引っ張り、迅速にその場を離れる。窓の叩く音は、階を1つ下るまで、鳴り止まなかった。


 ◇


「着いたわ」


 施錠された柵の前に立ち、百合花が言う。その後ろで、Sが息を切らせていた。


「はぁ……。死ぬかと思った」

「人体模型のほうが、各段に危険だったわよ」


 百合花は、顔ほどの高さのある柵を、軽々と乗り越えた。


「さ、行きましょ」


 柵ごしに手招きする百合花。Sは、ふらつきながらも柵を乗り越えた。数段ほどの階段を上り、プールサイドへ足を踏み入れる。大きく開けた空間が、目の前に広がった。


 まだ水の張っていないプール槽、屋根のついたベンチ、消毒槽にシャワー。ありふれた風景だが、夜になると別世界のようだ。


「手分けして探しましょう」


 百合花は、プールサイドを歩き始めた。


「なぁ、隠せるような所なくねーか? 水も張ってねーし。茂みとかも、カウントされんのか?」

「さすがにないと思うわ。プールサイドになければ、更衣室ってことになるでしょうね」


 校庭を背にして建つ更衣室を一瞥する。――と、百合花は何か思い立ったように、スマホを取り出した。


「理科室で痛い目にあったから、怪談を調べておくわ。更衣室の怪談を調べてみる。その間、S君はパーツ探しをお願い」

「りょーかい」


 Sは探索を始めた。プールサイドは平面で、ものが隠せるスペースはほぼない。ものの数分も経たずに、すべての場所を探し終えた。


「やっぱねーわ」

「そう。ありがとう」


 百合花がスマホを差し出した。画面には、例のホラーサイトが表示されている。


「予想どおり、あったわ。更衣室の怪談」


 サイトには、このように書かれていた。


『今から30年ほど前、水泳が苦手な男の子がいた。彼は、皆が見ている前で泳がされたり、プールに突き落とされたりと、酷い仕打ちを受けていた。

 ある日のプールの授業後。男の子は、男子複数人によって裸にされ、更衣室の外に放り出された。その後、男の子は自殺した。誰もいなくなった更衣室で、カッターで喉を掻っ切って死んだ。

 その事件の後、怪談が噂されるようになる。男子更衣室に1人でいると、血まみれの男の子が現れて、カッターで首を切られてしまう。彼が現れる時、決まって床に血が流れ出して、どんどん真っ赤に染まっていくという。血を見るだけで済んでも、その晩は必ず悪夢にうなされる。血まみれの男の子が、馬乗りになって、こちらをじぃっと睨んでくるんだそう。……それゆえに、A小学校の男子更衣室は、あまり長居してはいけないのだ。』


「こっわ」


 Sが、青ざめた顔でスマホを戻した。


「女子更衣室にも怪談はあったけれど、警戒の必要はなさそうだったわ。男子更衣室こちらに気をつけましょう」


 百合花はスマホをポケットにしまうと、男子更衣室の前に立った。Sが露骨に嫌な顔をする。


「オレ入りたくねー……」

「本当に何を言っているのかしら」

「いやだって! フツーに怖ぇだろ! 誰しもおめーみたいにゴリラじゃねーんだよ!!」


 バキッ、ベキィィィィッッ!!


 壮絶な破壊音が鳴った。百合花が、施錠されたスチール扉を、素手でこじ開けた音だ。Sへの苛立ちをぶつけるかのごとく、それはもう大胆に壊された。あり得ない角度でねじ曲がった扉ものを、Sは唖然と眺めた。


「行くわよ」


 そう言い捨てて、百合花はすたすたと男子更衣室に入っていく。呆然とするSだったが、はっと我に返り、彼女の後を追った。


「どんだけ壊すんだよお前! 玄関の扉も破壊しただろ!」

「知らないわよ」


 規則正しく並ぶロッカーを、ひとつずつ開けていく。戸が開かれるたび、軋んだ音が鳴った。


 ――寒い。


 Sは無意識に腕を抱えた。6月の夜が冷えているからではない。つい先ほど語られた怪談と、暗闇のせいだ。ロッカーを開け閉めする音が鳴るたび、血まみれの霊が頭をよぎる。後ろに何かいるような、そんな錯覚に陥っていた。前には百合花、後ろには何もいない……はずなのに、脳裏にちらつく血まみれの霊――。


 可視と不可視の狭間の中、早く終われと、Sは切に願った。


「これで最後ね」


 百合花が、最後のロッカーを開けた。中には何も入っていない。空っぽだった。


「ここにないとなると、残りは女子更衣室ね。怪異が出る前にさっさと――」

 

 その時、2人の身体に悪寒が走った。全身が凍りつくかのような拒絶反応、強烈な冷気。紛れもない、怪異の出現だった。


「S君!!」


 ソレは、Sの背後に現れた。禍々しい殺気が、室内を覆う。怪異による影響なのか、壊されたはずの扉が、すぅっと元通りになった。


 背後から向けられる、強烈な殺気。それを身体中で感じながらも、Sは微動だにしなかった。足が、地面に張り付いたように動かない。否、動けなかった。今すぐにでも逃げたいのに、指1本すら動かせない。――金縛りだ。声は出ず、まともに呼吸もできない。


「ひゅ、っ、ぐ、ふーっ、……っ」


 殺気が、顔のすぐ横に来た。……目だけは動く。Sは、おそるおそるその正体を確かめた。視界の隅にソレを映すと、心臓を縮こまらせた。


 青白い顔の少年が、ぎろりとSを睨みつけている。異常なほどに開かれた目は、死んだ魚のよう。細い首からは、どくどくと赤黒い血が流れ出ていた。


「シ……、シシシシ、シ、ネネネネネ……」


 ごぽり、ごぽりと血を溢れさせながら、霊は呪詛を吐く。カッターナイフが、Sの首元へと充てがわれた――。

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