第6話 侵入
……荒い息。獣のにおい。滲む体液。
『
獰猛な獣の口から、重たく、低い音が鳴る。ぼやけた視界に映る大妖は、本能の限りを尽くしていた。
揺さぶられる身体。快楽と苦痛を通り過ぎた先の、朧げな感覚。意識を失いそうになっては、強すぎる刺激で引き戻され、また遠のいてを繰り返す――生き地獄。
(もう、やめて……)
はくはくと口を動かすが、声は出ない。もう、解放されたかった。逃げ出してしまいたかった。教育された体の反応とは裏腹に、とてつもない嫌悪感が心を埋め尽くす。
(もう……やめて……)
彼女の頬に、涙が伝った――。
「――大丈夫か?」
明瞭な声で、百合花は目を覚ました。おぞましい獣の代わりに、Sが彼女を見下ろしていた。
「めっちゃうなされてたけど」
「っ平気だわ」
顔を背け、ぐいと涙を拭う。体を起こして辺りを見渡すと、施錠された校門と、闇に包まれた校舎が目に入る。意識を失っている間に、目的地――A小学校に着いたことを即座に理解した。
「今の状況の説明をして
「ああ――」
Sは微妙な表情になり、目を逸らした。
「気絶したアンタ抱えて逃げたら、振り切れた」
目を泳がせながら、告げられた答え。不審すぎる反応に、百合花は怪訝な顔をした。
「私を抱えた状態で、アレから逃げ切って、かつ目的地までたどり着いた、というの?」
すぐ傍にある昇降口を一瞥すると、ギロリとSを睨みつける。
「見たんでしょう? アレと相対して、正気を保っていられるわけがないわ。本当のことを言って」
「と、特に何も感じなかったけど」
「なんですって?」
「カゲロウが揺れてて、そっから目ん玉出てきてキッショってなったくらい。取り囲まれた時は、さすがに寒気したけど、見るくらいなら別に大したことなかったぜ。これで追っ払えたし」
Sが、陽炎を裂いた包丁を取り出してみせる。それは、何の変哲もないただの調理器具だった。百合花の表情が、ますます険しくなる。
「……本当に?」
「本当だっての。アレがアンタの言った通りの怪物なら、オレらはここにいねーだろ」
Sの声色に、苛立ちが見え始める。百合花はようやく、彼の言葉が嘘でないことを察した。
「たしかにそうだわ……」
しかし完全に信じる――否、受け入れることができず、百合花は顎に手を当て考え込む。
「でも、何故……? 私はあんなに怖いのに。それに――」
黒髪の彼の最期がフラッシュバックする。吐き気が込み上げ、口元を手で覆い隠した。
「よく分かんねーけど、アイツ、どうやらオレのことが怖いらしいぞ」
Sが言った。
「あの怪物が出てきたら、オレが追っ払えるぜ。安心してくれ」
不安を取り除くように、Sは親指をグッと立てて見せた。百合花は、ひとまず彼の言葉を受け入れることにした。
「正直、信用しきれないけれど。その時はよろしく頼むわ」
「分かった。そんじゃ、行くとするか」
立ち上がり、ズボンについた汚れを払うと、昇降口へ向かう。扉に手をかけるが、鍵がかかっていて開かなかった。
「やっぱ開いてねーか」
「当たり前だわ」
すぐに彼の後ろにやってきた百合花が、呆れたように言った。
「どうする?」
校内に入れなければ、怪異に遭遇することは叶わない。Sは扉から手を離すと、百合花に意見を求めた。
「どうするも何も、決まってるでしょう?」
迷いない口調でそう返すと、Sに下がるようハンドサインを出す。Sは苦い顔をしたが、しぶしぶ引き下がった。
――すると、不思議なことが起きた。
ガラス板が、するりと抜け落ちたのだ。百合花は、ただの板切れとなってしまったそれを受け止めると、静かに地面に置いた。
「な、何が起きた……?」
「ああ、これ――?」
百合花が、ゆっくりと振り返る。揺れた前髪の隙間から、アイスブルー単色の目が妖しく光る。
「皆ありがとう。戻りなさい」
彼女がそう告げた、次の瞬間。
甲高い鳴き声が一斉に鳴り、ありとあらゆる隙間から、ネズミが湧いて出てきた。
100をゆうに超えるであろう大群は、チュウチュウ、チチチ、と鳴きながら、2人の足元を流動する。ネズミたちは、あちこちに動き回ると、散り散りになって消えていく。
群れの中から1匹が、呼び寄せられたかのように、百合花のもとへ駆け寄った。ネズミは、軽い動作で彼女の身体を登ると、手のひらの上に収まった。
「建物への侵入は、わたしの得意分野。施錠された場所に入る時は、任せて頂戴」
ネズミを撫でながら、百合花が言う。猛獣使い然とした振る舞いに、Sが驚愕して目を剥いた。
「アンタ一体、何者なんだ……?」
彼の問いに、百合花は無言でしゃがみ込んだ。そっとネズミを離すと、Sに向き直る。
「知っている人は知っているけれど、知らない人は知らない、そのくらいの知名度よ。特に珍しいわけではないわ。私からしたら、あなたの方が――」
言いかけて、話を止める。百合花はSに背を向けると、くり抜かれた黒い入口に足を踏み入れた。
「……今はどうでもいいことね。さ、行きましょ。グズグズしている暇はないわ」
「そうだな」
わだかまりを抱えながらも、2人は夜の校舎へと入っていった。
『ぢぃ84d7……、qq2あ、い……、ガガガガ……、ア……、アアアアア……』
誰もいない廊下に、不気味な声が響く。
『存在ノ、消去ヲ、……』
…………。
「――んで、こっからどうする? 無計画にほっつき歩くわけではねーんだろ?」
スマホのライトが、闇の中をぼうっと照らす。何気ない話し声が、静寂の中で、やけに大きく響いた。
「ええ――これを見て」
百合花はスマホを操作し、開いたサイトをSに見せた。2人は、戸のついていない下駄箱にもたれかかり、画面を見つめる。真っ黒に塗りつぶされた背景と、毒々しい赤で綴られた文章が映し出されていた。
「これは、A小学校の怪談を集めたサイトよ。見れば分かると思うけれど、たかだか1つの小学校で、これだけのものがあるの」
百合花が、目次のページをスクロールする。下りきるまでに、100以上の項目があった。1つの小学校で語られるものにしては、膨大すぎる量だった。
「このサイトを参考に、調べていきましょう」
「はぁ? こんな量調べて回ってたら、一晩じゃ足んねーよ。小学生が登校してきたら、
百合花が急に無表情になり、スマホを閉じた。
「……何も感じないの?」
――刹那、Sは首の後ろが総毛立つ感覚に襲われた。
何か、いる。
下駄箱を挟んだ向こう側から、ナニカがじぃっと見ている。完全に遮られた所から突き刺さる、強烈な視線と霊気。Sの頬に、冷や汗が伝った。
「たしかに、これだけ書き込みがあれば、デマも多いでしょうね。でも、これで分かったでしょう?」
百合花が、恐怖で固まるSの手を引いた。
「この学校は怪異の巣窟よ」
早急に下駄箱から離れる2人だったが、誤って「ソレ」がいたのと同じ側に進んでしまう。しかし、Sが一瞬、横目で見たそこには――誰も立ってはいなかった。
「怯えている暇はないわ。まずは目の前の職員室から……」
恐怖するSを咎め、百合花が扉を開けようとしたその時。
――ギ、ギギギギギ……。
壊れた機械のような音が、小さく鳴った。百合花が、ぱっと扉から手を離す。
「何の音だ……?」
Sが、自身の腕を抱きながら、不安げに言った。
ギ……、ギギギ……、キィ……、ガガガガ……。
何かを引きずるような重低音は、徐々に2人の方へ向かってきている。正体を確かめるべく、百合花は、音のする方をスマホで照らした。
――現れたのは、手足が異様に長い、長身の化け物だった。体は黒で塗りつぶされていて、それ以外の色は確認できない。顔もなければ、髪もない。ただ、「黒」がかろうじて、「人」と判別できるカタチをしているだけだった。
黒い影は、足を引きずるようにして、2人の方へと近づいてくる。
ギぎギ……、んギギギギぎィ……。
機械音のように感じられたそれは、近づくにつれ、不気味な唸り声へと変わっていく。細長い手が、ゆっくりと、2人へ向かって伸ばされた。
「ぎゃあああああああああああああああ!?」
「ちょっと!」
ホラー映画のような悲鳴をあげ、一目散に逃げようとするS。その後ろ襟を、百合花が引っ掴んだ。
「怖がらないで頂戴! 何からも逃げてたら、結界持ちの怪異を探すどころじゃないでしょう!?」
「離せやクソ女!! オレは喰われたかねーんだよ!!」
「ああもう! あなた本当に怪異なの!?」
苛立ちのまま、百合花は乱雑に襟から手を離す。強い力に押され、Sは床に倒れ込んだ。
「もういいわ! 私が殺す!」
爪を鋭利にし、野生動物のような速さで、黒い影に接近する。懐に入り、影の胴体部分を爪で切り裂いた。
「っ嘘!?」
しかし、彼女の攻撃はすり抜けてしまう。影には一切効いておらず、姿形を歪めることすらできなかった。
『ztj%q』
影が、聞き取ることのできない言葉を発した。ズルズル……と、伸ばした手を引き戻すと、百合花の体を抱きしめた。
「この……ッ、!?」
胸板部分を押そうとした百合花の手が、影の中に取り込まれる。それを皮切りに、彼女の体は、じわり……、じわりと、「黒」に沈められていった。
確信した。これは――――捕食だ。
「園城さん!」
Sが、出現させた包丁で、影の足を切る。だが、彼の攻撃もすり抜けてしまい、何の助けにもならなかった。
「っくそ、何だこれ!?」
何度切っても同じだった。刃は空を切るのみで、影には微塵も効いていない。悪戦苦闘しているうちに、百合花はどんどんと沈められていく。
――もはや、為す術はない。身体が半分ほど沈みこみ、彼女の表情にも諦めが浮かんだ、その時だった。
「グギ……、ギギギギギギギッ……!?」
影がうめき声をあげ、百合花を離す。ふるい落とされた彼女は座り込み、咳き込んだ。
「大丈夫か!?」
「ええ、なんとか……」
無事を確認し、2人は影に目をやる。目の前の異形は、不規則に形を歪めながら、苦しんでいる。
頭部が異様に膨れあがり、胴体が縮む。片腕が異常に太くなり、片足が極端に細くなる。あまりに奇怪な光景だった。
「おにいちゃん、おねえちゃん。こっち」
後ろから、女の子の声が鳴る。2人が驚いて振り向くと、廊下の奥に、7、8歳くらいの女の子が立っていた。ライトで照らさずとも、その姿は、暗闇の中ではっきりと見えた。
肩くらいの長さの三つ編みに、形の良いおでこ。大きな目に、ふっくらとした唇、丸いほっぺた。丈の短い、花柄のワンピース。まるで、お人形のような女の子だ。
女の子は、微笑みながら、おいでおいでと手招きをしている。
「あの子のほうに行けばいいのか?」
Sが問う。百合花は、難しい顔で女の子を見つめた。表情ひとつ変えずに、「おいでおいで」をするさまは、かなりの薄気味悪さだ。そして、最も警戒すべき点が1つ――それは、唐突に無力化した黒い影。タイミング的に、女の子の仕業で間違いないだろう。
百合花もSも太刀打ちできなかった化け物を、簡単にねじ伏せられるほどの力。判断を誤れば、消滅させられるだろう――。
しばらく考えた後、百合花は決断した。
「……行ってみましょう」
緊迫した表情で頷き合うと、2人は女の子のほうへ歩き出した。女の子は、満足げに微笑むと、
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