第5話 再臨

 1歩、2歩、3歩、4歩……、


 彼らは、順調に歩みを進めていく。今のところ、怪物の出る気配はない――が、いつ恐ろしい気配に襲われるかと思うと、気が気ではなかった。


 5歩、6歩、7歩、8歩。


 冷や汗が、頬を伝う。足を進めるたびに、不安は加速していく。歩いても、歩いても。終わりのない闇は、どこまでもついてきた。


 ――もう、数えられないくらいには、歩みを進めた。怪物はまだ現れない。このまま現れるな。切に願いながら、歩き続ける。


 1つめの目印となるコンビニが現れた。それに伴い、ぽつぽつと通行人が現れだす。通行人は、百合花の姿を目にすると、恐怖と侮蔑の眼差しを向けた。Sが、裸同然で歩く彼女を心配そうに見やる。しかし、それは杞憂だった。今の彼女には、向けられた悪意を気にする余裕はない。


 ――歩き始めてから、10分ほどが経過した。


「出ないわね」


 落ち着いた様子で、百合花が言う。結局、道中に怪物は現れなかった。ここまで姿を現わさなければ、もう出てくることはないだろう。緊張の糸を解き、百合花は身体を伸ばした。


「おい、やめろ。それフラグだぞ」


 険しい表情で、Sが言った。百合花がきょとんと首を傾げる。


「ふらぐ?」

「んなこと言って逆に出たらどーすんだっつってんだよ!」

「そういう心配する方が、逆に呼び寄せるわ。やめて」

「……」


 Sは無言になった。呆れ果てる彼を他所に、百合花は周辺を物色し始めた。


「ねぇ、少し寄り道して良いかしら?」


 そう言って指さしたのは、シャッターの閉められた洋服屋。Sが、心底嫌そうな顔をした。


「閉まってるけど」

「S君、強奪してきて?」


 首を傾け、猫なで声で強請る。しかし、甘え方を知らぬ彼女のそれは、あまりに不自然だった。当然、通用などするはずもなく。


「は? 何でオレが」


 案の定、Sは不愉快そうに拒否をした。百合花は即座に、やり方を変えることに決める。圧倒的な力の差を思い出させるように、Sの腕を掴んだ。


「してきて?」


 にっこりと微笑みながら、圧をかけるように言う。これにはSも、降参せざるを得まい。


「分かったよ!!」


 Sは投げやりに言うと、目を閉じた。数十秒ほど経った後、白いワンピースが出現する。シンプルなデザインながら、無垢を象徴するかのような純白が美しかった。


「これでいいか!?」

「あ……、あと、下着を……」

「あ”あ!? これ以上はマジで無理……」

「ちょうだい?」

「……」


 Sの目から、光が消えた。



「ありがとう。もういいわよ」


 ――電灯の光が、わずかに届くばかりの路地裏。着替えを終えた百合花が、Sに声をかけた。振り向いた彼の表情は、ひどくげんなりとしていた。


「A小学校までは、あと5分といったところかしら」


 歩き出しながら、百合花が言う。


「あー。そうだな」


 生気のない返答に、百合花はムッと顔をしかめた。


「ねぇ。着く前から疲れられたら、困るのだけど」

「あ"? 誰が疲れさせてると思って……」


 Sが言い返そうとした――その時。


 あああああああああん……


 泣き声とも、喘ぎ声ともおぼつかない声が鳴る。その途端、百合花の全身に戦慄が駆け巡った。


 ――ヤツだ。ヤツが現れた。


 身体が異様なほどに震え始め、歯がガチガチと激しい音を立てた。


「お、おい。大丈夫か?」


 困惑しながら、Sが問う。彼はいたって平静だった。


〈みーつけた〉


 薄闇の中から、声が鳴る。幼く、澄み切った声が、じわじわと接近してくる。全身が「逃げろ」と叫ぶほどの、とてつもない恐怖。それは、紛れもない――。


 ラブホテルで出現した、陽炎のように揺らめく怪物だ。


「いやあああああああああああああ!!」

「あっ、おい! 待て!!」


 勢いよく駆け出そうとする百合花の手を、Sが慌てて掴む。


「いやあああ!! 離して、離してええええええ!!」

「うぐっ……」


 錯乱のまま、Sの手を振り払う。しかし、後頭部に走った衝撃で、百合花の意識は一瞬にして喪失した。Sの能力だ。取り出されたのはフライパン。手を振り払われてから、即座に百合花の頭へと一撃を食らわせたのだ。


「あぶねっ」


 力なく倒れ込む百合花の身体を、しっかりと受け止める。投げ捨てられたフライパンは、地面に落ちる前に消失した。


「よ、っと」


 Sは手際よく、気絶している彼女を抱きかかえた。ふと背後に目をやると、怪物はすぐ後ろにいた。淡く光る金色の目で、ぎょろりと彼を睨みつけている。


〈よくも……〉


 恨めしそうに言いながら、怪物はからだを揺らめかせた。


〈よくもゆりかを、きずつけたな!〉


 揺らめきが、Sを包み込むかのように大きくなった。途端に、生理的な嫌悪感が彼を襲う。怪物の感触はなく、恐ろしくもない。しかしすぐにでも離れたいと、本能がけたたましく叫んでいた。


 Sは包丁を出現させると、それを操り、揺らめきを切り裂いた。


〈ぎゃあああああああああああ!?〉


 怪物が、断末魔の叫び声をあげる。Sに纏わりついていた揺らめきが、たちまちに離れて霧散した。刃には何も触れてはいなかったが、存外深手を負わせることができたらしい。


〈うっ……ひっく、ひ、……っく……〉


 暗中から、嗚咽が鳴る。ほどなくして、怪物が先ほどよりも小さくなって現れた。Sが刃を向けると、怪物は怯えるように後ずさった。


「お前は何だ?」


 Sが問うと、揺らめきが小刻みに震え始めた。


「何でお前は、園城さんを追うんだ?」


 金色の目が、応答を拒むように閉じられた。そしてそのまま、怪物は闇の中へと消えていった。


〈おまえ、きらい。こわい〉


 怪物の気配が完全に消失した後、澄んだ声が鳴る。それを最後に、辺りは静けさを取り戻した。Sは、不可解そうに怪物のいた場所を眺めた。だが、しばらくすると、百合花を抱え直し、A小学校へと向かって行くのだった。


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