第3話 交渉

 思いがけず舞い降りた救済に、百合花は顔を綻ばせる。冷え切った手を伸ばし、ワイシャツのボタンに手を伸ばした、その時だった。


 青年の瞼が、ぴくりと動いた。百合花は、焦って手を離した。ゆっくりと、彼の目が開かれていく。吸い込まれそうな漆黒の瞳が、露わになった。


 青年は、寝ぼけ眼で百合花を見上げた。だが、意識が完全に覚醒すると、その顔はみるみる赤くなっていった。


「うわあああああああああああ!!?」


 たまらず、青年は飛び起きた。起き上がり、駆け出すまでにかかった時間は、わずか2秒である。


「あ、待って!」


 百合花は慌てて、青年の手を掴んだ。しかし、異様に強いその力は、さらに動揺を招いてしまう。


「うわあああああああああ! 離せ、離せえええええええ!!」

「お願い! 落ち着いて!」

「落ち着けるかああああああああああ!!」


 言わずもがな、百合花の力は、青年をはるかに上回る。少しでも強めれば、骨を砕きかねず、弱めれば逃げられる。加減をしながら、若い男を捕え続けるのは、かなりの困難だった。


 せっかく舞い降りた救いの手。みすみす逃がすわけにはいかない。百合花は、握る力を強めると、ぴしゃりと言い放った。


「落ち着かないと、手首を引きちぎるわ!!」


 青年の動きが止まった。百合花は安堵し、ひとつ息を吐く。そして、ゆっくりと唇を開いた。


「……お願いがあるの」


 一言前とは打って変わり、控えめな声色で言う。


「服をくださらない?」

「……は?」


 青年は、眉をひそめて、不快感を露わにした。


「あの、だから、服をくださ――」

「ふざけんな」


 青年は、言葉を遮ると、侮蔑の眼差しを向けてきた。


「なんだよアンタ。きめぇよ」


 そう吐き捨てると、青年はくるりと背を向けた。足早に鳥居の方へ向かうのを、百合花は慌てて引き止める。


「やめろ触んな!」

「お願い、話だけでも聞いてほしいの」

「だから、離せって!!」

「嫌! 行かないで!」

「やめてくれ! 頼むからオレにつき纏うな!」

「怪物に襲われたの!!」


 青年が、ぴたりと動きを止めた。


「あなた、怪異でしょう?」


 青年は何も答えない。だが、彼が怪異であることは、現れた瞬間から確定している。返答を待つ必要はなかった。


「――なら、話は通じるわね?」


 低い声で、脅すように言う。百合花は青年を押し倒すと、鋭利な爪を眼前に突き付けた。灰色の髪の隙間から、アイスブルー単色の左目が覗く。淡く光るそれは、ヒトのモノでも獣のモノでもない――まさに異形。


 青年は、諦めたように目を閉じた。


「アンタの話を聞く以外に、選択肢はねぇみてぇだな。……で? オレを脅迫してまで聞かせたい話って何だ?」

「……さっきも言ったけれど、私、怪物に追われているの」

「怪物って、どんな?」


 青年が問う。百合花は、ぽつぽつと怪物について語り始めた。


「――今日の夜のことよ。学校から帰ろうとした時、ソレは突然、私の前に姿を現した……」


 階段を下る彼女の前に現れると、怪物はこう言った。


〈わかった! 鬼ごっこがしたいんだね!〉


 おぞましい気配が蘇り、百合花は身体を震わせる。


「無邪気で、ひどく澄んだ声だったわ。それなのに、とても恐ろしい気配だった。身体の内側から、じわじわと侵されていくような……。そんな、おぞましい気配。逃げたら追ってくる。撃退しようとしたら、すり抜ける。裂いた形に姿を揺らめかせて、また元に戻るの。指先に触れた感触もない。――まるで、陽炎のような……」


 百合花は、自身の手を見つめると、青年に視線を戻した。


「その怪物から逃げているうちに、この場所にたどり着いたわ。どうやら、ここなら追ってこないみたいで、ひとまず安心したの。でも……」


 苦い顔をして、自分の身体に視線を落とす。


「このとおり裸だから、服が欲しくて。怪物からは逃げられても、このままでは低体温で死んでしまうわ」

「それなんだけどさ。何で逃げてる中で、裸になるんだよ。その怪物、服を剥ぐ変態なのか?」

「あ……、」


 百合花は、ばつが悪そうに視線をそらし、顔を歪ませた。


「1回振り切ったんだけど……、また出てきたのが、その……。ラブホテルだったから。服なんて、着てる暇なくて」

「はぁ……。ずいぶん元気だな、アンタ」


 百合花は、顔を俯かせた。あまりの消沈ぶりに、青年は少し驚く。


「そういや、男はどうしたんだ?」

「……殺されたわ」

「……ごめん」


 重々しい沈黙が訪れた。あまりの気まずさに、青年は目線を泳がせる。百合花は俯いたまま、小刻みに身体を震わせている。お互い一歩も動かず、何も話さないまま。時間だけが、流れていく。


「あ”~もう、しゃーねぇな!」

「きゃあ!?」


 先に折れたのは青年だった。彼は、頭をガシガシと掻くと、乱雑にネックウォーマーとワイシャツを脱いだ。驚く百合花に、着ていた服を投げつける。


「これでちったぁマシだろ」

「あ、ありがとう……」


 唐突に叶えられた望み。百合花は、戸惑いながら礼を言うと。おぼつかない手つきで、服を着始めた。青年が、やりにくそうに舌打ちする。


「ったく、これがお望みだったんだろ。何ビビってんだよ」


 青年は、ぶつくさと言いながら、ネックウォーマーを拾った。何気なく彼に視線を向けると、百合花は驚いて息を呑んだ。


「ねぇ、その首……」


 彼の首には、紫色の大きな痣がついていた。それは、首を締められたような――否。自分で自分の首を締めたかのような、不気味な跡だった。


「ああ……」


 青年は、不快そうに目を細める。


は覚えてねー」


 淡々とした口調で答えると、青年は再びネックウォーマーをつけた。


 「……っつか、いつまでいんだよお前。服やったんだからさっさとどっか行けよ」


 再度訪れた沈黙を破り、青年が悪態をつく。


「言ったでしょう、怪物に追われてるって。下手に動けないわ」


 青年が、大きな溜め息をついた。露骨な態度に、百合花はいささかムッとする。


「あなたこそ、ここに留まる必要はあるのかしら? 代わりの服をとってきたらどう?」

「ぶちのめすぞクソ女。……べっくしょい!!」


 悪態の後、青年は豪快にくしゃみをした。百合花は、不思議そうな眼差しを彼に向けた。


「寒さよりも、ここにいなければならない重要な理由でもあるの? 私からだって離れたいでしょうに」

「ああ。追いはぎしてくる怪力全裸女と一緒の空間とかゴメンだわ」

「なら、どうしてよ」


 青年は、難しい顔をして俯く。しばしの沈黙の後、彼は再び百合花に向き直った。


「深入りしてくんな……、って言いたいところだけどな」


 ひとつ息を吐くと、神妙な顔つきで言った。


「正直、オレもアンタと同じような状況なんだよ」

「同じ?」

「そ。化け物につき纏われてんの」


「怪物に襲われた」と、百合花が叫んだ時、青年は動きを止めていた。同じだったのだ。怪物から逃げ惑っているという、命の危うい状況が。


「そんで、ここにいればソイツは出てこない」


 推測の域を出なかった彼女とは異なり、彼の場合は確定しているようだった。


「正直うんざりしてんだよ、アイツに出くわすの。出来ることなら、ずっとここにいたいくらいだ」

「奇遇ね。同じだわ、私たち」


 そう言って、百合花は青年に一歩近づく。


「――ねぇ、よかったら、一緒に行動しない?」

「どういうつもりだ?」

「警戒する必要はないわ。だって、私たちの置かれた状況、すごく似ているもの。利害が一致してると思わない?」


 身を引き、百合花を睨みつけていた青年だったが、顎に手を当てて思考を始めた。ほどなくして、諦めたかのようにため息をつく。


「どうせ、オレに断る権利はねーか。――で? 何か策があるのか?」


 彼の問いに、百合花は笑みを浮かべた。


「交渉成立、と捉えて良いのかしら?」


 手を差し出す百合花。青年は黙って頷くと、その手を取った。


「百合花。園城えんじょう百合花よ」

「――Sだ」

「え、S?」


 青年――Sは黙って頷く。百合花は、少し意外に思った。人間と変わらぬその容姿から、一般的な姓名を名乗られると思い込んでいたためだ。


「S」。それは、到底名前とは言えぬ呼称。何の意味も持たない単語。人であれば、明らかな偽名だ。しかし、彼は怪異。真名だとしても、何もおかしくはない。ともあれ、呼称が示されたのは前向きなことだった。


「そう。これからよろしくね。S君」

「ああ、よろしくな。園城さん」


 日が沈み、わななくような風が吹く。不気味な神社は、夜の闇に染まりつつあった。




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