第2話 謎の青年

 蛍光灯が、チカチカと点滅する。


「はぁっ、はぁ……!」


 息を荒げ、薄暗い廊下を駆け抜ける。気味の悪い宵闇が、百合花を包み込んで離さない。いくつ扉を通り過ぎても変わらぬ景色。まさに、迷宮のようだった。


〈あはははは! まて、まてーっ!〉


 無邪気な声が背後から鳴る。時おり聞こえる〈この声〉は、彼女の心臓をぞろりと撫ぜていく。通り過ぎた道が、底なしの闇に呑みこまれていくような恐怖。走れど走れど、得体の知れないナニカの気配は止まない。


 絶対に振り返ってはいけない。立ち止まってはいけない。足が悲鳴をあげようと、呼吸が苦しくなろうと、百合花は走り続けた。死ぬことよりも、××されることよりも、ただただ陽炎の怪物が恐ろしかった。


 早く、早く早く……、陽炎を振り切りたい。


 切なる願いは、吐かれる息となって霧散するだけ。怪物は、依然として逃げ惑う彼女を追い続けている。


 本来であれば、ラブホテルは、そう複雑な構造をしてはいないはずだった。それなのに、出口はおろか、階段すらも見つからない。あまりの恐怖で、正常な思考が奪われているのか、あるいは陽炎の力によるものなのか。いずれにせよ、百合花がこの空間から抜け出せないでいるという事実と、訪れるであろう結果に変わりはない。


 彼女は、とっくに限界だった。


「っはぁ、はぁ……!」


 なだれこむようにして、両手を壁につく。――行き止まり。百合花は、肩を激しく上下させ、必死に呼吸をした。


 突然、彼女の背に強烈な怖気が走る。弾かれるようにして振り返ると、ぼうっと光る丸い月が2つ。怪物の目が、間近にあった。


「つかまえた!」


 揺らめきから、白い手が現れ、彼女の肩へと伸ばされる。姿形が曖昧なはずの陽炎が、うっすらと輪郭を現している。先ほどまで、「得体の知れないナニカ」だったものが、じわり……、じわりと、おぞましい本性を露わにしようとしている。逃げ惑う者は、恐れおののく以外に術はない。この白い手が、肩に触れたが最後……。


 彼の無残な姿が、脳裏をよぎった。


「い……、嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 劈く悲鳴をあげながら、壁を蹴り飛ばす。人ならざる力で蹴られたそれは、勢いよく吹き飛び、激しい音を立てた。彼女が壁だと思っていたのは、外の階段へと続く扉だった。扉は大きくへこみ、向かい側の手すりにもたれかかっている。


 怪物が、驚いて目を丸くする。白い手は、煙のように消失した。風が吹きつけたのを合図に、百合花は手すりに飛び移った。見下ろした地面は、少しばかり遠い。しかし躊躇っている暇はない。百合花は迷わず、身を投げた。


 数秒後、着地の衝撃が百合花を襲う。ふらつきながらも、彼女はすぐに走り出した。止まれば捕まる。力尽きれば喰われる。行き先もゴールもない闇の中を、百合花は、ひたすらに駆け抜けるのだった──。



「はぁ、はぁ……っ?」


 ふと正気に戻り、足を止める。


 いつの間にか、怪物は消えていた。どうやら、振り切ることに成功したようだった。


「助かった……のね」


 全身の力が抜け、その場に崩れ落ちる。もう、一歩も動くことはできなかった。酷使した脚はじりじりと痛み、心臓は激しく打ちつける。霞む視界の中、息を整えながら、少しずつ冷静さを取り戻していった。


「あ……。ここは――」


 石畳の参道。

 その横にぽつぽつと立つ灯籠。

 古ぼけた鳥居。

 境内を取り囲む木々。

 廃れきった小さな祠――。


 百合花の表情が、たちまちに曇る。この神社に来てしまったことを、ひどく後悔した。一刻も早く外へ出ようと思い立つが、すぐに止める。


 ここを出たら、また怪物が出てくるのではないか。神社の中にいれば、襲われないのではないか。彼女の中の直感(というよりも願望)が、そう言った――しかし。


「っくしゅん!」


 風が吹き、自分が何も着ていないことに気づく。体についた男の血も、きれいさっぱり消えていた。だが、逃亡に精一杯だった彼女は、変化に気づく由もなかった。


「さ、さむい……」


 冷え切った汗が、肌寒さを増幅させる。神社には、寒さを凌げるものなどない。服を手に入れるためには、外に出なければならなかった。


 だが、むやみに動き回って、消耗するのは愚行だ。怪物が出ようと出まいと、神社を出るのは賢明ではない。どのみち、この場に留まるより他はなかった。


 諦めて、その場に蹲ろうとした――その時だった。


 突然、祠から異様な気配が放たれる。


「っ誰!?」


 反射的に飛び退き、臨戦態勢をとる。祠の前に、男が1人、横たわっていた。石畳の地面に平然と仰向けになり、ぐっすりと眠っている。


 突然現れたかと思えば、石畳の上で熟睡する男――害はなさそうだが、異常なことには変わりない。百合花は、最大限に警戒しつつ、遠目から男を観察することにした。


 灰色の髪。

 白シャツに黒ズボンというシンプルな服装。

 季節外れの黒いネックウォーマー。

 人間と何ひとつ変わらない容姿。


 ──邪気は感じられない。本当に、ただ眠っているだけのようだ。


 ……ごくり。

 唾を飲み込み、忍び足で男へ歩み寄る。すぐ傍にまで来ると、そっと膝をついた。


 前髪を眉下まで伸ばした、標準的な髪型。切れ長の目に、通った鼻筋。整った形の唇。血色は悪いが、端正な顔立ちだ。年齢は、10代後半くらいだろうか。


 それにしても不思議な怪異だ。角がないことと、あまりの不用心さからして、鬼の類ではない。「生」を失ってないため、霊でもない。……とすれば。考えついた答えに、百合花は一瞬、肝を冷やす。だが、すぐに緊張をほどいた。


「狐狸の変化だとしても、大丈夫そうね。大抵の場合、イタズラするだけだもの。……と思ったけれど、その類でもなさそうだわ。ここまで来て、驚かす気配すらないものね」


 百合花は、ほっと息をついた。彼の正体は分からないが、無害と見て間違いない、そう判断したのだ。


「っへくしゅ!」


 安堵するのも束の間、耐え難い寒さが彼女を襲う。外的な危険を取り除いても、自身が裸である限り、安寧は訪れない。


 ふと、青年に目が行った。眼下で眠るこの男は、あまりに無防備だった。彼女の頭に、悪魔のような名案が浮かぶ。


 ――この男から、服を奪ってしまえばいい、と。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る