炎陽ノ鬼
ブモー
ゆうぐれのはな
第1話 暗闇の中から
彼等は、そこに〈いる〉。
「怪異」という名の枠に押し込み、境界の向こうへ追いやろうとも――。
〈わたしたち〉は、息を殺しながら、
◇ ◇ ◇
「お前はただの淫乱だ」
刺すような声、抉るような言葉。女は絶望にうちひしがれた。
見上げる視界に映るのは、黒髪の男。顔の両側にある黒い三角形は、明らかに人のソレではない。男は金色の双眼を光らせながら、侮蔑の表情で彼女を見つめている。冷ややかな眼差しの奥底には、ドロドロとした熱が煮詰まっていた。
灰色の空が広がり、じめじめとした空気が肌に纏わりつく、6月――某県、某ラブホテル。中学の卒業式から3年後、人ならざる2人は、再会を果たした。
3年越しに為された、告白への返事――それは、つい先ほど、ほんの数刻前の出来事。蜂蜜のように甘く、檸檬のように切ないひととき。
――だが、男が放ったのは、あまりに酷薄で、非道な言葉だった。
女は、何を言われたのか理解できなかった。……否、頭が理解することを拒んだ。時が止まったかのように、身も心も凍りつき、指のひとつすら動かせなかった。
男の唇が、自嘲するように歪む。
「……でも、いい」
男は女をうつ伏せにすると、彼女の頭をベッドに押さえつけた。
「俺は、お前が大好きだから。お前がそう望むなら、満足するまで……」
大きく開かれた口。剥き出しになった鋭い犬歯と、尖った歯列は、人間のものではない。
それは、まるで――。
「っう”……、ぐぅっ!?」
男が白いうなじに牙を突き立てる。女の口から、うめき声が零れた。逃げようとする身体は押さえつけられ、より深く牙を沈められる。患部から滲んだ血が、彼女の首筋を伝い──シーツに染みを作った。
(……ああ、たしか――)
頭上で鳴る、獣の唸り声。女は、諦めたように目を閉じた。
(猫の交尾は、
彼女の頬に、ひとすじの涙が零れる。それとは裏腹に、唇はいびつな弧を描いた。女は、さながら組み敷かれた雌猫――否。それ未満の、ネズミだった。
「大丈夫」
甘い声で、男は囁く。
「お前は何も悪くない。春猫に噛まれたとでも、思っておけばいい……」
激しい自己嫌悪は、薄れゆく意識とともに、闇の中へと溶けていく――。
灰色の長い髪を、男の指がさらりと撫でる。耳もまた灰色で、丸く大きな形をしている。
男が、女の前髪を払う。瞼の隙間から、アイスブルーの淡い光が零れた。
「……ごめん」
茫然自失としながら、謝罪の言葉を告げる。薄い唇が、次の言葉を紡ごうとした時。視界の片隅で、景色が歪んだ。違和感を覚えた男が、室内に視線を移すと、目の前に透明な煙が立ち上っていた。酷暑に発生し、事故の原因となり得る――無論、ホテルの一室において、起こるはずのない現象。
だが、恐ろしいことは何もない。それは、ただ揺らめいているだけだった。熱くもなければ、冷たくもない。良い匂いでもなければ、臭くもない。気味が悪くもなければ、気分の良いものでもない。
そこに有るのは、ただ、無。有るように見えて、そこには無い――そんな、不思議な怪奇だった。
「かげ、ろう……?」
目の前の現象に似た単語を呟き、揺らめきに触れる。当然ながら、感触は何もない。彼の手は、ただ空を切るのみだった。
――つぅ。……ぽたり。
男は、己の頬に何かが伝うのを感じた。……涙だ。男の意思とは関係なく、彼の目からひとりでに溢れてきている。鼻が詰まるわけでもなく、嗚咽するわけでもない。ただただ、涙だけが、決壊したダムのように流れ続けるのだ。
「なんだこれ……?」
明瞭な声で呟きながら、男は目をこする。透明な液体と、少しの赤色が付着した。止まらない。目の淵からあふれ出ては、ぼたぼたと掌に落ちていく。薄赤かったそれは、ドロドロと赤黒くなっていった。
――血だ。
男がそう認識した、直後。
男の目の淵から、唇の隙間から――――大量の血が、零れた。
「があ”あああああああああああああああああああああああああああああああ!!?」
男の身体を、耐え難い激痛が襲う。
脳が歪む。
眼球が、あちこちに動き回る。
右肺が膨張し、左肺が潰れる。手足が激しく痙攣する。
心臓の動きが、急激に速まる。
血液が、血管を突き破りあらぬ箇所を流れる。
細胞に至るまでの体組織が、循環を無視して好き放題に暴れ回った。
「う”ああああああああ!! あ”がああああああああああああ!!!!」
断末魔の叫び声をあげながら、床へなだれ込む。赤く染まった視界の隅に、男は、彼女の泣き顔を見た。
薄れゆく意識の中、女の悲鳴だけがこだましていた。
「あ……、あぁあ……」
部屋中に、酷い臭いが充満している。女はガタガタと震えながら、あちこちに飛び散った「彼だったもの」を見つめている。惨劇の渦中にいながらも、女と、彼女の座るベッドには一滴たりとも「赤」は付いていなかった。
陽炎が、ぬぅっと彼女の前へ立つ。揺らめきの中から、2つの目玉がぎょろりと現れた。その目は、男と同じく金色に光っていて――しかし、ぎらついた彼のモノとは違って、月のように淡い光を放っていた。
〈あそぼう ゆりか〉
口の代わりに、「口のようなもの」がゆらゆらと揺れた。陽炎の怪物が、手のようなものを女――百合花へと伸ばした。揺らめきが、彼女の身体に触れようとした時――――積もりに積もった恐怖が、弾けた。
「いやああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
劈く悲鳴をあげ、ベッドから転げ落ちる。床に転がる血肉が、彼女の身体にこびりついた。異常に震える手足を叱咤し、何度ももつれる足をなんとか立ち上がらせ、走り出す。恐怖に支配されるがまま、赤黒い肉を踏みつけ扉を蹴破った。
〈なんで にげるの〉
捨てられた子犬のような、あまりにも悲しい声。だが、彼女にとっては酷くおぞましく聞こえた。一刻も早く、怪物の気配と声から逃れたい。本能が、けたたましく叫んでいた。
〈……わかった! 鬼ごっこがしたいんだね!〉
百合花の心中なぞ知らぬとでも言うように、怪物は無邪気に笑う。
〈よーしっ、負けないぞ! 絶対、今度こそ、つかまえるんだからね!〉
はしゃいだ声。天真爛漫な物言い。かわいらしいはずのその声が、彼女を恐怖のどん底に陥れる。
――怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
たったひとつの感情が、脳を埋め尽くす。揺らぐ視界。縮こまる心臓。全身を駆け巡る戦慄―――アレに捕まったら、終わる。
一糸纏わぬ姿のまま、百合花は昏い廊下を駆け抜けた。
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