第23話
ベッドの横に椅子を置いて、美香の近くに座った。彼女の寝顔は愛らしく、病に侵されているとは思えないほどに穏やかな表情だった。彼女の呼吸をする音とそれに合わせて小さく上下する胸が、彼女がまだ生きていることを教えてくれる。
「久しぶり」
美香からの反応はもちろんない。でも、言葉は届いていると信じて続ける。
「会いに来れなくてごめん。あれから色々あったんだ。聞いてくれる?」
僕は、美香の手を握った。彼女の温もりを感じる。その温もりが昨日よりも弱くなっているような気がした。
それを気にしないように普段よりも少し明るめの声で美香に話しかける。
「川崎真の家に行って来たんだ。写真を見たけど川崎真は、快活で明るくて優しそうな人だね。僕とは正反対で、彼のことを少しだけ羨ましいと思ったよ」
羨ましいと思ったのは、本心だ。僕の持っていないものを。家族を友人を大切な人を川崎真は持っていた。
「僕も一度会って見たかったな。僕と彼は恋敵になるはずだから、たぶん仲良くはなれなかったかもしれないけどね」
僕はおどけるように言って、美香の寝顔を見る。反応はなく穏やかに眠ったままだが、彼女が夢の中で笑っていると信じて言葉を紡ぐ。
「彼が美香に返事をする前に、事故に遭ったことを新井さんに教えてもらった。だから、美香がその返事をいつまでも待っているんじゃないかと思って、僕は川崎真の家に行ったんだ。勝手なことしたのは分かってるけど、彼も自分の気持ちを知ってもらいたいんじゃないかと思ったんだ。自分の想いが届かないままなんて辛いだけだから」
誰かの気持ちを全て理解する術を僕たちは持っていない。だからこそ、気持ちの百分の一でも千分の一で伝わればと、僕たちは言葉や文字を使って、それを届ける。時には、回りくどく、時にはストレートに。そうしないと心から溢れそうになる気持ちを誰かに理解してもらえないから。
川崎真は想いを届ける前に死んでしまった。その想いは、今もどこかを彷徨っているのかもしれない。美香は、それをずっと探そうとしていた。でも、同時に目を背けてもいた。お墓参りには行くが、川崎家には行かないのがその証拠だ。彼女は、川崎真の気持ちを知ることが怖かったのだろう。もし、美香の想いが届いていなかったら、彼の想いが美香と違っていたら。彼がこの世に居ない以上、二人の関係は進展も後退もしない。だからこそ、彼女は、お墓の前で願うように祈るようにして、答えのでない質問を繰り返し、そこに止まることを選んだのだ。
そんな彼女の怖さが、今の僕にもわかる。かろうじて、生きている彼女の温もりを探すように手を強く握る。
「彼のお母さんに、生前、彼が使っていたノートを見せてもらったんだ。授業ごとに取っているわけではなくて、複数の授業が一冊に書いてある変なノートだったよ。所々にメモがあって、お世辞にも見やすいといえるノートじゃなかった。でも、そこに彼の想いが記してあった。メモの部分に美香のことが書いてあったよ。ノートは、授業はあべこべに書いてあるし、メモもまるで授業と関係のないことが書いてあったから、彼のお母さんですら、その一部に好きな人のことが書かれているなんて思いもしなかったんだろうね。でも、同じく美香を好きになった僕は、それを見つけることができた」
僕は、スマートフォンを操作して、川崎家で撮影させてもらった川崎真のノートの写真を開いた。
罫線の中と外にもたくさんの文字が書かれた見づらいノート。罫線の外に書かれたメモの中に、美香のことを指していると思われる言葉が度々出ていた。
小麦色の肌、栗色の髪、テニスが好き、雲が好き、景色が好き、マジックアワー、人を見ている、友達思い、いたずらっぽい笑顔。
外見のことや内面のことそれらの言葉が、ノートの中に分散していた。一見すると共通項が見当たらないただの単語でしかないが、美香のことが好きな僕たちにとってそれらは、すべて彼女を表す言葉だった。
「川崎真は美香のことが好きだった。美香が彼に告白をしたあの日、二人は結ばれるはずだった。でも、彼はその場で返事をしなかった。その理由も分かったよ。彼は、父親の仕事の都合で中国にしばらく住むことになっていたからなんだ」
川崎家が一家で中国に移住する話になったのは、美香が川崎真に告白する一週間前に決まったことだったそうだ。実際に海外に発つのは、そこから数か月後の話だったようで、その時が近づくまで、彼は誰にもそのことを話していなかった。彼が亡くなった今、母親は家に残り、父親が単身赴任で中国に行っているそうだ。彼の部屋に手が付けられていない中国語の辞典があったのは、彼の父親が中国への移住が決まった際に彼に渡したものだった。
彼は、美香に告白されすごく悩んだのだろう。日本と中国の遠距離恋愛。会うことができるのは、年に数回だけだろう。ましてや、いつ帰って来れるかも分からない。中学生がそれを選ぶのは、難しいというのは、想像に難くない。でも、川崎真は気軽に言葉を交わしたり、触れ合ったりすることができなくなったとしてもそれを選ぼうとしていた。だから、彼は美香に自分の想いを伝えるために、美香に会いに行こうとしたが、その途中で事故に遭い、その気持ちは届かないままになってしまった。
だから、僕が代わりに届けることにした。
「もう一度、言う。川崎真は菅野美香のことが好きだったんだ。例え、すぐに離れてしまうと分かっていたとしても一緒になることを選んだんだ。美香の想いは届いたんだ」
川崎真のお墓の前で涙を流す美香。その涙を拭うことは、できたのだろうか。もう大丈夫だと伝えられただろうか。
眠る彼女の頬に触れる。ほんのりと温かい頬を伝うものは今はない。ただ静かに息をするだけで、今の彼女からは答えを得られない。その答えを得るためには、彼女が目を覚ます必要がある。
美香を救うことはできたと思う。彼女が探し続けたものを届けることはできたはずだ。次は、彼女を助ける番だ。
深呼吸をして、覚悟を決める。これから話すことは、憶測の域を出ない話だ。自分以外の人の感情を証明する。しかも、それが正しいかどうか判断できる人物はずっと眠っている。
「僕は美香に嘘を吐いていた。僕も眠り姫症候群を患っている。……でも、それを美香は知ってたよね。だって、美香も嘘を吐いているから」
僕は、イタズラっぽい笑みを浮かべて美香を見つめる。彼女の悲しそうな顔が見えたような気がした。
「僕が美香の嘘に気付いたのは昨日ことだ。その時は、嘘だと分かっていなかったけど、一緒に過ごしたこの数か月のことを思い出して、気付くことができたよ。そして、新井さんが言っていた美香は嘘を吐くのが下手だって。そこで新井さんに、そこまで断言できるということは、嘘を吐くときの癖や仕草があるんじゃないかなと思って確認したんだ」
僕は、記憶をたどるように目を瞑る。
「学校で初めて話した日に美香は好きな人はいないって言ってたけど、あれは嘘だよね。あの時、美香の心の中には川崎真が居たはずだ。他にも新井さんが何かあったのかと聞いた時に、病気のことを隠そうと何もないと嘘を吐いた。それらの時、美香は相手の顔を見ないように俯いて答えていた。新井さんいわく、美香は嘘を吐くと顔に出やすくて、それを隠すように俯くようになったって。分かりやすい癖だね」
何か月も美香のことを見てきたのに、そんな簡単なことにも気が付かなかった。
自嘲的な笑みを浮かべ、続ける。
「美香が倒れて、入院が決まった日。同時に僕の病気の症状が分かった日。その日も君は嘘を吐いた。僕が美香に告白した時、俯きながら川崎真のことが好きだと言ったその時には、美香は僕の病気を知ってたんだよね?」
斉山先生の診察室の扉は、ずっと壊れていてしっかり閉めないと中の声は、簡単に廊下にもれてしまう。あの日は、扉をしっかりと閉めていなかった。そして、偶然そこを通りかかった美香が僕と斉山先生の話を聞いてしまったのだろう。
僕が美香のことを好きだってことを。そして、美香にキスをすると死んでしまうことを。
だから、美香は嘘を吐いた。僕を死なせないために僕のことを振ったのだ。自分の命を賭けて、僕を助けようとしてくれた。
「ありがとう美香。でも、いいんだ。僕は、美香のいない世界を生きていけない」
美香が倒れた日から何度も彼女のいない世界を想像してみた。いくら想像しても僕が生きていける世界は、そこにはなかった。
だから、美香に生きていて欲しい。それがただのエゴなのは、分かっているつもりだ。たぶん彼女は僕のこと嫌いになるかもしれない。それでも構わない。
この恋は死よりもずっと重い恋だから。
「僕は、美香の小麦色の肌が、栗色の髪が、景色が好きなところが、友達思いなところが、イタズラっぽい笑顔が大好きだ。」
僕は美香にやさしくキスをした。
美香が目覚めるようにと願い込めるように、微かな温もりを感じる彼女の手を両手で握って、目を瞑る。
まどろみの中に僕は落ちていった。
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