第22話

睡眠薬を飲むことを忘れ、眠れぬまま朝を迎えた。

一睡もしていないと頭は重たく、気だるい一日を過ごすことになるが、今はいつも以上に頭が冴え渡っていた。

自室をきれいに整えて、手紙を机の上に置いておく。机には、手紙以外の物はなにも置かないようにしておいた。これで、父さんは確実にこの手紙に気付いてくれるだろう。

 ダイニングに移動して、軽く朝食を済ませていると父さんが起きてきた。

「おはよう」

 寝ていないのがばれないように注意を払って声をかけた。

「おはよう。…智、今日はどうしたんだ?」

「え、なにが?」

 普段と変わらないはずだったのに、父さんは何かを感じとったのかもしれない。

「いや、なんでもない」

 そう言うと父さんは、ダイニングに座った。

「今日は、仕事?」

 自分と父さんのカップを用意して、インスタントコーヒーを作りながら、父さんと世間話をすることにした。今は、何気ない家族の会話をしたいと思ったからだ。

「そうだ。今日は、どうしても会社に行かなくちゃいけなくなってしまって、家にはいられないんだ」

「別に大丈夫だよ。はい、コーヒー」

 父さんにコーヒーの入ったマグカップを渡して、向かいの席に座る。

「ありがとう」

 父さんは一口コーヒーを飲んで息を漏らす。僕も同じようにコーヒーを飲んだ。口の中に、ほのかな苦みが広がる。

「智もいつの間にかコーヒーを飲めるようになったんだな」

 父さんは感慨に浸るように言った。

 そういえば、父さんの前でコーヒーを飲むのは初めてだった。

「高校生になったくらいのころかな。飲めるようになったのは」

 どうして、コーヒーを飲もうと思ったのかは、理由はすっかり忘れてしまった。たぶん、早く大人になりたかったとかそんな理由だったような気がする。結局飲めるようになった今でも大人にはなれていない。

「そうか。気づかないうちに向き合わないうちに変わっていくんだな」

 コーヒーを飲みながら父さんは呟く。

 束の間の沈黙。今までは、ただ苦しく辛かった沈黙が、今は穏やかなひと時に思えた。

「そうだよ。もう少しで身長も抜くと思うよ」

「大きくなったな」

 父さんが目を細めながら、どこか懐かしむように僕を見つめる。その目には、何歳の僕が写っているのだろうか。

「智が成人を迎えて、お酒を飲むときは、乾杯してくれるか?」

 父さんのその言葉に涙が零れそうになる。吐き出したい言葉はたくさんある。でも、今は抑え込む。伝えたいことは、全て自分の部屋に残しておいた。

「そうだね」

 僕は笑って、応えた。父さんも笑顔で返す。

 ぬるくなったコーヒーを飲むとさっきよりも苦味を強く感じた。


 父さんが会社に向かうのを見送り、身支度を整えた頃には、十時をまわっていた。

 時間的にもちょうど良かったので、家を後にした。

 新井さんとファミレスで会う約束をしていたからだ。

 昨日のことについて、説明をしてほしいと新井さんから何度も催促をされていた。それで、いつものファミレスで話そうとなったわけだ。

 ファミレスに到着するとすでに案内されて席に着いていた新井さんの姿が見えた。僕は、お店に入ると近づいてきた店員に「待ち合わせです」と伝えて、新井さんの正面に座った。

「おはよう」

「おはよう。早かったね。また時間ぴったりに来ると思ってたよ」

 新井さんは、ストローでジュースを飲みながら言った。その言葉にいつもの毒気や覇気を感じなかった。

「僕も学ぶからね。もう殴られたくないし」

「そんなに何度もぶってないでしょ。それよりも昨日の話よ。川崎先輩の家に行って、何してたの?」

「その話はちゃんとするから先に何か頼んでもいい?お腹空いちゃって」

 僕がそう言うと、新井さんはフンと鼻を鳴らして、メニュー表を渡してくれた。

 僕に対する態度こそきついが、やはり優しい人だと思った。


 僕がパスタを食べ終え、新井さんがパフェを食べ終えた頃には、お昼のピークを過ぎた店内はお客さんがまばらになっていた。

「それで、どうだったの?」

 食べ終わったパフェのグラスを通路側に寄せながら、新井さんが尋ねた。

「川崎真のお母さんに会って、色々と話を聞けたよ。いい人だったんだね」

「そうね。部活の後輩でもない上に生意気な私にも優しくしてくれていたし、男女問わず人に囲まれている人だったわ。美香が、真先輩のことを好きだと言った時は、まぁそうなるよねって思ったもの」

 新井さんは、懐かしむように目を細めるとストローを咥えてジュースを飲んだ。グラスは空になり、ズズズと情けない音を立てた。

「新井さんも好きだった?」

 ちょっとしたイタズラ心が芽生えて、からかってみたくなった。こういう時、いつも美香のイタズラっぽい笑顔を思い浮かべる。

「真先輩は確かにいい人だけど、私のタイプじゃないから。もし、タイプだったとしても……親友の好きな人を好きになることはないわ」

 親友という言葉を新井さんは、苦しそうに吐き出した。美香と新井さんは、まだ喧嘩したままだ。二人が仲直りして、親友に戻るためには、美香の病気を治さなくてはならない。

「私の話はいいでしょ。で、どんな話しを聞けたの?」

僕は、川崎真の家で知ったことと斉山先生から聞いたことを新井さんに話した。だが、美香の時間が短いことは伏せておいた。彼女は、頷いたり時々考えたりして、僕の話を聞いていた。

「なるほどね。正直、真先輩の気持ちはそれで正しいのかもしれない。でも、それを知った高来君はどうするの?」

「美香にこのことを伝える」

「それで?美香が真先輩と両想いだと知ることができるかもしれないだけで、なにも変わらないじゃない。それともそれ以上になにかが考えがあるの?」

「あるよ。僕が美香を助ける」

 僕は力強く覚悟を持って言った。

 新井さんは、驚いたような表情を見せる。

「本気で言ってんの?美香は真先輩のことが好きなんだよ。高来君のことが好きかどうかなんて分からないじゃん」

「それでも僕は、美香のことが好きだから」

 僕が美香のことを好きだから。ただ、それだけ。

 美香が僕のことをどう思っているのか。本当のところは分からない。美香の行動から推測しただけで、彼女の心を直接、覗いたわけではない。

 でも、そんなことは関係がない。どんなに考えても悩んでも他人の心は分からないし、心は移ろうものだ。自分の心だって、明日には今日とは違うことを思っているかもしれないのだから。だからこそ、なればこそ僕は自分の気持ちとわずかな可能性に賭けることにしたのだ。例え、それが望まない結果に終わったとしても。

 眠り姫症候群は、人の想いを表面化してしまう。僕の美香に対する想いも美香の僕に対する想いも全てが表面化する。それでも構わない。今の僕は胸を張って、堂々と菅野美香が好きだと言えるから。

「…バカみたい」

 新井さんは、小さく呟く。

「バカだな。本当にバカだ。バカ、バカ、バカ…」

 小さく呟いたと思ったら、今度は、堰を切ったかのように大きなバカバカ言い始めた。

 周囲のお客さんやファミレスの店員さんが、訝しむ様な目でこちらを見ている。

「そんなバカ、バカ、言わなくてもよくない?」

 新井さんは、周囲の目など気にしてない様子だが、さすがに僕が耐えられなくなってきた。

「ごめんね。高来君に言ってたわけじゃないの。自分がバカだなって」

 新井さんは、ふーと息を吐き出して続けた。

「助かる可能性があるとか無いとじゃないよね。私も美香のことが好き。何物にも代えられない大切な人だから、ちゃんと仲直りもしたい。そして、夏祭りも海にだって行きたい。だから、美香のことを助けてほしい」

 僕を見る新井さんの目に希望を抱いているのが見えたような気がした。

「もちろん」

 僕はもう一度、力強く覚悟を持って言った。

 僕の言葉の裏側を新井さんは、知らない。すべてのことがうまく言った時に、そのことを知ることになるだろうが、自分のことを責めないでほしいと思った。僕が僕の意志で選んだことだから。それだけを切に願った。


 ファミレスを出て、新井さんと別れた僕は、その足で病院へと向かった。

 平日ということもあってか、病院内は静かだった。待合室にも看護師や来院者がちらほらと居るだけだった。

 僕は、受付を済まして、真っ直ぐに美香の病室へと向かった。

 斉山先生の診察室の横を通り過ぎると時は、自然と息を潜めてしまった。斉山先生に会うことはできれば避けたい。診察室から斉山先生の声がうっすらと聞こえた。どうやら誰かと話し込んでいるみたいだった。詳細には聞こえないが、日本語ではない言語で話していることだけは理解ができた。たぶん電話かリモートで外国の医者とやり取りをしているのだろう。できるだけ、長く話しをしていてくれ。そう願わずにはいられなかった。時間があるにこしたことはない。

 美香の病室の扉の前に立って、返事がないのは分かっているのにノックをした。

 コン、コンとむなしく音が反響した。

 扉のノブに手を掛けて、扉を開く。扉の重さが以前よりも軽く感じた。

 窓の外に映る新緑の桜と柔らかな日の光が、眠る美香を淡く包み込んでいた。

 その姿は、「眠り姫」の装丁のように美しく綺麗だった。

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