第21話

 川崎真が暮らしていた家は、お寺からそう遠くないところにあった。

 生垣に囲まれた一戸建ての住宅だった。手入れの生き届いた生垣には、白いクチナシの花が咲いていた。

門柱に備え付けられているインターフォンを押す。すぐに応答が返ってきた。

「はい。どちら様ですか?」

 優しそうな女性の声だった。

「新井椎奈さん経由でお約束させて頂いた高来です」

 緊張で声が掠れてしまった。

「あなたが…。待っててね。今、開けるわ」

 インターフォンからの音が消えると玄関の扉が開いて、川崎真の母親が出てきた。

 小柄で、声の通り優しそうな雰囲気を持つ女性だった。

「門は開いてるから、入って来てちょうだい」

 そう言われて、樹脂製の門を開ける。キーという甲高い音を立てた門を通って、僕は玄関まで向かい、川崎真の母親に挨拶をした。

「高来智と言います。今日は急にお時間を頂き、ありがとうございます」

 失礼のないように言葉を選んだつもりだったが、何だか変な感じになってしまった。

「いいのよ。さぁ中に入って」

「お邪魔します」

 手招きされ、家の中に入る。靴を脱いでいると玄関の靴箱の上に写真が飾ってあるのを見つけた。それは家族写真だった。どの写真にも快活に笑う少年が写っていた。彼が川崎真なのだろう。優し気な目元や鼻筋などが、目の前にいる彼の母親にそっくりだった。

「その子が真。私に似てるでしょ。身長は、お父さんに似ていて大きかったんだけどね」

 僕の心を見透かしたように川崎真の母親は言った。語尾は、小さくなって微かに震えていた。

 その言葉でここには、僕の知らない人の知らない人生があったのだと改めて実感した。

 人が生まれて死んでいくことは、僕らは気付いていないだけで、当たり前にそこにあることを忘れてしまう。

 川崎家は、線香の香りがした。


 リビングに通された僕は、床に小さくなって座っていた。

 川崎真の母親は、キッチンに行っており席を外していた。

 川崎家のリビングは、物が極端に少なかった。センターテーブルに座布団、収納棚が一つしかリビングにはなかった。僕の家よりもリビングは広いはずなのに、物が少なすぎるせいか余白が多く物悲しく見えた。これから、家族の憩いの場として整えられていく、その途中を見せられているような気分だった。未完成のリビングは、一体何年このままなのだろうか。

 手持無沙汰だったので、収納棚に飾られていた写真を見ていた。友人と楽しそうに笑う川崎真の写真だ。他にもテニスをしている写真やゲームをしている写真が飾られていた。

 友人も多くよく笑う川崎真は、たくさんの人に好かれた人物だったのだろう。

 僕とは正反対だな。

「はい。こちらどうぞ」

 キッチンから戻ってきた川崎真の母親は、センターテーブルに麦茶の入ったグラスを置いた。

「すみません。勝手に見てしまって…。お茶ありがとうございます」

 僕は、センターテーブルの前に正座で座った。川崎真の母親は、僕の向かいに座った。

「いいのよ。気にしないで」

 僕は麦茶を一口飲んだ。冷たい麦茶が喉を通って、暑くなった体を冷やしてくれる。

「それにしても新井さんから連絡をもらった時は、びっくりしたわ。真のことで人が訪ねてくるのは、すごく久しぶりだから。高来君は、真とは面識がないのよね。どうして、今日はここに?」

 新井さんには、僕のことをあまり説明しないでもらっていた。僕のこと、ここに来た目的、それらは自分で話しをしたいとそれが誠意だと思ったからだ。見ず知らずのましてや、亡くなった自分の子供のことについて話しをしたいと言った人物に会ってくれている川崎真の母親はすごくいい人なのだと思った。

「僕は―」

 ことの経緯を説明した。僕について。何故、川崎真のことを知っていたのか。美香の病気のこと。美香が大切に思っているのが誰なのか。そして、美香の命がそう長くないこと。直接関係のない僕の病気のことについては、黙っておいた。

「僕は、川崎真さんが菅野さんの美香のことをどう思っていたのか知りたくてここに来ました」

 僕の目的は、川崎真の答えを知ることだった。彼が美香の告白にどんな返事をするつもりだったのかを知ることだった。美香が知ることのできなかったそれを。お墓の前で、何度も何度も手を合わせる彼女に届けたいと思った。

 すべての話を聞いた川崎真の母親は小さく頷いた。

「そう。ちょっと待っててね」

 そう言って、川崎真の母親は、リビングから出て行った。

 五分ほど経って戻ってきた彼女は、一つの鞄と数冊のノートを持ってきた。

「これは、真が事故に遭う前に持っていたものなの」

 センターテーブルに置かれたそれはどれも汚れていて、鞄は事故の際につぶされたのかボロボロになっていた。金具がおかしな方向に曲がっていて、ひどい事故だったと一目でわかった。

「この中になにかあるんじゃないのかしら。真は色々なことを適当なところにメモをする癖があったから」

 川崎真の母親は、一冊のノートを僕の前に出してページをめくった。授業ごとにノートを変えるでもなく、一冊のノートに複数の授業の板書が記されていた。罫線の外には、授業を受けている時に思ったことなのか他愛もないメモが残されていた。

 すごく見づらいノートだった。意味をなしていないように見えた。

「見づらいノートでしょ。何度もやめなって言ったのに、これでいいんだって聞かなくて」

 川崎真の母親の声がまた震えていた。

「ごめんなさい。…ゆっくり見ていいからね」

 そう言って、目元を押さえながらキッチンの方へと行ってしまった。

 僕は言われた通りに川崎真のノートに目を通した。

 ノートに書かれた内容には、規則性がなく数学の次は国語。その次は物理、また数学と言った具合にかなりランダムだった。もしかしたら川崎真の中では、規則性があったのかもれないと思ったが、僕ではそれを導き出せる気がしなかった。

 でも、全てのノートに目を通すことにした。きっと何かがあると思ったからだ。

 そして、それを見つけることができた。

 罫線の外に書かれたメモの中に時々、特定の人物を指すような内容が盛り込まれていた。それが誰を指しているのかは明記されておらず、内容も見ただけでは何の変哲もないただのメモだ。きっと川崎真は、自分の想いが誰かに知られるのが恥ずかしかったのだろう。

 ただ、僕にはそれがなんなのか分かった。同じ人を好きになった僕だけが、その内容が誰を指しているのかを分かることができた。

 ノートのどこにも日付が書いていないので分からなかったが、美香が告白する前よりもずっと前から川崎真は、美香のことが好きだったようだ。その証拠がここにはたくさんあった。

 では、なぜ川崎真はすぐに返事をしなかったんだ。なんで、一度保留にする必要があったんだ。

 その理由は、どこにも書いていなかった。

「あの、他に川崎真さんの私物を見せて頂くことってできますか?」

 キッチンに居る川崎真の母親に声をかけた。

「ええ。いいわよ」

 ハンカチで涙を拭いながら、僕を二階の川崎真の自室へと案内してくれた。

 川崎真の自室には、いくつか段ボールが積まれていた。その中には、小学生時代のものが入っているそうで、それらを開けることはしなかった。他には、学習机と空っぽの収納ケースがあり、壁にはテニスラケットとウェアが飾ってあった。まるで、物置のような部屋だが、川崎真の私物以外はないそうだ。

 机の上にあったノートや教科書なども確認したが、美香に繋がるものは見当たらなかった。中国語の辞典があり、それが気になったが未開封だったので、特に触れることはしなかった。

 机の引き出しをあけると中身が入っていなかった。

 川崎真の自室からリビングに戻って来て、気になっていたことを確認した。

「美香は、こちらに来たことがありますか?」

「以前は何度か来たことがあるけど。…真があんなことになってからは、一度も来たことがないわ。真のお葬式以来、会っていないわね」

「そうですか」

 美香がここに来ていないことは、なんとなく予想は出来ていた。ここには、美香と川崎真が過ごした思い出が多いからだろう。彼の存在が染みついているからこそ、ある意味では、存在が希薄なお墓には赴くことができるのだろう。

「お葬式の時の菅野さんは見ていて、とても辛かったわ。ずっと俯いていて、でも私たちには心配掛けないように無理に振る舞っているのは、すぐに分かったわ」

 そう語る川崎真の母親は、寂し気に見えた。

「あの。最後にお線香だけ上げていってもいいですか?」

「ええ。どうぞ。あの子も喜ぶと思うわ」

 僕は、川崎真の仏壇の前で手を合わせ、感謝の意を込める。

 線香の煙は、揺蕩って消えた。


 帰りの電車に揺られているころには、すっかり夜になっていた。

 僕と同じ車両に乗っている人は、三人くらいしかいなかった。人の存在を感じにくい車内で、ガタゴトと電車がレールの上を走る音だけが鳴っていた。

 僕は、疲れからかぼーっとしていた。正面の窓の流れていく暗闇を見ていた。少しだけ、意識が遠のいていくのを感じた。起きているのに眠っているような不思議な感覚だった。

 社内アナウンスが、次に停まる駅を知らせる音で意識を取り戻す。

 電光掲示板を見て、止まっている駅を確認した。まだ降りる駅ではなくて安堵する。

 電光掲示板の画面が移り変わって、「眠り姫」の映画の広告が流れ始めた。

 思い返すと美香と知り合ったのも「眠り姫」がきっかけだった。

 病院で「眠り姫」を読んでいて、それに美香が反応したことで、美香と話すようになった。そこから、美香の病気を知って、お墓参りをして、遊園地に行って、自分の弱さと向き合う機会をくれた。

 その時々の美香のことを思い出した。怒ったり、泣いたり、笑ったり、いたずらっぽい目だったり。

 そこで、一つの違和感を覚えた。その違和感を手繰り寄せるように、記憶を思い出そうした。記憶をより鮮明に思い出せるよう目を閉じた。

 思い出した記憶と出来事を結び付けていく。違和感は、少しずつ輪郭を持ち始める。その輪郭が正しいかどうか確認するために新井さんに連絡をする。

 数分後、新井さんから返信が来た。

 それを確認して、僕の感じていた違和感は、正しい輪郭を見せた。

 美香のことを見ていたのに、どうして僕は気付くことができなかったのだろう。

 そのことを強く後悔した。でも、今は後悔しても仕方がない。向き合うべきは、いまだ。

 車窓から、美香と行った遊園地の明りが見えた。

 遊園地に行った日のことが、遠い日のように思えた。

 あの日、美香は死ぬことは仕方ないと言った。僕はなにも言わなかった。でも、今なら言える。

 君に生きて欲しいと。仕方ないと諦めたように言った君の言葉を全て否定するように叫んでやる。それでも、生きていてほしいと。

 そして、僕は命を賭ける決心をした。

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