第20話

斉山先生から話を聞いた僕は、電車に揺られていた。

 目的地は、中間テストの最終日に美香と行ったあの町だ。

 降りる駅までは、まだ十分ほど時間があるので、目を瞑って先程、斉山先生の話を振り返ることにした。


「それで、教えて頂きたいことというのは?」

 斉山先生は、僕の息が整うのを待ってから、座るように椅子をすすめた。

「はい。突拍子もないことなんですが、眠り姫症候群で眠ってしまっている人に対して眠っている状態でも声を届けることはできますか?」

「声を届ける…。つまり、眠っている状態でもこちらの言葉を認識、理解しているかといったことでしょうか」

「そうです」

「結論から言えば可能だと思います。ちょっと待ってくださいね」

 斉山先生は、唸りながらデスクとは、別のところにある資料を漁り始めた。

「あ!ありました。以前、入院されていた患者さんのデータです。似たようなことを私も気になって調べたことがあったんです」

 そう言うと斉山先生は、ファイリングされた資料をパラパラとめくった。

「この患者さんには、当時お付き合いされている方がいらっしゃり、病気の完治は間違いなかったので、少しばかり研究の協力をして頂いたのです。完治の見込みのある方には、時々お願いをしています」

「そうなんですね」

 確実な治療法が存在する病だからこそできることなのだろう。それでも解明が進んでいないのだから、奇妙な病気だと思う。

「えっと。このページです」

 斉山先生は、折れ線グラフのような図を見せてくれた。

「これは?」

「これは、眠っている時の患者さんの脳波です。ただ眠っている時の状態は、このようにある一定のリズムの脳波になっています」

 斉山先生は、脳波を指でなぞっていく。

 指の動きを目で追っていく。大きな山と谷で形成された脳波は、山と谷の高さに多少の違いはあれど、広い間隔で一定のリズムを持っているように見えた。

 しかし、途中から山と谷の高さは小さくなり間隔も短くなっていた。リズムも乱れているように見える。

「この急に脳波が変わったところ、この時、患者さんの恋人が彼女に声を掛けたのです。それに反応するかのように脳波に変化が見られました。それまでの脳波は、高い山と谷でそれぞれの山と谷の間隔が広く、深い睡眠状態、ノンレム睡眠だったと言えます。夢を見ることもない睡眠状態です。ですが、恋人に声を掛けられた時に見られた脳波は、覚醒状態に近いものです。この時の患者さんは、眠ったままで目に見える反応は、何もありませんでした。その後も何度か同じことをしたのですが、どの方にも似たような脳波が見られました。つまりは、眠っている状態でも脳の動きは起きている状態に近いものなので、声を届けることは可能だと思いますよ」

 斉山先生は、優しく微笑んだ。

 よかった。これでこれからやろうとしていることが、無駄になる可能性は小さくなった。

「ありがとうございます。もう一つだけ聞いてもいいですか」

 僕は椅子に座り直して、斉山先生をじっと見つめる。

「どうぞ」資料をデスクに置いて、斉山先生は僕に向き直る。

「菅野美香さんの病気の進行状況を教えてください」

 このことをどうしても知っておきたかった。美香に残された時間がどのくらいなのか知りたかった。

「それを教えることはできません」

「どうしてですか?」

「理由はいくつかありますが、大きくは二つです。一つは職業倫理に反してしまう。所謂、守秘義務がありますので、患者さんの個人情報をむやみやたらに話すわけにはいきません。もう一つは、分かりますよね」

「僕が美香に好意を抱いているから」

「そうです。もし、菅野さんが明日死ぬと分かってしまったら、今の高来君は、最悪の選択をしかねないと私は思っています」

 それはもっともな話しだった。確かに美香の気持ちを知らなかった時の僕だったら、間違いなく命をなげうってでも彼女が助かる可能性に賭けただろう。でも、彼女の心の中にいるのが誰なのか知ってしまった今、それすらもできない。

「僕がその道を選ぶ可能性はありません。だから、残された時間だけでもいいんです。教えてください」

 僕は頭を下げて懇願した。

「高来君、君は何がしたいんですか?」

 斉山先生が困惑したような声で聞いてくる。

「美香を救いたいんです。僕では、彼女の病気を治してあげることはできません。でも、苦しんで泣いている彼女を救いたいんです」

 川崎真のお墓の前で泣いていた美香の姿を思い出す。彼女の時間は、きっとあの場所で止まったままになっている。僕は、彼女の涙を拭ってあげたい。彼女の時間を動かしてあげたい。そう思った。彼女が僕の時間を動かしてくれたように。

 美香が死んでしまったら、僕がすることは全て無駄になってしまうかもしれない。それでも、彼女が死んでいくのを彼女が倒れたあの日と同じように、ただ黙って見ているだけなのは、もう嫌だから、僕は涙一粒でも彼女の背負っているものを軽くしてあげたかった。

 しばしの沈黙の後、優しく肩を叩かれた。

「顔を上げてください。私も人です。ただ、漫然とダメだという大人になりたいとは思いません。ですが、一人の医者としての責任があるのもまた事実です。ですから、お伝えできる範囲だけお伝えします」

 斉山先生は、そう言うとデスクに置いてある眠り姫の小説の装丁をそっと撫でた。

 斉山先生と眠り姫の著者にどのような関係があったのかは分からないが、斉山先生の顔には、後悔のようなものが浮かんでいるような気がした。

「それでいいですね?」

 優しく問いかけてくる。僕を見る目は、いつものような優しい目に変わっていた。

「はい」僕は、力強く頷いた。覚悟はできているつもりだ。

「菅野さんの病状は、私たちが思っていたよりも早く進行しています。入院した日からの数週間で彼女が起きていられる時間が一時間だけになりました。現在では、もうほとんどの時間が眠ったままです。過去の患者さんの資料を振り返っても異例の早さです」

 斉山先生のデスクの上にまとめてある資料は、やはり過去の患者さんのデータだったのか、デスクに置かれたその量の多さが、美香の病状の深刻さを物語っていた。

「完全に眠ってしまった患者さんがどのくらい生きていられるかは、未知数です。病気が病気ですからデータが少ないですし、ここまでの進行速度では、なんとも判断がつきません」

 眠り姫症候群は、大体の場合はなんの問題もなく、完治する病だ。稀有な病であるもの死亡例は少ない。大切に思い思ってくれる誰かがいれば、治る病。でもそれは、大切に思うこの世にいればの話だ。

「そうなんですね」

 覚悟は出来ていたつもりだった。今日、美香に会って触れてなんとなくそんな予感はしていた。彼女は、もう長くないのかもしれないと。生きている気配を感じなかったからだろうか。

 そして、いざ突きつけられると胸が締め付けられる思いだった。でも、もう何もしないことをしたくなかった。今できる精一杯をすると決めたから。

「私が話せるのはここまでです。私の方で進行を遅らせる方法を治療法を模索しています。それだけは分かってください」

 斉山先生は、美香が病院に運ばれた日、僕に言ったことを念押しするかのように言った。

「ありがとうございます。それが聞けて良かったです」

 もう一度、斉山先生に頭を下げて診察室を後にした。


 駅に着いた僕は、改札を抜け、駅舎を出るとスマホで地図アプリを立ち上げた。記憶を頼りに調べると見覚えのある名前のお寺を見つけた。ナビを使って、お寺を目指した。

 

 お寺に着くころには、十六時になっていた。お寺は静かでセミの羽音がやけにうるさく感じた。

 川崎真のお墓の前に立つ。お墓を見て、供花などを持ってきていないことを思い出したが、今から買いに行く時間も無いので、そのままお墓に手を合わせる。

 僕は、川崎真のことを何も知らない。知っていることは、名前と美香にとって大切な人であるということ。そして、美香の想いへの答えを伝えずにいなくなってしまった人。

 僕が、川崎真のお墓に来たのには、二つの理由があった。

 それは、挨拶とこのあと行うことへの謝罪だ。それらを手を合わせて、心の中で川崎真に伝える。

「よし!」気合を入れて、お墓の前から立ち上がる。

 一礼して、お墓から離れるとスマホが震えた。

 新井さんからメッセージが届いていた。

 そこには、住所と約束を取り付けた旨とその約束の時間、それから何の説明もなしに一方的に頼みごとをした僕に対しての文句が書かれていた。

 そのメッセージにありがとうとだけ返した。

 新井さんからもらった住所は、お寺からそう遠くはなかった。約束の十六時四十五分には問題なく着くだろう。

 これから向かう先が、美香を救うためにどうしても行きたかった場所。そして人だった。

 それは、川崎真が生前に暮らしていた家で、会うのは彼の母親だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る