第19話

美香に会うことができないまま夏休みも終わりに差し掛かっていた。

 会おうと決めて病室の前まで行っては引き返す。そんなことを数日、続けていた。交通系ICカードの利用履歴には、現実と向き合えなかった回数が刻銘に刻み込まれていた。

 利用履歴を確認していたスマホをスリープにして、病院から処方された睡眠薬を飲んだ。

 僕の症状は、軽度の睡眠障害のようで弱い睡眠薬を飲んでいれば、日常生活に支障をきたさないものだった。さらに症状が重くなる場合には、強い睡眠薬の服用していくらしいのだが、重症化した時、果たして睡眠薬でどうにかなるかは誰も知らない。

 眠り続ける病と眠れなくなる病。同じ病なのに僕の病は、小瓶に入った薬一つでどうにでも対処ができてしまうのに、美香は今も眠っているのだろうか。

 小瓶を揺らすとカランと小さな音が鳴った。もう一錠しか入っていないようだった。

 もらいに行かないとな。そう思いダイニングテーブルでノートパソコンを広げて、仕事をしている父さんに声をかけた。

「薬が無くなりそうだから、明日病院に行ってくるよ」

「父さんも一緒に行こうか?」

 父さんが、心配そうな様子で尋ねてくる。

「大丈夫。一人で行ってくる」

「そうか。気をつけてな」

それだけ言って、父さんはパソコンに向き直り仕事を再開した。

父さんは、僕の病気が発覚してから、すぐに仕事をリモートワークに切り替えた。元々、リモートワークにする予定で準備を進めていたと言っていたが、僕に気を遣わせないようにするための嘘だとわかっていた。その証拠にWEB会議にアクセスできず苦戦している姿を何度も見かけた。今もパソコンを見つめながら、何やら考え込んでいる。

「それじゃあ。もう寝るよ。おやすみ」

「あぁ。おやすみ」

自室のベッドに横になり、目を瞑る。ダイニングから聞こえてくるタイピングの音を聴きながら眠りについた。


翌日、病院に行くと診察を受けた。予約をしていたわけではないので、斉山先生ではなく看護師さんによる簡単な問診だった。睡眠薬だけをもらって帰るつもりだったので、少しだけ面倒に感じたが仕方なく受けた。

睡眠は問題ないか。他に症状は何か出ていないか。そんな内容だった。

問診も終わり、薬を受け取って、帰ろうと思い病院の出口まで来たがすぐに引き返した。

また、ICカードの利用履歴に意味のない数字が刻まれるかもしれないが、やはりそこと向き合う必要があった。

 何度も通って目を瞑ってでも行ける自信のある病室を目指した。

 美香の病室の前には、すでに先客がいた。

 新井さんは、美香の病室の前で立ち尽くしていた。そのまま凍ってしまったかのように、微動だにしていなかった。僕の存在には気づかず、病室の扉をじっと見つめている。

 その姿が、数日間の自分の姿と重なった。

 向き合うことが怖くて、苦しくて目の前のたった数センチ扉ですら、分厚く重たい壁のように感じてしまう。病気で苦しんでいる人のそばに居てあげた方が、いいと多くの人が言うだろう。だが、僕たちは苦しんでいる大切な人と向き合う勇気を持ち合わせていなかった。その壁の前で、ただ立ちすくむことしかできない。弱い人間だ。だからこそ…。

 僕は、新井さんに並んで扉の前に立った。

 新井さんは、急に隣に立った僕に何も言わなかった。ただ、覚悟を決めた表情をした。

 僕は、扉をノックした。返事は返ってこない。

 仕方なく、扉を開けて病室へと入った。

 ほんのりと薬品の匂いが漂う病室で、一定のリズムで息をする音だけが微かに聞こえた。

美香は、ベッドで眠っていた。普通に眠っているように見えた。

だが、僕たちが向き合わなければならない現実がそこにはあった。美香の体には、見たことのない機械や点滴が繋がれていて、美香が病気であるという現実を僕たちに突きつける。

新井さんは、美香の横に膝立ちになって震えまじりに声をかけた。

「美香、起きてよ」

眠っている美香は、全く反応を示さない。ただ、小さく息をするだけ。

「夏休みにプールに行こうって言ったじゃん。約束の日、明日だよ。私だけで行っちゃうよ?新しい水着買ったんでしょ。夏祭りも花火大会もいつものところは、終わっちゃったけど、夏休み中にやってるところ見つけたから行こうよ。……だから、いつまでも寝てないで起きてよ。喧嘩したままは嫌だよ」

新井さんは、美香の手を握りながら、ともすれば消えてしまいそうな声で訴えた。握った手が握り返してくれることはなかった。

それでも新井さんは、美香の手を握り続けた。まるで願いを込めるかのように。

僕も反対側の手を握った。温かくて柔らかい彼女の手は、精巧な人形にでも触れているかのようで、確かな温もりはあるのに無反応で無機物めいていた。

看護師さんが病室に入ってくるまで、新井さんと僕は美香の手を握り続けた。一瞬だけでも些細な反応だけでも彼女がそこにいる実感が欲しかった。

しかし美香は、明日を待つかのように、あるいは死を待つかのように眠り続けていた。

 

 これから診察があるからと看護師さんに病室を追い出された僕たちは、病院の中庭に移動していた。木漏れ日の中、セミの羽音が鳴り響いていた。

 真夏日が続いているせいか、中庭には人がいなかった。春に美香と過ごした時には、人

がたくさんいたのに今は二人だけだ。

自動販売機でお茶を二本購入して、一本をベンチに座る新井さんに渡した。

 ありがとうと小さく呟いて、お茶を受け取った新井さんは、ペットボトルを両手で握りしめたまま俯いた。

 僕もベンチに座って、お茶を一口飲んだ。飲みなれたお茶のはずなのに味を感じなかった。

「高来君は、美香の病気のこと知ってたんだよね」

 新井さんは俯いたままペットボトルを強く握りしめていた。

「知ってたよ」

 僕は、新井さんを見て答えた。彼女と視線は交わらない。

「美香の病気のこともっと早く新井さんには、話すべきだったかもしれない。ごめん」

 新井さんには、見えていないだろうけど僕はその場で頭を下げた。

「…美香に口止めされてたって言わないんだね」

「口止めはされてたけど、別にそれは反故にしてもよかった。言わないと判断したのは、僕の意思だ。だから、ごめん」

「…ごめんか。…そっか」新井さんは、何かを確かめるように呟いた。

「どうして高来君だったの?病気のことを話した人が」

「偶然、この病院で会ったから」

 そう偶然だ。菅野美香と病院で出会ったことも、学校生活を見守るようになったことも、同じ病を抱えていることも、好きになったことも。

 全ては、単なる偶然でしかない。そこに小説のように運命じみたものなんてない。

 あの日、病院に居たのが他のクラスメイトだったら、きっとその人が僕の役目を務めていただろう。それだけの話だ。

「そっか。それは何だか悔しいな。私が一番の親友だと思っていたのにな」

 新井さんは今にも泣きだしそうな声をしていた。

「でも、それは美香が❘」

「そんなの分かってる!美香が私に心配を掛けたくなかったことなんて。あの子は、人にたくさん気を遣うくせに、嘘が下手くそだからすぐにわかるの。そんなところも大好きなのに、私じゃ美香を助けてあげられない。ただ、見ていることしかできない」

 新井さんの声は小さく萎んでいった。

 眠り姫症候群は、大切に思っている異性同士でないと目を覚ますことができない。

 そこに一度だって例外はなかった。

 そして、美香が大切に思っている人は、もうこの世に居ない人だ。

「僕も同じだ。見ていることしかできない」

 自然と口からこぼれた受け入れたくない現実。

「え?なにそれ?」

 新井さんが驚いたような顔を見せた。今日、初めて僕と視線が交わる。

 新井さんの目に映る僕は、ひどい顔をしているだろう。自分でも感情がどこにあるのか見当もつかない。

「美香には、好きな人がいて、その人はもうこの世にいないんだ。だから、僕も新井さんと同じで、見ていることしかできない」

 こんなこと言葉にしたくなかった。自分で口にしてしまったら、それが現実だと認識してしまう気がしたから。

「まだ、気にしてたんだ。真先輩のこと」

 やっぱり新井さんも知っていたのか。僕は黙って頷いた。

「そっか。忘れられるわけないよね。美香からどこまで聞いたかは、分からないけど美香は真先輩に告白をしたけど返事をもらえてないの。返事をもらう前に真先輩は交通事故で…。だから、今も忘れられないでいるんだと思う」

 川崎真の墓前で泣いていた美香のことを思い出した。

 彼女は、何度もお墓参り行っている様子だった。その度に返事をもらいに行っていたのだろう。その行為は、傍から見たら無意味な行為で、まるで死者に憑りつかれたようにも映っただろう。どう考えても気が触れたとしか思われない。でも、彼女はそれに縋ってしまった。だが、死者はなにも応えてくれない。だから、彼女はずっと墓前で泣き続ける。きっとそれは夢の中でも。

 僕も同じだった。いなくなったお母さんの影に縋って生きてきた。夕暮れ時に両親と子供が、手を繋いで帰るような仲睦まじい家族をバスの小さな窓から眺めては、目を逸らした。ある種の幸せと呼べるその光景を恨みの対象としてしか見れなくなっていた。失わずに済んだその光景が、なにより苦しかった。

 でも、そんな光景を美香が変えてくれた。苦しいと思った光景にも、ほんの数分だけだが美しい景色があると教えてくれた。その一つで世界がぐるっと変わってしまうような景色があること知った。恨みの象徴だった夕暮れを待ち遠しいとさえ思えてしまうほどに。

「ごめん。新井さん。用事が出来た」僕はベンチから勢い立ち上がる。

「え?急になに?」

 新井さんが戸惑って、握っていたペットボトルを地面に落とした。

 僕はそれを気にせず、駆けだした。状況の分かっていない新井さんを置いていくのは、申し訳ないが、話しをする時間も惜しかった。

 今から、夕方には間に合うだろう。でもその前に話しておきたい人がいる。

 病院内に戻って、その人がいるであろう場所へと向かう。

 相変わらず、扉は壊れたままだ。いつまで経っても直してもらえないらしい。

 ノックもせず、僕はその部屋に入った。

 斉山先生は、なにやら資料をまとめていたらしく、突然の入室者に驚いていた。

「高来君⁉そんなに慌ててどうかしました?」

「さ、斉山先生に教えて頂きたいことがあるんです」

 呼吸を整えながら、僕は言う。

 これから、僕のやることは何の意味もないことかもしれない。美香の病気を治療することが僕にはできない。でも、彼女が僕にしてくれたこと返したいとそう心から思った。

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