第18話

その後の話は、あまり詳しくは覚えていない。斉山先生曰く、女性の罹患する眠り姫症候群と男性のそれとは、真逆の症状になるではないかとのことだった。僕が最近、眠ることが難しくなっていたのも症状の一種である可能性が高いようだった。だが、眠れない症状に関しては、睡眠薬を使うことで上手く対応できるらしい。

「高来君の眠り姫症候群の症状がいつまで続くかわかりませんが、女性が罹るものと同じと考えるのであれば、同様に十八歳になる頃には、症状は自然と消えているでしょう」

 十八歳。つまりは約一年の間、異性とキスをしなければ死ぬことはない。でもそれは……。

「あの…」

「言いたいことは分かります」

 開きかけた口を斉山先生が静止する。

「お二人の主治医として、私はどちらの命も助けたいのです。ですから、高来君は、菅野さんにキスをしないで下さい」

 始めに斉山先生が僕の気持ちを確認したのは、このためだった。僕が美香にキスをすれば、美香の命は助かるかもしれない。その場合、僕は死ぬ。最悪の場合、美香が僕に何の感情も抱いていないとするとキスをした僕は、もちろん美香も衰弱して死ぬことになる。

いつだか斉山先生は、眠り姫症候群を残酷な病気だと言っていた。愛情という感情を死という形で表面化させてしまうと。まさにその通りだった。美香が助かる助からないにせよ、僕の感情は死という形で表面化する。美香を救えるのならいいが、そうじゃない場合は残酷だ。

「私が何とかして、菅野さんを助ける治療法を見つけてみせますから」

 斉山先生は、強く言うがそれが難しいことを高校生である僕も分かっている。眠り姫症候群という病気の名が知れてから、数年。いまだに有効な治療法は、両想いの異性によるキスだけだ。それ以外に方法はない。それは斉山先生も重々承知の上だ。それでも僕のために言ってくれている。だが、今はそんな善意も素直に受け取ることが難しかった。

 膝の上で強く拳を握る。自分の弱さが憎かった。

「君が辛いのは、分かります。でも今は、耐えてください」

耐える?耐えるって何だ。

耐えて耐えて耐えて耐えた先に何があるんだ?

美香の死んだ世界か?

そんな世界で、僕は生きていけるのか?

僕は椅子から勢いよく立ち上がった。キャスターのついた椅子は、勢いのまま滑っていき、壁にぶつかり大きな音を立てて止まる。音を聞きつけた看護師が「大丈夫ですか⁉︎」と診察室に飛び込んできた。

「すいません。ちょっと一人になりたいです」そう言って、斉山先生の返事も聞かず、看護師の横をすり抜けて僕は、診察室を飛び出した。


 待合室のソファに座りながら、頭の中を整理していた。斉山先生は、僕の意思を汲んでくれたのか追いかけては来なかった。

 自分の眠り姫症候群の症状。美香とキスをすると死ぬ未来。そして、美香の発症と彼女が死ぬ未来。

 それぞれが頭の中で混ざり合って、今できる僕が考えうる限り最善の答えを導き出す。

 徐ろに立ち上がり、歩みを進める。診察室を通り過ぎて、そのまま美香の病室へと向かった。

 病室の前に立ち、扉をノックする。中から「どうぞ」と返ってきたので扉を開けて中に入った。病室には、ベッドに腰掛けた美香だけがいた。新井さんの姿はなかった。

「新井さんは?」僕は、至って冷静な口ぶりで声をかけた。

「怒って、出て行っちゃった」悲しそうに呟きながら、美香はベッドに横になった。

「そっか」

「私が黙ってたのがいけないんだし、しょうがないよね。嫌われちゃったな」

「そんなことない。今は頭に血が上って、冷静じゃないだけだ。新井さんは美香のことを大切に思っているから、大丈夫だよ」

 ベッドの横にある椅子に座って、美香に声をかける。

「うん。ありがとう」

 美香の声は、弱々しく雨音にかき消されてしまうほどだった。

 珍しく、弱っている。それも無理ないだろう。彼女も僕と同じで、いっぺんに自身の世界が変わってしまったのだから。昨日まで当然だった生き方や他者との関係性が、こんなにも簡単に変わってしまうなんて、普通に生きていたら知ることはない。

 今の彼女と話すべきか迷った。自分の世界のバランスを時間をかけて、取り戻そうとしている彼女の邪魔をしてよいものなのか悩んだ。

「どうしたの?」逡巡している僕の顔を覗き込むように美香が尋ねる。

 いや、今は迷っていられない。現実と向き合わなければならないのだ。

 意を決して、口を開く。

「僕は、美香のことが好きだ」

 美香の目を見つめて伝えた。思った以上に声が震えてしまった。美香にしっかりと届いたか不安になる。

 自分の気持ちを伝えて、美香の気持ちを確認する。それが今できる僕の最善策だった。

 美香は、目を逸らすように顔を伏せた。

 表情が見えず、不安に駆られる。

美香の口元が微かに動いた。何かを小さく呟いたようだった。心臓がうるさくて、美香が何を言ったかは、聞こえなかった。

「え?」

「…私、ずっと好きな人がいるの」美香は顔を伏せたままで続ける。

「ずっと憧れてた人で、ずっと片想いしてる人」

「それって」美香が憧れている人、心当たりが一人だけいる。もし本当にそうだとしたら、僕には、もうどうすることもできない。どう足掻いても死者には敵わない。そして、死者では美香は救えない。

「川崎真…?」

 美香は、黙って頷いた。

何も言葉がでなかった。

胸中を支配するのは、美香に思いが届かなかった悲しみや切なさではなく、絶望だった。美香が川崎真を好きである限り、彼女の気持ちが川崎真に向いている限り、僕では、彼女を助けることができない。心の中で川崎真のことを恨んだ。

「…ごめんね」

 顔を上げた美香が悲しそうな顔で僕を見つめる。その目には、涙が溜まっていた。

 苦しそうな涙だった。

 美香は涙を隠すように手で顔を覆ってさめざめと泣いた。

 僕は、美香の苦しみを少しでも取り払ってあげようと彼女の手を握ろうとした。それは、彼女が安心すると言っていたことだったから。

だが、美香に触れる直前に僕は、手を引っ込めた。

 今、彼女に触れたら、どうにかなってしまいそうな気がしたからだ。

 彼女の気持ちなんて気にせず、そのまま唇を奪って、僕だけが死ぬ。

 そんな自分勝手で、自暴自棄なことをしそうになった。

 今の僕では、美香を助けることは、おろか傷つけることしかできない。

 無力な僕は、美香が泣いているのをただ黙って、見守っているしかなかった。


 美香のお母さんが病室に戻ってきたタイミングで、僕は美香の病室を後にした。  

 美香のお母さんが病室にくる頃には、美香は泣き止んでいたが、僕たちは一言も会話を重ねなかった。だから、美香のお母さんが病室に来た際に、僕は逃げるように病室を飛び出した。

 病院の出口へと向かう途中、看護師に「後日、父と来ます」と斉山先生に伝言をお願いした。些か失礼な対応だが、今は一刻も早く病院の外に出たかった。病院の中と外で世界が変わるわけでもないのに、美香が死んでしまう世界から逃げたかった。

 土砂降りの中、傘も差さず家路についた。

 家に着いた頃には、全身がずぶ濡れになっていた。服が肌にまとわりついて気持ちが悪かったから、脱衣所に脱ぎ捨て、部屋着に着替えベッドに横になった。

 眠気は、いつまで経ってもやって来なかった。

 一時間、二時間と時間は過ぎていく。目を開けていても瞑っていても時間は、平等に残酷に流れていった。

 眠れない夜はいつだって、不安が過ぎる。漠然としたどうしようもない、考えたところで何も解決できないそんな不安だ。そんな時はいつだって、美香のことを考えていた。この部屋で僕の世界を変えてくれた美香のことを。

 気づくと朝になっていた。

 いつの間にか眠っていたらしい。全身が気怠く、体が重かった。室温は高いはずなのに寒気を感じ、風邪を引いたのだとすぐに分かった。昨日、ずぶ濡れで帰ってきたまま寝てしまったのだから無理もない。

 しばらく横になっているとお腹が飯を食えと訴えてきた。そういえば、昨日の昼から何も食べいないことを思い出した。

 重たい体を動かして、キッチンに向かった。手頃に食べられるものがないか冷蔵庫を漁るが痛んでダメになった野菜しかなかった。お腹の主張は、今だ収まらない。冷蔵庫以外にも何かないか探すと、ダイニングテーブルに未開封の食パンが鎮座していた。それを手に取って、そのまま齧る。六枚切りの何も味付けしていない食パンを二枚食べた。

 残りの食パンをダイニングテーブルに残したままコップ一杯の水を飲んで、ベッドに再び横になる。

 どんなに辛くて苦しい状況でも日常は続いていく。望んでもいないのに日は暮れるし、日はまた昇る。日を追うごとに美香は死に近づき、僕は死から遠ざかっていく。同じ病を持つ同胞なのにその重さはまるで違う。

この世界は、僕が思っている以上に残酷だった。

命の価値は平等というが、ならどうして同じ病を患った僕たちの命の価値は、こうも違うのだろうか。

もしも命の価値が平等でないなら、僕よりも美香が生きるべきだ。そう思っている。

でも、僕の命を懸けても美香を救うことはできない。

美香のいない世界で生きていけるのだろうか。大切な人を失った世界は、空っぽで虚しい。お母さんがいなくなった日、幼いながらにそのことを強く感じていた。

だから、美香の気持ちも痛いほど理解できた。失ってしまったからこそ、より大切だと思ってしまう。自ら手放したものではないからこそ大切に想い続けた気持ちは、色褪せることなく輝き続ける。

それはきっと呪いのようなものだ。過去に自らを縛りつける呪い。

それを分かっているのに僕らは、その呪いから抜け出せない。過去は明るく見え、未来は暗く見えて不安だから、いつだって過去に目を向けてしまう。

美香が死んだら、美香と過ごした過去に縋って、僕は生きるだろう。未来に目を向けず、無為で味気のない日常を送るのだろう。

冷蔵庫に忘れ去られた野菜のように気づいた頃には腐っているそんな日常を。

 

 風邪が回復したので、父さんと二人で病院に来ていた。

 もちろん僕の病気について斉山先生と話すためだ。

 僕が父さんに病気の話をした時、あまり信じていないようにも見えた。

しかし、斉山先生と話し始めると現実感を帯びてきたのか神妙な面持ちで話を聞いていたり、質問をしていた。

 父さんは父さんで、僕が病気であることを受け止めきれていなかったのだと知った。

「智。悪いが、先生と二人で話をさせてくれないか」

 父さんが低い声で言う。その声にいつもの圧は感じなかった。むしろ動揺が感じ取れた。

いつも冷静で淡白で僕には無関心な人だと思っていた。

でも、それは僕の勘違いだった。いつの間にかそういう人だというフィルター越しに見ていたのだと、今更ながら知ることができた。思い返せば、幼い僕に何かがあった時に、いつだって真っ先に駆けつけてくれたのは父さんだった。

僕は、斉山先生を見遣る。

当人を除いてどんな話をする必要があるのかわからなかったが、大人同士の大切な話なのだろう。子供の前では、どうしてもできない話が一つや二つはあるだろう。

斉山先生は、黙って頷いた。口には出していないが、大丈夫ですよと言われた気がした。

「分かった」

 父さんにそう告げると僕は、診察室を退室した。

 待合室で時間を潰そうと思ったが、足は自然と美香の病室へと向かっていた。

 病室の扉の前に着くと、どうしてここに来たのかと後悔に駆られた。逃げるように帰ったあの日以降、連絡も取り合っていなければ会いにも来ていない。

 扉の前で立ち尽くす僕を他の入院患者や看護師が変な目で見てくる。ここで引き返したら、不審者だ。

 扉をノックしようと上げた手が、小さく震えた。落ち着けるために一度、深く息を吸う。吐き出した息に合わせてノックしようとした時に突然声を掛けられた。

 手は扉に当たる寸前で止まった。

 声を掛けてきたのは、以前、斉山先生に伝言をお願いした看護師さんだった。

「菅野さんは、今お眠りになられてますよ」

「…そうですか」

「この時間は、大体眠っていますよ。夕方頃ならお目覚めになっていると思いますよ」

 看護師はそれだけ告げると業務に戻っていた。

 一度決めた覚悟は、すっかりと萎んでしまった。話せないなら仕方がない。そう自分に言い訳をして、扉から離れた。

 待合室のベンチで五分ほど待っていたら、父さんが診察室から戻ってきた。話は滞りなく、終わったようだ。

「帰ろうか」父さんが優しく声を掛けてくれた。

 僕は、黙って頷き、父さんの後ろをついて、病院の外に出た。

 帰り際、振り返って美香の病室のあたりを見上げる。

 人の姿は見えず、レースカーテンだけが風に煽られ揺れていた。

 

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