第17話

 顧問の先生が救急車を呼んで、美香はすぐに大学病院に搬送された。美香と僕が出会い、僕が通っている病院だ。美香のお母さんは、美香と一緒に救急車に乗って病院へと向かった。僕と新井さんは電車を乗り継いで病院へと向かった。電車の中で新井さんは、祈るように美香の無事を案じていた。僕は、黙って電車に揺られていた。

 病院に着くと美香のお母さんが待合室で看護師と話をしていた。僕たちは近くまで行き、話が終わるのを待った。

 しばらくして、話を終えた美香のお母さんがこちらにやってきた。どこか暗く不安げだ。

「おばさん。美香は?」新井さんが心配そうに問う。

「大丈夫よ椎奈ちゃん。もう少ししたら目を覚ますそうよ」娘の友人を心配させまいと無理に先程の表情とは打って変わって、笑って見せているのがわかった。

「……そうですか」新井さんもそれには気づいているようで、それ以上は口を開かなかった。

「高来君もありがとう。わざわざ来てくれて」

「いえ、僕は……」

 僕は何もできなかった。こうなることを避けることができたかもしれないのに。何も。

「菅野さんこちらに」

 看護師が美香のお母さんを呼んだ。

「ごめんなさい。呼ばれたから行ってくるわ」美香のお母さんは、僕たちに目配せをした。暗にこのあとどうするのか聞いているようだ。

「あの、美香と話せるまで待って居てもいいですか?」

 新井さんが心配そうな声で言う。

「ええ。その方があの子も喜ぶわ」

 美香のお母さんは笑顔を向けると看護師に誘導され、診察室に入っていた。

 新井さんは、親に連絡してくると言って一度病院の外へと出ていった。

 僕は一人で待合室のベンチに座った。スマホを取り出して、一応僕も父親へ連絡をしておく。帰りが遅くなるかもしれない旨を簡単にメッセージしておいた。

 待合室は、午後の受付時間がそろそろ終わるようで人はまばらだった。春には、桜が満開だった桜の木はすっかり緑色に染まっている。

 父親から分かったと一言だけメッセージが来ていたことを確認したところで新井さんが戻ってきた。

「隣いい?」

「どうぞ」

 僕の隣に座った新井さんは、いつもと違う雰囲気だった。

「美香、大丈夫だよね」まるで自分に言い聞かせるように新井さんは呟いた。弱々しく縋るような声だった。

「きっと大丈夫」

 僕は空っぽの言葉を吐き出した。

新井さんだって分かっているその言葉に意味がないことを。だから、その後は何も話さず、美香のお母さんが戻ってくるの待った。


三十分後、美香のお母さんが診察室から出てきた。隣には、斉山先生が一緒だった。斉山先生は、僕のこと見て驚いた顔を見せたがすぐに美香のお母さんへと向き直った。

「それでは菅野さん。一度お戻りになられてから入院のことについて、看護師から詳しくご説明がさせて頂きます」

「わかりました。ありがとうございます。娘をよろしくお願いします」

 美香のお母さんは斉山先生に深くお辞儀をした。斉山先生も頭を下げ、診察室に戻って行った。

 僕たちは、美香のお母さんの元へと駆け寄った。

「おばさん。今の話……」

「椎奈ちゃん。聞こえてたのね。そうなの美香、しばらく入院することになったのよ」

「入院って。どこか悪いんですか?」

 新井さんが不安そうな顔で美香のお母さんに近づく。

 美香のお母さんは、困惑した表情を浮かべる。話すべきか迷っているようだ。当然、美香から話さないように言われているだろう。それに言葉にしてしまうとそれが現実だと認めてしまって辛くなってしまう。

「新井さん。一旦落ち着こう。美香のお母さんも困っているから」

 僕の言葉に新井さんはハッとして美香のお母さんから一歩離れた。

「ごめんなさい。私……」

「いいのよ。私は入院の用意のために一度、家に帰るわ。二人は美香に会ってあげて、薬を打ってもらって目を覚ましたみたいだから」

 その言葉を聞いて、僕は心から安堵する。とりあえず今回は薬の力で目を覚ましたみたいでよかった。

 新井さんも安心の表情を浮かべる。

「はい」僕たちは、力強く答えて美香のお母さんを見送った。

 看護師さんに教えてもらい美香の病室へと向かった。扉の前に立って、落ち着くために深呼吸して呼吸を整える。新井さんも同様に深呼吸していた。

 新井さんと目を合わせて互いに落ち着いたことを確認して、扉を三度ノックした。

「どうぞ」美香の弱い声が返ってきた。

 僕は扉を開けて、病室に入った。

 白い壁と天井、白いカーテンで殺風景な個室の病室だった。真っ白なベッドで美香は、下半身にだけ布団をかけ上半身を起こしていた。ピンクの病衣を着ていた。

「椎奈、高来君」先程より、美香の声に元気が戻っていた。

「美香、大丈夫?」新井さんがベッドの横にある椅子に座り、心配そうな声をかける。僕は新井さんの横に立った。

「大丈夫!倒れた時にぶつけちゃって、左腕が打撲みたいになってるから少し痛むけど」

 いててと小さく言いながら、おどけたように美香は笑った。無理していることは、明らかだった。美香が明るく振る舞えば振る舞うほど病室は暗く沈んでいった。

「……ふざけないでよ」

 新井さんの小さく震える声がはっきりと聞こえた。

「椎奈?」

「ふざけないでよ!」新井さんが叫んだ。

 新井さんの声に美香の肩が大きく跳ねた。

「倒れたのよ。テニス部の子達や先生は、熱中症だって言ってたけどそんな風には見えなかった。それに前から何かをずっと隠してた。私には、言えないこと?私たち親友じゃないの?」

 新井さんは、美香に縋るように言った。瞳には涙が浮かんでいる。色々な感情がないまぜになった声と涙。それは怒りや悲しみ、苦しみ。親友なのに何も知らなかった悔しさ。僕と美香が、嘘をつき続けたことによって見えていないことにしていた新井さんの気持ちだ。

「……ごめん椎奈」美香は俯きながら答えた。

「ごめんじゃない。そんなことを聞きたいんじゃない」

 新井さんは、大きく首を振った。

「そうだよね。……高来君、悪いんだけど椎奈と二人にさせてくれないかな」

 美香は、話す決心をしたようだ。元々は、親友に心配させまいとついていた嘘だ。倒れて、病院に搬送されて心配しないでほしいは無理がある。それにこれ以上は、ただ無意味に新井さんを傷つけるだけになってしまう。

「分かった」

「ありがとう」

 不安そうだが、僕の目をしっかりと見据えて美香は言った。

二人きりにさせるのはいささか不安だったが、僕が一緒にいることを美香は頑とし認めないだろう。それに新井さんに嘘をついたのは、美香だけじゃない。僕もだ。後で僕も新井さんに謝ろう。その時に何発でも殴られてやろう。だから、今は美香の番だ。

僕は美香の病室を出て、待合室へと向かう。待合室には誰もいなかった。時刻はすっかり夕方になり、病院の受付も診察も終わっているようだ。時計を見て、以前に美香が好きだと話していたマジックアワーの時間が近いことを思い出した。桜の見える窓に近づいて外の景色を見た。そこには、その日の終わりを告げるような景色は広がっておらず、ただ鈍色の重たい雲が空を支配していた。


 待合室のソファに座って、美香と新井さんの話が終わるのを待っていた。その間、僕はずっと後悔していた。美香には、病気を治すと宣言しておいて、何もできずにただ見ていることしかできなかった自分を呪った。あの頃から何も変わっていない。大切な人がいなくなるのを黙って見ていることしかできない。そんな自分に嫌気が差していた。

 俯いてリノリウムの床を見つめる。光沢を持った無機質なグニャリと歪んで見えた。目頭が熱くなって、目元を抑える。こぼれ落ちそうになる感情をなんとか押し留めた。泣いている場合ではない。

「高来君」

 目を擦っていると頭上から優しい男性の声が聞こえた。

 僕は、頭を上げて声の主と目を合わせる。

「少し時間いいですか」

 斉山先生は、僕に優しく微笑んだ。


 診察室に入ると斉山先生は、僕に座るよう促し、そして水で濡らしたハンカチを差し出した。

「目を冷やした方がいいですよ。赤くなってしまいます」

 言われた通り渡されたハンカチを目にあてがう。

「正直、驚きました。同じ学校というのは、患者さんの個人情報は把握しているので知っていましたが、まさか高来君と菅野さんがお知り合いだと思いませんでした」

「クラスメイトです」 

ハンカチで軽く目を押さえながら答えた。

「そうでしたか」

 斉山先生は、話を広げる訳でもなく独り言のように呟いた。こんなことを話しするために、わざわざ声を掛けたわけではないことは僕にも分かっている。

「それで何かお話があるんじゃ…」

 だから、生意気かもしれないが、話を促した。

「ええ。本当は、次回の診察の際に親御さんと一緒に来て頂いて、お話をさせて頂くつもりでした。ですが、高来君が菅野さんとお知り合いということを知ってしまった以上、高来君だけにも早めに伝えておこうと」

 僕と美香が知り合いだったから、早めに伝えなければならないこと?

「お話しさせて頂く前に一つだけ確認をさせて頂きたいのですが、高来君は菅野さんのことが好きですか?」

 突拍子のない質問に驚いて、ハンカチが膝の上に落ちた。一瞬ふざけているのかと思ったが、斉山先生は真剣な眼差しで僕の答えを待っていた。

 だから、僕も真剣な気持ちで返した。

「僕は菅野さん。いえ、美香のことが好きです」

 目を逸らさずにはっきりと。

「わかりました。年頃の子に聞く質問ではないのですが、重要なことでしたので。恥ずかしい思いをさせたかもしれませんね」

 斉山先生は優しく微笑む。

「今から私がお伝えすることは、一部憶測の域を出ない話です。ですが、私はこのことが事実であると思っています。だから、君と菅野さんがお知り合いだと知って、高来君の気持ちを確かめさせて頂きました。その結果、やはり今すぐに君に伝えるべきと判断しました」

 斉山先生の口調はいつもより、重く真剣なものだった。

 僕はとある病気を患っている。その病気は、症状も治療法もわかっている。だが、その全てが僕には一切該当しない。世界的に見ても稀有な病例。

「これから君の眠り姫症候群の話をします」

 そう僕も眠り姫症候群の罹患者だ。


 眠り姫症候群は、一般的には女性のみが罹患する病だった。それが、普通で常識だった。僕自身ももちろんそうだと思っていた。健康診断の再検査を受けるあの日までは。再検査がこの大学病院だったのも眠り姫症候群の研究をしている斉山先生がいたからだ。

 斉山先生の知る限りでは、男性の眠り姫症候群だと正式に判明した患者は唯一、僕だけだった。だから、症状や病気の進行の仕方など女性の患う眠り姫症候群とどう違うかが不明であり、斉山先生はそのことをずっと調べていた。そして、その答えを見つけたようだった。

 斉山先生は、デスクから一枚の紙を取り出して僕に渡した。ネットニュースの記事をプリントアウトしたものだった。

「こちらのニュースをご存知ですか?」

 斉山先生は、記事のタイトルの部分を指差す。

『ホームパーティ後に学生が謎の死。毒殺か⁉︎』

 それは以前、美香に教えてもらって調べた記事だった。

「はい。事件が発覚して、ニュースになってからすぐの頃に見ました」

「そうですか。そしたら詳細については省きますね。私はこの亡くなられてしまった学生が、君と同じで眠り姫症候群だったのではないかと考えています。」

 そう言われて、改めて記事を読み返す。病死を疑うような内容は一切書かれておらず、ホームパーティ中になんらかの毒物を摂取した可能性について触れていた。一つ気になることがあるとしたら、第一発見者の彼の母親の証言だ。

『息子は苦しんでいるような様子はなく、安らかに眠っていた。その表情は、幸せそうな顔をしていた』

 映画やドラマで見たことのある毒物で死ぬ人は、とても幸せな表情で死んでいるとは思えなかった。例えそれが演出で、現実とは違うとしても毒物で安らかに死んでいく様子は想像ができない。

「ええ。私もそこが気になりました」

 僕が注視して見ているところに気づいた斉山先生が続ける。

「なので、アメリカにいる同業者の知り合いにコンタクトをとり、少しばかり調査をして頂きました。亡くなる前に彼が、どのような行動をしたのかを調べてもらいました」

「行動ですか?」

「はい。そこに彼の死に関するヒントがあると思ったからです。本来であれば血液のサンプルなどを調べることが出来たら良かったのですが。すでに埋葬を済ました後だったようでして、流石にお墓を暴くわけにいきませんから」

 斉山先生は手帳を取り出してパラパラとページを捲り、該当のページを見つけたのか手を止めた。

「彼が参加したホームパーティは、彼の恋人の自宅で行われたものみたいです。そこで彼はハンバーガーやピザ、コーラなどを飲食していたようです。それらは市販のもので、他の参加者も同様のものを口にしていて、毒物などが含まれていないことは、地元警察が確認済です。ここから毒物によって、亡くなった訳ではないと判明しました」

 斉山先生は、時おり手帳を確認しながら続ける。

「ホームパーティ中、特筆すべきことは何も起こらなかったみたいです。普通にパーティを楽しんだ後、帰宅して翌朝にはベッドの中で亡くなっていた」

 話を聞く限りでは、不審なところなどないように思えた。一見してみれば心臓麻痺などの突然死だと思えてしまう。眠り姫症候群とは、いまいち結びつかない。

「亡くなられた方の行動に不審な点は、ないと思うのですが……」

「そうですね。彼もホームパーティに参加していた彼の友人も恋人にとってもその行動は、全く不審な行動ではなく、至極当たり前だったから誰もその行動が不審だと思わなかった。そこは、日本の文化との違いなのでしょう。私も最初はその可能性に気づくことが出来ませんでした。ただ、眠るように亡くなっていた彼と唯一眠り姫症候と正式に診断された君の姿が重なった時に、それらが結びついたのです」

 恋人とのホームパーティの後、眠るように亡くなった男の子。男性でも罹患するとわかった眠り姫症候群。日本と外国の文化の違い。

斉山先生のデスク上に「眠り姫」の小説が置いてあった。深緑の森に眠る女子高生。死の眠りにつく彼女を目覚めさせることができるのは……。

僕にも答えが分かった。

覚悟を決めて、斉山先生の言葉を待った。

「男性の罹患する眠り姫症候群は、大切に思っている異性とキスをすると罹患者は、その後亡くなってしまいます」

 背筋が冷たくなり、頭が空っぽになったように何も考えられなくなった。そこに拳一つ分空いた診察室の扉の隙間から、激しい雨音が響いた。

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