第16話
美香のことが好きだ。いつだか決心して蓋をしていた感情は、あっけなく溢れ出した。その気持ちを自覚してから、まるで異世界に迷い込んだように僕の見ている世界の様相は変わっていた。
通学路の途中にある手入れしていない蜘蛛の巣が張った信号機や乗り捨てられて錆びついた自転車、文字が掠れて役目を忘れた道路標。目も向けたことのない僕の人生において、何の影響の与えないようなものもなんだか特別なものように思えた。
変わって見えた世界に順応していくうちに数週間が過ぎて気付けば期末試験も終わり、夏休みになっていた。
僕は完全に浮かれていた。それはもう澄み渡る夏の青空へ鳥と一緒に飛んで行ってしまいそうなほどに。変わって見えた世界の優しさと美しさ心地よさに酔っていた。
だから、僕は、気付いていなかった。いや、本当は気付いていたのに気付いていないふりをしていただけかもしれない。様相の変わった僕の世界は、鈍色のフィルター越しに見ていた世界を、ただ色鮮やかなフィルターに変えただけということに。
だが、もう手遅れだ。
世界は、依然として理不尽で残酷にできている。
浮かれた先の着地点など、もうどこにもないのだ。
毎年、夏休みは何も予定がなく何もせず怠惰に過ぎていくのだが、今年は少しばかり違っていた。
約三週間の夏休みに一件だけ予定が入っていた。
夏休みに入ってから一週間後の土曜日。美香のテニス大会の日だ。
期末試験の結果次第では、出場も危うかったが、なんとか赤点を回避し無事に出場することが決まった。出場が決まったその日に美香から大会を見に来てほしいを誘われ、二つ返事で了承した。
浮かれ切っていた僕は、すぐさまカレンダーアプリにリマインダーで大会の会場場所で運動公園の名前とそこまでのルート、大会の開始時刻が当日の早朝に通知されるように設定した。恋は盲目とはよく言ったもので、僕のリマインダーへの登録たるや僕の人生において最も素早い判断と行動だったと認めざるをえない。
そして大会前日の夜。寝坊してはいけないと早めに就寝することにした。夏休みに入ってからというもの寝つきが悪くなり、眠りの浅い日が続いていた。体調に大きな変化がないので、熱帯夜で寝苦しいだけだとあまり気にしていないが、明日は一日中、外に居ることを考えると長めに睡眠時間を取っておいた方が良いだろう。
就寝しようとベッドで横になったところで、メッセージアプリの通知が響いた。僕のスマホに連絡してくるのは、この世で二人しかいない。一人は、今リビングで食事をしているので、もう一人の明日に向けて緊張している方だと思い、スマホを開くと見知らぬアイコンと名前が表示されていた。
アイコンで使われている画像には、女性が数人写っており、誰がメッセージの送り主かは判別ができない。名前もあだ名で誰なのか分からなかった。肝心のメッセージの内容を確認してみた。
≪明日、九時半に運動公園前に集合ね≫
それだけしか書いておらず、送信相手を間違ったとしか思えず、なんの嫌がらせかと思ったが、本当に間違いだとしたらこの謎の人物が本来送るはずだった相手と待ち合わせが出来なくなってしまうと思い、
≪誰ですか?送る相手を間違っていませんか?≫
とできる限り丁寧な内容で返信をした。
相手からの返信はすぐに届いた。
≪は?間違ってないわよ。とりあえず入り口の辺りで待ってるから遅れたら許さないわよ≫
僕の送った質問にほぼ答えていない返信だったが、内容からして誰だか察したので、分かりましたと淡泊な返事だけして、スマホを閉じた。
翌日、晴天とは言えないが、雲も少なく湿度が高くじめっとした夏日だった。夜には、雨が降る予報みたいだが、大会中に降られることはないだろうと安堵する。
大会の会場である県営の総合運動公園までは、僕の住んでいる地域の駅から二駅行ったさきのさらに十分ほど歩いたところにある。
定時通りにホームに到着した電車に乗り込む。土曜日だというのに電車の利用者は少なく、ドアに一番近い席に座った。運動公園の最寄り駅までは、大体十五分かかる。手持ち無沙汰になるのはわかっていたので、ショルダーバッグから文庫本を取り出して読んだ。だが、集中して読むことができず、すぐにバッグに戻した。昨晩もあまり眠れなかったせいだろう。昨晩も熱帯夜だった。今までは、熱帯夜だからと言って、寝つきが悪くなることはなかったが、これも気温が上がっている影響なのだろうか。そんなことを思いながら、申し訳程度に冷房の効いた車内で、ガタゴトと揺れる電車の心地よさに身を委ねて目を瞑った。電車の揺れが眠りやすいと聞いたことがあった。それは本当のようで、短い時間だが眠ることができた。そのせいで運動公園の最寄り駅に着いたとき、慌てて降りる羽目になった。
指定された運動公園の入り口には、集合時間ちょうどに着くことができた。公園の入り口にある門柱に背中を預けて退屈そうにスマホをいじるTシャツにショートパンツ、コンバースのスニーカーを履いた女の子を見つけた。僕はその子にゆっくりと近づいていった。
僕の気配を感じ取った女の子は、スマホから目を離して、こちらを睨むように見つめた。他人から見たらナンパしようとした女の子に睨まれている情けない男の構図に見えているかもしれない。事実、周囲の大人たちが冷ややかな目で見てくる。
なんとも居たたまれない気持ちになり、足早に女の子に向かっていく。
「遅い!」昨夜の連絡の主、新井椎奈は開口一番、怒りを露わにした。
「いや、時間通りじゃん」運動公園のシンボルのような大きさ時計塔を指差して、抗議の意を示す。
「五分前行動って知らないの?常識でしょ。ほら、行くわよ」
新井さんは、一瞬だけ時計を見ると鼻を鳴らして、公園に入って行った。相変わらず敵意むき出しだ。そんななら待ち合わせなんかしなければいいのに。それを言ったところで、目的地は同じで、別々に行く意味もないので新井さんを追いかけた。
総合運動公園内には、テニスコートの他にも陸上競技場、野球場、プールなどが備わっている。僕たちが目指すテニスコートは集合した入り口とは、正反対の位置にあるので、少々、歩く必要があった。今日は、テニス以外にも大会があるようで、いろいろな方向から気合の入った掛け声や声援が聞こえてきた。まるで青春を体現したかのような場所だなと思いながら新井さんに着いていった。
陸上競技場と野球場を過ぎると声援も小さくなっていった。テニスコートまであと少しのところで新井さんがあらぬ方向へと歩いて行った。
「ちょっと待って」
それまで一言も新井さんと話していなかったが、思わず引き留めた。
「何よ」不機嫌そうに新井さんは振り返った。
「テニスコートはこっち」僕は、テニスコートのある方面を指差した。新井さんが向かおうとしていた方とは真逆の方向だ。
「分かってるわよ」新井さんは、不機嫌なまま僕の指差した方へ向き直る。
どうして、新井さんが敵視している僕と待ち合わせをしたのかなんとなく分かった気がした。もしかして
「方向音痴」
僕のつぶやきが聞こえたのか新井さんが、僕を睨みつける。
「違うから」
「ごめん。やっぱりこっちかも」と先ほど新井さんが向かおうとしていた方向を指差す。
新井さんは何も言わずにそちらに向き直る。その光景が面白かった。
「ごめん。嘘です」そう言って、僕は最初に指差した正しい方向に進んだ。
「性格悪いわよ」追いついてきた新井さんが恨めしそうに言う。
「お互い様でしょ」と返した。
左肩を思いっきりぶん殴られた。
何度か分かれ道で新井さんとあっちだこっちだやっているうちにテニスコートのあるエリアに着くことができた。美香に事前に伝えていた時間よりも少しばかり遅れての到着となった。
テニスコートエリアの中央に大会の事務本部にもなっている二階建ての管理棟があり、そこで美香と待ち合わせになっている。管理棟向かうとテニスラケットを持った何人もの選手が出ては入りを繰り返していた。女子テニスの大会なので、もちろん女子ばかりだ。顧問の先生や保護者の男性の姿はあったが、同年代の男子の姿はどこにも見当たらなかった。今更ながら場違いなところに来たのではないかと思ってしまう。管理棟の入り口には、青色のテニス選手がよく持っているような大きいラケットバッグを背負い、白のテニスウェアに身を包んだ美香が待っていた。白のテニスウェアが小麦色に日焼けした美香の肌をより強調していた。
僕たちの姿を見つけた美香が、人をかき分けながらこちらに走ってきた。
「無事に着いてよかった」美香が笑顔で僕たちを迎えた。ただ、緊張からかいつもよりも笑顔が固く見える。
「ちょっと遅かったから心配しちゃった。ここ遠いから来るの大変だったよね」
「遅くなちゃってごめんね。全然、遠くなかったわよ」
遅くなったのは、距離よりも新井さんが方向音痴なことが主な原因だ。そのことを言おうと僕が口を開こうとした瞬間、新井さんに睨まれた。
余計なこと言うなという視線だ。方向音痴であることは、美香には内緒らしい。ほんの数ヶ月の付き合いしかない僕が気づいたんだ美香はすでに知っていると思う。いや、美香のことだから気づいていないかも。
僕は先ほど殴られた左肩をさすりながら、口を紡ぐことにした。これ以上、殴られるのはごめんだ。
「高来君どうかした?」美香が心配そうに尋ねる。
「なんでもない」
新井さんの方を見るとなによと言いたげな目で僕を見ていた。
「三十五番と三十六番の選手は、管理棟にお越しください」テニスコート全体にアナウンスが鳴り響いた。
「あ、私呼ばれた」アナウンスの声に美香が反応する。もう試合が始まるみたいだ。
「ふー緊張してきた」美香の顔が先ほどよりも表情が固く見えた。
「美香、頑張って!応援してるから」新井さんが小さくガッツポーズをする。
「ありがとう椎奈。高来君も応援してね」
「もちろん」僕も新井さんに倣って小さくガッツポーズをしてみる。普段なら絶対にやらないポーズだ。恥ずかしさで顔が熱くなってきた。
「あはは。高来君もそういうことしてくれるんだ」
いつものように美香が笑ってくれた。それだけで恥ずかしい思いをしたかいがある。でも、もうやらない。多分。きっと。
「じゃあ頑張ってくる」
美香も小さくガッツポーズをして、管理棟の中に入って行った。僕たちは、その姿を見送った。
バシンッ!
左肩をまた殴られた。でも、一発目に殴られた時よりも威力はだいぶ弱かった。
「なに?」
「……むかつく」
新井さんは、拗ねたように呟いた。
「三十五番と三十六番の試合は、八番コートにて行います」
テニスコートに再びアナウンスが響いた。
八番コートの応援席で僕と新井さんは、女子テニス部の部員たちと一緒に美香を応援していた。新井さんの隣には、美香のお母さんがいて、タオルを握りしめながら娘のプレイを見守っている。
試合が始まって、およそ三十分。一進一退の攻防が続いていた。
今日の大会は、五ゲーム一セットマッチのルールになっている。四点先取した選手がゲーム獲得し、それを三つ獲得した方が勝利となるルールだ。サーブ、レシーブは一ゲームごとに交代となり、言ってしまえば攻守が入れ替わるような形だ。サーブ側が攻撃、レシーブ側が守りとなる。事前に調べておいた知識を思い出しながら試合を見つめる。
現在、第三ゲーム目のマッチポイントに突入している。それぞれ一ゲームずつ獲得している状況でこのゲームを獲得できるかどうかが、この試合の結果を大きく分けるポイントになるだろう。
それは、美香も相手選手ももちろんわかっていることで、ここまで点を取っては取り返す攻防が続いた。勝負は数度のデュースを経て、アドバンテージをサーブ権を持つ美香が獲得している状況となった。この一点を取ることができれば、美香は勝利に大きく近づくことができる。
美香がテニスボールの感触を確かめるように何度か左手で握った後、テニスボールを三回、地面でバウンドさせてからサーブのセットポジションにつく。彼女のサーブ前のルーティーンだ。美香は軽く膝を曲げトスを上げた。左手から離れたボールは、ブレることなく、まっすぐ宙に上がる。ラケットを持つ右腕が鞭のようにしなり、宙を舞うボールをとらえる。全身から右腕へ。右腕からラケットへ。そしてラケットからボールへと力が伝わり、強烈なサーブが放たれる。
放たれたサーブは、相手のサービスエリア(ネットと平行に設けたエリアで、サーブは対角線上のこのエリアに入れなければならない)のギリギリを抉るように着弾して、大きく跳ねる。ボールはその勢いのまま相手選手、後方のフェンスにぶつかり地面に落ちた。相手の選手は、セットポジションから動くことができないでいた。
完璧なサービスエース(相手のラケットに触れないサーブによる得点)だ。美香の気迫が伝わるようなサーブだった。それに応えるように今日一番の声援が上がった。興奮冷めやらない新井さんが、隣で「ナイスサーブ!」と叫んだ。
今までの僕ならこれらの声援を外野から聞いて、煩わしいと思い冷ややかな目を向けていただろう。そんなに一生懸命にやって、それを一生懸命に応援してなんになるのだと。そう思っていた。
でも、今は違った。一生懸命さに触れることでその熱を知った。例え小さな地方大会だったとしてもここにあるのは、プロ同士のそれときっと変わらないものだろう。いや、僕にとってはそれ以上だ。
慣れない胸の高鳴りを感じながら、熱を吐き出すように僕も大声で応援した。
第三ゲームから第四ゲームの間に一分ほどの休憩時間がある。選手はその間に水分補給をして、少しでも体力の回復を図るのだ。応援席にいる人たちもそれに合わせて水分補給などを行う。僕も他の人たちに倣って、持参していたペットボトルのお茶を飲んだ。
お茶を半分ほど飲んで、コートに目をやると美香は、タオルで汗を拭いながら飲み物を飲みながら、コーチであるテニス部顧問の話を聞いていた。
応援席からコートまでは多少の距離があるためなにを話しているかまでは聞き取れないが、時折、美香は強く頷いていた。コーチと数度、言葉を交わした後ラケットを握ってコートに戻っていく。
第四ゲームは、コートチェンジになる。コートチェンジと言ってもコートを変えるのではなく、両選手の位置を入れ変えることらしい。今回の場合は、東西の位置を入れ替える形になる。
ベンチを離れた両選手は、反対側のコートに向かって歩き始める。移動時の接触を避けるため相手選手は、南側を。美香は審判席のある北側を歩いた。僕は、僕たちのいる応援席側から離れていく美香の後ろ姿を見ていた。
審判席の近くを通った時、美香の体が揺れた。そのまま審判席の足にしがみついたかと思うと何を跳ね除けるように次は反対側に揺れた。その力が強かったのか美香の体は大きく揺れ、ドンッと鈍い音がした。ネットを支える支柱に体を強くぶつけた美香は、崩れるように地面に倒れた。
嫌な予感がした。真夏日だというのに氷に閉じ込められたように体が一気に冷え込み動けなくなる。時間まで凍ってしまったかのように静寂が当たりを包んだ。
「美香っ」
美香のお母さんと新井さんが同時に声を上げた。二人は、応援席から降りてコートに向かっていく。その声に僕も我に帰って二人に続いた。応援席では、テニス部の生徒たちが「え、熱中症?」とどよめいている。
僕は、その声を聞きながら、違うと思った。この場において僕と美香のお母さんだけが知っている熱中症ではない可能性。
フェンスを通って、テニスコートに入った僕たちは急いで美香の元へ駆け寄る。顧問の先生が倒れている美香の隣に座り声を掛けている、何度声を掛けても体を揺すっても美香の反応がない。新井さんと美香のお母さんも膝をついて声を掛けるが変わりはなかった。
僕は、一歩下がったところで何度も声を掛けられる美香を見ていた。また、体が冷たくなって動けなかった。心が空虚になって何も考えることができない。ただ、立ち尽くしてその光景を見守っていた。
新井さんと美香のお母さんの隙間から美香の顔が見えた。苦しんでいる様子はなく、眠っているように穏やかな表情をしていた。
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