第15話

一通り話し終えると当時を思い出して体が冷たくなる。お母さんとあの知らない男の人が所謂、不倫の関係だったと知ったのは後々の話だ。知らない男の人が、お母さんのパート先の店長だと言うことも後になって知った。

その後のお母さんがどうなったかを僕は何も知らない。何度か会いたいと思ったこともあったが、その度にあの冷たい目を思い出して、会いに行くことはできなかった。

あの日、僕が水筒を忘れていなければ、家には帰らず小学校まで歩いて行けていれば、お父さんに電話なんてしなければ。

僕がいなければ…。

お母さんがいなくなってから何度もそう思い続けている。

そして、大切な人を失った悲しみで傷ついた僕は、新たな傷を生まないようにと人と関わることを避けるようになった。人と関わらないようにすれば、大切な誰かがいなければ、もう失う悲しみで心が傷つくことは無いと最もシンプルな道を選んだ。

 これが僕の踏みこまれたくない領域で僕の犯した罪の話だ。

 お母さんのあの冷たい目が十二年間も僕を責め続けている。

 分厚い雲が太陽を隠し、日の光が部屋に届かなくなる。日中でもカーテンを閉め切っている部屋は、ほの暗くなっていく。物が認識できなくなるほど暗いわけではないが、人の表情を読み取るのが少し難しくなる暗さだった。

 僕の手に重ねられていた美香の手がそっと離れる。

 離れた手の行方を追うように美香を見つめる。ほの暗い部屋の中では、ハッキリと表情は読めない。そのことに不安を覚える。今の話を聞いて、彼女はなにを思った。周囲の大人たちと同じように可哀想な子だと同情するのか。それとも僕が悪いとお母さんと同じように責めるのか。

 美香は、僕にゆっくりと近づいてくる。表情は未だ見えないまま。

 いつもの僕なら目を逸らしているだろう距離まで近づいてきても僕は目を逸らさず、美香を見つめ続ける。

 触れられそうな距離まで近づいたところで美香の目が、僕の視線から外れ、横を過ぎていき、何も言わずに僕を優しく抱きしめた。

そこには、同情も非難もなかった。

ただ黙って、幼い子供を優しく抱きしめるように抱きしめてくれた。

 それは、まるであの日の続きのようだった。

 あの日、お母さんが出て行ってしまったあの日。喧嘩の後、お母さんはいつものように僕を抱きしめてくれなかった。冷たい眼差しだけを残していなくなってしまった。

 お母さんに抱きしめて欲しかった。喧嘩が終わったという証明が。いつもと変わらない日常が続くという証明が欲しかった。

 でも、それが叶うことはなかった。だから僕の時間は止まったままになってしまった。

 その時間が、動き出した。欠けていた歯車を取り戻した時計のように一秒ずつゆっくりと時を刻み始めた。

 長年押し殺してきた感情が、取り戻していく時間と一緒にあふれてくる。自分でがんじがらめにしていた鎖が一つずつ取り外されていった。あふれた感情の奥底に、ずっと忘れていたことを見つけた。

 それは、お母さんが家を出て行く一瞬、玄関のドアが閉じるその一瞬に見えた涙をためたお母さんの目だった。

 どうして、こんな大事なことを忘れてしまっていたのだろう。

子供の時の記憶は、どうしたって不鮮明になってしまう。幼かった僕には、お母さんの涙をためた目よりも、お母さんの冷たい非難の目ばかりが、強く残ってしまっていた。

あの涙の意味を幼かった僕はもちろん、思い出した今の僕にも知ることはできない。お母さんしかその意味を知っている人はいない。いや、十二年も経った今お母さんもその意味を忘れているかもしれない。

誰も涙の意味を知らないのかもしれない。でも、僕はそこに意味を見出したかった。例えそれが間違っていたとしても。なんの意味をなさなかったとしても。思い出したものにまた封をしたくなかった。

それに今は、一人じゃない。僕のことを知ろうとしてくれている人がいる。僕のことを親に捨てられた可哀想な子として同情の目を向けず、家族関係を壊した子として非難の目を向けないで僕のことを真剣に見てくれる人がいる。そのことが心にずっと絡まっていた鎖を解いてくれた。僕の時間を動かしてくれた。

「思い出したことがあるんだ。一瞬だったからよく見えなかったけど、お母さんが家を出て行った日、出て行く直前にお母さんが泣いていたような気がするんだ。」

 美香に抱きしめられたまま彼女の耳元で囁くように言った。

 美香が頷いたのを肩で感じた。

「一瞬だったし、僕を睨みつけるような冷たい目の方が印象的だったからずっと忘れてた。お母さんが泣いているところなんて初めて見たはずなのに」

 十二年ぶりにあふれた感情と記憶は、徐々に当時の輪郭を取り戻していく。

「家族が離れてしまうことをお母さんも悲しくかったのかな。その原因を作った僕のことを怒ってたのかな。それとも、家族と離れることが嬉しかったのかな」

 人が泣く時の感情は一つだけではない。悲しくても怒っていても嬉しくても人は、泣く。それらの感情がどうしようもなくなって、抑えることができなくなって、涙を流すのだから。

「お母さんも悲しく思ってくれてたならいいな」

 それは、憶測の域を出ないただの願望だ。いや、お母さんに向けた呪いなのかもしれない。お母さんが僕たちと離れたことを少しでも不幸だと感じてほしいという呪い。

「うん。そうだといいね」

 美香が僕の耳元で優しく囁いてくれた。

 その言葉で心の中に溜まっていた澱が溶けて消えていったような気がした。

 そして、それは一粒の涙として僕の頬を流れ落ちていった。悲しみなのか怒りなのか喜びなのか。その一粒にどんな感情が籠っているのか僕自身にも分からなかった。

 あふれ出したその涙は、何度も僕の頬を伝って、零れ落ちた。

 いつの間にか降り出していた大粒の雨は、僕の涙も声もかき消した。


 美香から離れて、目を擦った。きっと目が赤くなっているだろう。部屋が薄暗くて良かった。もしかしたら美香には、気付かれているかもしれないが。

「あまり擦らない方がいいよ。目、赤くなっちゃてる」

 美香は自分の目じりのあたりを指差しながら微笑んだ。

やっぱり気付かれてた。

 僕は、目を擦るのを止めた。少しだけ目じりに痛みを感じて、反射的に片目を瞑る。

「冷たいタオル、持ってくるよ。洗面所にあるよね。ちょっと待ってて」

 言うやいなや美香は、部屋を出て洗面所に向かった。いつも止める間もなく、行ってしまう。洗面所の方から水の流れる音が響いてきた。

 一人になった薄暗い部屋で、目を瞑ってみると優しい眠気がやってきた。久々に感じる眠気と雨が窓にぶつかる音に心地よさを感じながら、心に巣食っていた冷たい感情の温度が少しだけ温かいものになっていることに気がついた。まだ、全てのことに折り合いがついた訳ではないが、いつもよりずっと気持ちは軽かった。

 目を開いて、軽い眠気を保ったまま窓に近づいて、カーテンを開く。

 窓から見えるのは、立ち並ぶ家と駐車場だけで味気のない景色だ。依然として雨は降り続けていて、窓にぶつかる雨粒が味気なさに一層の拍車をかける。

久しぶりに外の景色を見たなと思っていると雨雲の隙間から日の光が差し込んだ。

雨でぬれた住宅の屋根や駐車場に止まっている名前の知らない誰かの車がキラキラと輝き始める。

 味気なかった景色に色が付いていく。

 その景色が綺麗だと純粋に思えた。

 何の意味もないことはわかっているが、怪異的な名前の付いているこの天気にお母さんに向けた呪いと謝罪の気持ちとほんの少しの感謝を預けた。この雨に混ざって、お母さんに届けばいいと思った。

「なにしてるの?」

 美香が濡らしたタオルを片手に持って戻ってきた。

「なんでもないよ」

 振り向いて、美香に笑って見せた。

「ほんとかな。なにか企んでるようなイジワルな顔してるよ。まぁいいやこっちにおいで」

 イジワルな顔ってどんな顔だよ。そう思って、真っ先に浮かんだのは、目の前の彼女のいつものいたずらっぽい笑顔だった。それならいいなと思って、口元が緩む。

 そこで遊園地で感じた泡のような感情の輪郭を掴むことができた。

 僕は、菅野美香のことが好きになっていた。

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