第14話

 僕の家族は、言ってしまえば普通の家族だった。お父さんとお母さんそして僕の三人家族。2LDKのアパートに住み、お父さんは中小企業のサラリーマン、お母さんは僕が幼稚園に行っている間にパートで働きに出かける。休みの日には、家族みんなで外出をし、外食をしたり、遊園地にも行ったりする、まるで小学校の家庭科の教科書にでも、載っていそうな模範的普通の家族だった。

 だが、そんな模範的な家庭環境は長く続かなかった。

 まず初めに変わっていったのは、お父さんだった。仕事から帰ってくる時間が日を追うごとに遅くなっていった。当時、出世コースに乗っていたお父さんは、上司からの期待、部下からの信頼を得て、着実に会社での出世コースを上っていった。その結果、残業が増え、家族との時間が減っていった。そして、お母さんと喧嘩する日々が続いた。僕は、喧嘩の度に自分の部屋に居るようにと言われ、六帖の部屋に閉じこもって、リビングで言い争っているお父さんとお母さんの声に一人うずくまって、耳を塞いでいた。いつも喧嘩が終わると、決まってお母さんが僕を抱きしめて謝っていた。

 お父さんが変わっていった数か月後にお母さんも変わっていった。お父さんと同様に仕事の時間が長くなった。以前までは、幼稚園のお迎え時間には、パートを終えて僕を迎えに来てくれていたのに、お迎え時間から一時間程遅れて迎えに来る日が増えていた。僕は、お父さんと同じく仕事が大変なのだろうと純粋に思っていた。でも、お父さんと違う点があった。お父さんは、帰りが遅い日はいつもクタクタであまり笑わないのに、お母さんは、遅くなればなるほど元気でよく笑っていた。そこに強烈な違和感を覚えていた。

お父さんとお母さんが仕事で忙しいことに子供なりに寂しいと感じてはいたが、幼稚園の先生がお父さんとお母さんは智君のために頑張っているんだよと言っていたから、僕は寂しい素振りを見せないようにしていた。お父さんもお母さんも僕の寂しさには、気付かなかった。僕も自分では、気づかないうちに徐々に変わっていった。

模範的普通の家族は、全員が変わっていたことで小さな亀裂を生んだ。そして、その亀裂が一気に崩壊へとつながる出来事が起こった。

それは暑い夏の日のことだった。その日は、土曜日でお父さんは仕事、お母さんはパートがお休みで僕と一緒に家に居た。お母さんと一緒にお昼ご飯を食べた後にお母さんの携帯電話が鳴った。お母さんは五分ほど電話をして、僕に外に遊びに行ってもいいわよと言った。五歳になった僕は、時々一人で外に遊びに行くことがあった。近所の公園に行ったり、お散歩したりする。お父さんとお母さんに寂しいと言うことを我慢し続けた結果、僕は周りの子供たちよりも少しだけ大人になっていた。そんな僕をお母さんは、手が掛からなくて助かるわと言って、よく頭を撫でてくれた。お母さんを助けていると思って僕も嬉しかった。だが、その言葉が僕を褒めていたわけではないと知ったのは、僕がもっと大人になってからだった。

お母さんに外に遊びに行っていいよと言われた僕は、嬉しくなって急いで玄関に向かった。靴を履いて、玄関ドアのノブに手を掛けるとお母さんにいってらっしゃいと言われた。僕は振り返って、とびっきりの笑顔でいってきますと言った。

 外に出てアパートから少し離れた僕は、どこに行こうか考えていた。アパートを出て、右に進むとあるいつもの公園か。それてもまだ行ったことのない左側の道を行ってみるか。ちょっとだけ悩んで、僕は正面の道を進むことにした。目的地は、小学校だ。

 来年から通う小学校に一度だけお母さんと行ったことがあった。来年から一人で歩いて通うことになるから、今のうちから一人で行けるようになれば、お母さんはもっと褒めてくれるそう思って、僕は小学校へと足を進めた。

 大体半分くらい進んで、家と家の間から小学校が見えてきた時に喉が渇いたので、お茶を飲もうとしたら水筒を忘れたことに気が付いた。いつも外に行くときは水筒を持っていくが、急いで出てきたからすっかり忘れてしまった。進むべきか帰るべきか悩んだけど家に帰ることにした。帰る前に石を探した。すぐにちょっと変わった形の石を見つけた。今度、お母さんと散歩で来た時にここまで一人で来れたと自慢しようと思い、その石を目印替わりに置いておいた。

 帰り道は、目的地に向かう道と同じでも時間があっという間に過ぎるように感じる。その日もそうだった。ただ、その日は、あっという間でない方がよかったのかもしれない。

 自宅に着いて合鍵を使って玄関に上がる。リビングの方からお母さんの声と聞いたことのない男の人の声が聞こえた。テレビの音かなと思い気にせずにリビングへと向かうことにした。リビングの扉を開けて、キッチン、ダイニングを通り抜けリビングを見るとお母さんはソファーに座っていた。テレビは、付いていなかった。お母さんの隣には、知らない男の人が座っていた。お母さんと肩を寄せ合うように座って、楽しそうに話をしている。お母さんは、僕の存在にまだ気が付いていない。お父さんとは違う知らない男の人の低い声に僕は怖くなって、その場から動けなくなってしまった。その男の人に家を支配されてしまったそんな恐怖が心を支配していた。

 やがて、知らない男の人が僕の存在に気が付いた。お母さんもつられて僕に気付く。お母さんは、慌てて僕の下に駆け寄り、何かを言っているがなんと言っているか分からなかった。言葉は耳に届いているが、理解が出来なかった。知らない男の人も僕に話しかけているが、お母さんと同様に何を言っているのか分からなかった。知らない星の言葉で話しかけられているような感覚だった。

 お母さんと知らない男の人からかけられる言葉を無視して、僕は消え入りそうな声で水筒忘れてと言った。それを聞いたお母さんは、キッチンからコップ一杯のお茶を持ってきて、僕に渡した。僕がそれを飲み切るとお母さんは自分の部屋に居るようにと言った。僕は、トイレに行きたいと言って、リビングを出た。お母さんは知らない男の人は、二人で話し始めて僕の方を見ていなかった。

リビングを出た後、急いで玄関に向かった。靴箱の上に置いてある何枚かの小銭とメモ用紙を握りしめて、外へと飛び出した。

靴箱の上には、常に十円以上の小銭が置いてあった。それは、お父さんが、何かあった時のためにとお父さんの携帯番号が書かれたメモ用紙と一緒に置いてくれていたものだった。僕が一人で外に行くようになってからお父さんが、外に行くときには必ず持っていくようにと言っていたが、水筒と同じで今日は、急いでいたから忘れてしまっていた。

家を飛び出した僕は、右手側の公園がある道を走った。公園に向かう途中にお金があれば誰でも使える電話があることを知っているからだ。使い方は、以前にお父さんが教えてくれた。息が切れて何度も休憩を挟みながら、やっと電話の元まで辿り着いた。

五十円玉を入れて、強く握りすぎてクシャクシャになったメモ用紙を見ながら、お父さんに電話を掛ける。三回ほどコールが鳴ってお父さんが出た。僕は矢継ぎ早に家に知らない人がいると伝えるとお父さんは焦った様子で僕の居場所を確認して、すぐに迎えに行くから公園で待っているようにと伝えた。知らない男の人の声と同じ低い声だが、お父さんの声はすごく安心できて、思わず泣いてしまった。

休日の日中ということもあり公園には、たくさんの家族連れがいた。僕は、隅の方にあるベンチに座って、お父さんが来るのを待っていた。待っている間、知らない男の子が一緒に遊ぼうと言ってきたが、僕はお父さんを待っているからと言って断った。断るとその男の子は、いじけた様子で去って行った。それからしばらくして、お父さんが公園にやってきた。僕を見つけると急いで駆け寄って、僕を抱きしめた。お父さんから汗のにおいがした。

お父さんは、その場で僕にケガが無いか確認すると家に帰ろうと言った。僕はまだあの男の人がいると思って首を横に振った。そんな僕を見てお父さんは、僕の目線の高さまでしゃがんでお父さんも一緒だから大丈夫と言った。僕は、少し悩んでから頷いた。じゃあ帰ろうか。そう言って、お父さんは僕の手を取った。お父さんのスーツは、しゃがんだ時に付いたのだろう公園の土で膝のあたりが汚れていた。それ以外の部分もいつもより汚れて見えた。お父さんは、仕事で使うものを決して汚そうとしなかった。僕がスーツに触ることさえ許さない人だ。それで何度も怒られたことがある。そんなお父さんのスーツが汚れているのを見て、悲しい気持ちととほんの少しだけ嬉しい気持ちがあふれた。

お父さんと一緒に家に着くと知らない男の人の姿は、もうなかった。リビングには、お母さんが一人で居て何事もなかったかのようにおかえりと言った。それを見た僕は、今まで出来事が夢だったんじゃないかと思った。それぐらいにお母さんが僕たちに向ける姿は、いつも通りだった。困惑している僕にお父さんは、部屋にいるようにと言った。僕は、それに従って、自分の部屋に籠った。

お父さんとお母さんは、リビングで話をしているようだった。次第にその声は大きくなっていった。いつもの喧嘩のよりも怖くなって、僕は布団を頭までかぶって時間が流れるのを待った。そうすればいつの間にか喧嘩も終わって、お母さんが抱きしめてくれる。その時を待つように、ただひたすらに現実から目を瞑り続けた。だけど、そんな時間はやって来なかった。

どのくらいそうしていたのだろうか。いつの間にか眠ってしまっていた。気づくと夕暮れになっていて、窓から見える空は、橙色と藍色の入り交じった空をしていた。リビングからお父さんとお母さんの声はもう聞こえなかった。家全体の時間が止まってしまったかのように静寂に包まれていた。

静かに扉を開けて部屋を出た僕は、ダイニングの椅子に座っているお父さんを見つけた。何かを考え込むような姿勢で深刻な顔をしている。リビングにもダイニングにもキッチンにもお母さんの姿は見当たらなかった。お父さんにお母さんはどこ?と聞く前に玄関の方から物音がした。きっとお母さんだ。そう思って、僕は急いで玄関へと向かった。

お母さんは旅行にでも行くのかと思わせるようなたくさんの荷物を持って、玄関に立ってドアノブに手を掛けていた。これから外に出る直前だった。僕がお母さんどこに行くの?と言うとお母さんは振り返って、僕を見つめた。いや、僕を睨みつけた。その目はどこまでも冷たく優しさのない責めるような目だった。お母さんのそんな目を見るのは、初めてだった。お母さんを怒らせてしまった時もそんな目をしていたことは、一度だってなかった。どんな時でもお母さんの目は、温かくて優しい目だった。だから、子供ながらにいつもと違うその冷たい目によって、お母さんが僕のお母さんでは、なくなってしまったと分かってしまった。無償の愛を向けられる存在では、なくなってしまったと。

冷たい目を向けられた僕は、凍ったかのようにその場から動けなくなった。お母さんは僕に何も言わずに玄関を開けて出て行った。

玄関の扉がゆっくりと閉まっていく様を僕は、ただ見ていることしかできなかった。

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