第13話

 この日以降、僕は学校を休んだ。かれこれ二週間くらい休んだ気がする。その間、あの悪夢を見ることはなかったが、毎日眠ることができなくなっていった。二日に一度は眠れなかった。眠れたとしても、ただ暗闇に落ちていくそんな夢を何度も見た。その夢を見た日は、目を覚ますと決まって悪寒に襲われた。

 二週間も学校に行かないことに関して、父さんは何も言ってこなかった。相変わらずの無関心。今はそれがありがたいと思えた。もちろん病院にも行かなかった。

 この二週間、人と会うことを僕は徹底的に避け続けた。

 初めの一週間は何度かスマホがメッセージを受信していたが、それもいつの間に途絶えていた。きっとスマホの充電が切れたのだろう。六時限目の授業をサボったあの日からスマホを一度も充電していなかった。

 送られてきたメッセージの内容は、一切確認していないので分からないが、誰が送ってきているかは分かっている。僕のスマホに登録されている人物は、父さんを含めて二人しかいないのだから。

何かが変わるわけでもないのに、今までなんとか向き合えて来ていたものから僕はひたすらに逃げ続けた。だから、僕は自室にこもり続けて、自分の世界を限定的にした。六帖の長方形の世界が今の僕の世界だった。生きていくうえで必要最低限な行為以外で、この世界の外に出ることはしなかった。

あの悪夢が残した心の傷を時間は癒してくれなかった。むしろ傷口を広げ、僕を惨めな気持ちにさせた。誰にも気づかれずひっそりと消えてしまいたい。そう思うのにあまり時間はかからなかった。

今日も暗闇に落ちていく夢を見て、飛び起きるように目を覚ました。冷や汗をぐっしょりとかき、部屋着が肌に纏わりついて気持ち悪かった。夏だというのに体の芯は凍えていた。

僕は、よろよろとベッドから起き上がると六帖の世界から出て、キッチンへと向かった。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いでから一気に飲み干す。コップをシンクに乱雑に置き、時計を確認した。お昼を少しすぎたころだった。お昼を意識したからなのか空腹を知らせるお腹の音が、僕しかいないキッチンに響いた。

どうして人は何もしていないのに喉は渇くし、お腹も空くのだろう。今は、そのことが疎ましく思えた。こんな人間一人、生きていてもしょうがないのに。

空腹を訴えてくるお腹を無視して、部屋着を変えるために脱衣室に行き、汗を流すためにシャワーを浴びた。脱衣室も浴室も明りを付けずに真っ暗な空間でシャワーを浴びた。自分の姿がしっかりと見えないことで、自分は消えてしまえたと思えてなんだか心が落ち着いた。

シャワーを済ました後、僕は自室に戻って、ベッドに横になった。なにをするわけでもなく、ぼーっと天井を見つめる。病気が僕の体を蝕んでくれる時をひたすらに待ち続ける。

六帖の限定的な世界で誰にも気づかれずに消えていくことが、今の僕にできる唯一の罪滅ぼしだ。

 今日はもう眠れないかもしれないが、一旦は目を瞑ることにした。

 その時、玄関のチャイムが響いた。僕は、ベッドから起き上がることもせず、無視をした。どうせ、新聞の勧誘か宗教の勧誘だろう。無視していれば、留守だと思ってすぐにいなくなるだろう。そう思い、居留守を決め込む。

 だが、チャイムの音は、何度も響いた。四回くらいなら耐えられるが、さすがにそれ以上になるとチャイムの音が頭にこびりついて、おかしくなりそうになる。

 僕はベッドから起き上がると玄関に向かった。その間もチャイムは何度も響いて、僕の心をイラつかせる。外にいる人に気配を悟らせないよう慎重に玄関のドアスコープから外を覗く。

 そこには、頭の片隅には、予想していた人物が立っていた。それと同時にこの予想は、外れていてほしかったと思った。

 制服を着た美香が真剣な眼差しで何度もチャイムを押していた。

 美香の姿を見て胸が締め付けられるように痛んだ。喜びと苦しみ二つの矛盾した感情が、僕の心でせめぎ合う。

 僕は、慎重にドアスコープから目を離す。よろめきながら六帖の世界に戻ろうとした。

「高来君!居るんでしょ。会って話がしたいの」

 玄関越しに美香の声が響いた。その声は強くて優しい夏の木漏れ日のような声だった。僕は足を止めて、玄関に振り返る。僕も会いたかった。会って玄関越しではなく、その声を直接聞きたかった。でも…。

 僕の足は、その場で立ち止まった。思うように体が動いてくれなかった。頭と体そして心、全てちぐはぐだった。それらが他人のものに置き換わったかのように、自分の意思を込めることができなかった。ただのマネキンのように人型として、そこに立っているだけになった。

 その時、玄関越しに男の怒号が響いた。

 うるせえぞ!

 隣に住んでいる男の声だった。

 その声で僕は我に返った。そして、玄関に向かって歩き始める。今は頭と体、心が一つの目的に向かって、しっかりと統制が取れていた。

 玄関越しに美香の何度も謝る声と男の低く脅すような声が聞こえた。

 僕はわざとらしく大きな音を立てて鍵を開けて、ドアを薄く開ける。

 それに気づいた美香が、ドアの開くスペースを確保するように二、三歩、後ろに下がる。

 男がまだグチグチと何か言っているが気にも留めず、ドアを勢いよく開いた。ドアが美香と男の間で開き、壁のようになる。その勢いのまま美香の腕を掴み、室内へと引っ張る。ドアを素早く閉めて、鍵も施錠する。外から、舌打ちとともにドアの閉まる大きな音が聞こえた。

 安堵から、ため息がこぼれた。

 そこで勢いあまりすぎて、美香を抱きしめていることに気が付いた。僕は、離れようとしたができなかった。美香が僕の背中に手を回して、離してくれなかった。美香は僕の胸に顔を沈め、「……怖かった」そう小さく呟いた。

 僕も美香の背中に手を回そうとしたが、背中に触れる直前で手を下した。今の僕が彼女に触れてはいけない。僕は美香が離してくれるまでの間、またマネキンのように、そこにただ立っていた。


 五分後、僕から離れた美香が話をしたいと言った。今さら追い返すこともできないので自室へと案内した。僕が自室の扉を開けて、後ろを付いてきている美香の方へ振り返ると彼女は、足を止めて不思議そうにリビングを見回していた。僕がこっちと声をかけるとハッとして、足早に僕の部屋に入っていった。

 僕の部屋に入った美香は、部屋の中央あたりまで行くとリビングの時と同様にぐるりと僕の部屋を見回した。なんだか見定められているみたいで落ち着かない。

 と言っても僕の部屋はそもそも物が少ない。シーツもカバーもグレーに統一されたベッドと小学生の時から使っている子供っぽい学習机、本と雑貨を収納しているカラーボックスしかないのだ。

そのどれもがお母さんと一緒に住んでいた時に買いそろえたものだった。この部屋は、僕が五歳の時から時間を刻んでいない。部屋の住人である僕だけが時間を刻んでいた。

美香は一通り部屋を見回すとその場に座った。学習机の椅子とベッドはあるが、気を遣ってか美香はそこには座らず床に座った。僕もそれに倣って、人一人分くらいの距離をあけて美香と向き合う形で床に座った。テーブルなんてないので、お互いの間を隔てるものはなにもなかった。

独りきりだった六帖の世界に美香がいることに違和感を覚えながら、胸が締め付けられるような苦しみを感じていた。

「もうすぐ期末試験だね。」

 美香の優しい声が殺風景な六帖の世界によく響いた。僕は黙って頷く。

「試験は受けるんだよね?」

 僕は、曖昧に頷く。試験なんてどうでもよかった。今さら勉強なんて。今の僕に必要なのは、罪悪感から逃れられるような消え方だけだ。

「そっか」

 美香はそう呟いた。僕の頷きをどう捉えたかは、分からない。肯定でも否定でもない言葉が、今はほんの少しだけ温かく感じた。

「これ渡しておくね」

 美香は、鞄から何枚もプリントの入ったクリアファイルを僕に差し出した。

「先生から届けて来てくれって」

 美香がどうして僕の家を知っているのかようやくわかった。案外、個人情報というのは僕が思っているよりも軽く取り扱われているのかもしれない。

 受け取ったクリアファイルの一番上のプリントは、進路希望調査票だった。

「それ、今月中に提出だよ」

 美香が、プリントの注釈部分を指差す。確かにそこには、六月三十日までに提出と書かれていた。この部屋には、カレンダーは無いが、リビングでちらっと確認した際、もう月末だったことを思い出した。

 僕は、進路希望調査票を取り出して、その場で第一希望から第三希望までを殴り書きする。全ての記入欄に「なし」と記入した。それを他のプリントを抜き取ったクリアファイルに戻して、美香に渡した。

 美香はそれを受け取って、強く握った。

「今月は、もう学校に来ないつもり?」

 寂しそうな声だった。

 期末試験は七月の中旬ごろだ。それまで学校に行くつもりはなかった。

「そのつもりだよ」

 言葉にしてみると自分の声がひどく冷淡であることに気が付いた。他者を突き放すような平坦な声だった。父さんとそっくりな声音をしていることに背筋が冷たくなった。

 美香は、僕の言葉に傷ついたのだろうか。俯いたまま黙ってしまった。

 僕も同様に黙っていた。

一度放ってしまった言葉を取り消すことは、もうできない。ましてや他人を傷つけた言葉は、いくら取り繕っても傷を残し続ける。そして、他人を傷つける言葉が、自分自身をも傷つけることを僕は初めて理解した。

 長い沈黙だった。風が窓に当たる音だけが鳴っていた。窓から見える雲の流れがいつもより早く、まるでこの六帖の世界は時が止まって、外の世界だけ早送りに動いているかのように感じた。

 どのくらいの時間が経ったのだろうか。美香が何かと戦うように震えながら口を開いた。

「私、勉強できなくて鈍感だから…。どうして、高来君が学校に来なくなっちゃったのか、たくさん考えたけど分からなかった。だから、教えて欲しいの。高来君が今なにを思っているのか。何も分からないままなんて、すごく、すごく苦しいよ」

 美香の訴えかけるような声に胸が痛んだ。心臓を握られているような苦しい痛みだった。その心臓を握っているのは、他でもなく僕自身だ。僕は僕の手によって自分を苦しめている。それを自覚していながらも僕は、自分の心臓を握り続けた。こんなもの早くつぶれてしまえばいい。

 そんな僕の手に温かいものが触れた。美香の手だった。いつの間にか近づいていた彼女の手が僕の手と重なる。

 僕の手は、まだ僕の心臓を握っている。でも、その手に美香の手が優しく添えられた。それだけで握る力は弱くなって、痛みは小さくなっていく。

美香の優しさに触れれば、僕の中の罪悪感は膨れ上がっていくだろう。そんなことは分かっている。分かっているのにその手を振りほどくことはできなかった。

「どんな話でもちゃんと聞くから話してみて。高来君のことが知りたいの」

 美香の声は、優しく温かい声だった。

 今までの人生において、僕のことを知りたいと思った人は、ほとんどいなかった。そして、僕自身も他人に自分のことを積極的に話そうとはしてこなかった。クラスメイトにも父さんにさえもほとんどしたことはなかった。

 誰かに自分のことを知りたいと思ってもらえるそんな些細なことが嬉しかった。それは出口のない暗闇の中に、吹けば消えてしまいそうな小さな灯りが見えたような、弱々しくも行くべき道を示してくれる気がした。

 そして、僕は美香に話した。今まで閉じていた記憶の蓋をゆっくりと開くように一語一語、まるで懺悔のように話した。

 全ては、五歳のあの日に終わり、始まった。

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