第12話

「どうしたの?目のクマすごいよ」

 翌日、一時限目の授業を終えた直後に美香が、心配そうに声を掛けてきた。

 教室で話しかけてくるのは、珍しかったので、よほどひどいことになっているのだろう。

 昨日の夜は、長かった。何度、目を瞑っても眠ることができず、強く願っても明日には、なってくれなかった。

 寝つきの悪い日は、今までもあったが、昨日は、特にひどかった。眠気を感じてはいるものの一向に眠れる気がしなかった。

 特になにかするわけでもなく、縋るようにベッドに横になってはひたすら目を瞑っていた。時間の止まった家の真っ暗な部屋で、ただ一人、眠れぬ夜を過ごした。

 そのまま一睡もできずに朝を迎えた。

「ただ、眠れなかっただけ」

 僕は、軽く目を擦った。まだ、眠気はあるが、やはり眠れる気はしなかった。授業中に寝ようとも考えたが、それも難しく。集中できないまま授業を受けていた。おかげで、授業の内容は、何一つ頭に入っていなかった。

「大丈夫?体調悪いとか?保健室行く?」

 僕の机の横にちょこんと座った美香が、覗き込むようにして僕の顔を見てくる。

「いや、大丈夫。そこまでじゃない。それに」

 鞄から一冊の本を取り出した。

「これ読んでて、眠れなかっただけだから」

 そう言って、「眠り姫」を見せた。もちろん本を読んでいたことは嘘だ。本当のことを言って、これ以上、余計な心配を掛けさせたくなかった。

 それを見た美香は。呆れたような笑みを見せて、僕の肩を軽く小突いた。

「なんだよ。心配して損した」

「なんか、ごめん」

「ううん。なんともなくてよかった。あんまり夜更かししちゃだめだよ」

 そう言うと美香は、僕の手から「眠り姫」を取り上げた。

「だからこの本は、没収ね。今からでも、休み時間の間は、少しだけ寝といたら。そしたら、返してあげる」

 イタズラっぽい目をして、にししと笑った美香は、そのまま友達のところへ走って行ってしまった。

 僕の意見を聞くつもりは、ないらしい。すぐに友達と合流して、談笑を始めるしまつだ。

 本を取りあげられたこと自体は、別にどうでもよかった。ちゃんと返してくれればなんでもいい。 実際に本が原因で眠れなかった訳ではないから、本を取り上げられたところで何の意味もないのだ。

だが、重くのしかかった枷のようなものがなくなって、少しだけ心が軽くなったような気がした。

 眠気はあるものの依然として、眠れる気配は全くないが、机に突っ伏して目を瞑ってみた。

 机は、ベッドよりも当たり前のように固く、姿勢も悪いが、昨日の夜よりも、眠ろうとするその行為が心地の良いものに感じた。


 昼休みになりいつも通り理科準備室に来ていた。

 結局、午前中は授業中も休み時間も一睡もできないでいた。頭がふわふわとした感覚で寝てはいないのに夢見心地な感覚だった。

 購買部で買った適当なパンを食べているとガラガラと喧しい音を立てて、美香が理科準備室に入ってきた。片手にはお弁当箱を持っていた。

「あ!いたいた」

「どうした?」

「どうしたって…。高来君、午前の従業も休み時間も寝てなかったでしょ。どこか道端で倒れてないか心配で探したんだよ。いつものところに居てくれてよかった」

 美香は、僕の正面の席に座ると自分のお弁当を広げ、いただきますと言って食べ始めた。相変わらず野菜も入った彩りの良い弁当だった。

 道端で倒れているから心配って、だれが言っているのか。そう思って結局、心配を掛けさせてしまっていることを申し訳なく思った。

「どうしたの?黙っちゃって。眠くなってきた?」

「なんでもない」

 僕は、パンの最後の一口をほおばった。そう言えば、パンを食べると眠くなるとネットニュースで見たことを思い出した。これで寝むれるなら苦労はしないな。僕はパンの包装紙をぐちゃぐちゃにつぶしてビニールの袋に突っ込んだ。

「ふふふ」

 美香が笑いをこらえるように手で口を押えていた。その手は何の意味もなさず、すきまから笑いが漏れていた。

「なに?」ちょっと不気味な笑い方に僕は若干引いていた。

「ごめん、ごめん。いつもは高来君が私のことを見てくれてるのに、今日は反対の立場だったから、それが面白くて。あれだね。人間観察っていうの?その人の個性が知れて面白いね」

 美香はふふふと小さく笑った。

「悪趣味だな」

「あーそんなこと言っちゃうんだ。高来君だって同じことしてるくせに」

「僕は本人から許可をもらって正式に観察してるから」

「それもそっか。あはは」

 美香は、こらえるような笑みではなく、いつもどおり大きく笑った。

 そこから他愛もない話を十分ほどしていた。

 もうすぐ夏休みだとかそうなると期末試験が近くて憂鬱だとかテニスの大会があるから楽しみだとかの話をした。ちなみに期末試験の勉強について教えてほしいと頼まれたが、中間と違いテスト範囲が広く全教科は無理なので、一部の教科だけ教えることとなった。他の教科については、クラスメイトや新井さんを頼るようだ。

 時刻は、十二時半を少し過ぎたあたり、眠気が強くなってきた気がした。これがパンの効果なのかうつらうつらしながらそんなことを思っていた。

「眠くなってきた?」

「ああ。でも眠気があるだけだ」虚ろになりながらもなんとか答える。

「そしたら、どっちの手でもいいから貸して」

 僕は言われた通りに右手を美香に差し出す。その手を美香は両手で包み込んだ。

 僕は咄嗟に手を引こうとしたが、眠気もあってうまく力が入らず美香の力に負けてしまった。

「小さいころ眠れないときは、お母さんによく手を握ってもらってたの。そうすると安心してよく眠れたんだ」

 美香の優しい声が心にスッと染みこんでいく。

「相変わらず手、冷たいね」

 僕の右手から美香の体温が伝わって、心が落ち着いていった。理科の実験で使う薬品たちの匂いに交じって、美香のシャンプーの香りなのか甘くて優しい匂いがした。独特な匂いの中でゆっくりと瞼を閉じた。

「昼休みが終わるころには、起こしてあげるから心配しないで」

 美香の声が虚ろな頭に何度も反響した。

 眠気が増して重くなった頭は、重力に従って理科準備室の机の上に着地する。自分の左手を枕替わりにして眠りやすいように態勢を変えた。それでも右手は、美香に握られたままだ。どうやら僕がちゃんと眠るまで離すつもりはないらしい。右手に少しだけ力を込めると同じ力で美香も握り返してくれた。

 目を開くと僕は、ファミレスに居た。

 僕はすぐに夢だと気がついた。なぜなら、世界が灰色に見えるからだ。色々な料理の写真が使われたカラフルなメニュー表の表紙も、目の前に置かれたグラスの中の液体も、窓の外から見える空の色も全てが灰色になっていた。灰色の世界のファミレスに僕は居た。

人の気配を感じ正面を見ると目の前には、新井さんが座っていた。灰色の液体が、入ったグラスを一飲みすると鋭く刺すような目で僕を睨んだ。

「あなたは、本当に最低だよ」

 そうだ。僕は最低な人間だ。

「あなたのやっていることは、何もかもが中途半端で、ただ周囲の人間を傷つけてるだけ。なにもできないなら、潔く美香の前からいなくなって」

 新井さんは、冷たく言い放つ。灰色の世界はそれに呼応するかのように色素を薄めていった。

「あなたは自分の罪滅ぼしのために美香を利用してる。そうでしょ?」

 違うと叫びたかったが、僕の口から声は出なかった。ただ、餌を求める魚のようにパクパクと口を動かすことしかできなかった。

「あなたが何を否定しようとしても、少しでも美香に対して後ろめたさや罪悪感がある限りあなたにとって美香は、罪滅ぼしの道具でしかない」

 新井さんの視線がさらに鋭いものになって、僕は逃げるように目を瞑る。

 ふと目の前から新井さんの気配が消えた。僕はもう一度、目を開いた。

 僕は家のダイニングテーブルに居た。ファミレスと同じく灰色の世界だ。目の前には新井さんではなく、父さんが座っていた。父さんはゆっくりと口を開く。

「お前が病院に通っていると何かの病気を患っていると知って、父さんはすごく嬉しく思ったよ。やっとお前が父さんの前からいなくなってくるって」

 父さんの声は、変わらず低く平坦で冷たい声だった。ただ、普段は見られない感情がそこには、宿っているように感じた。

「お前が。お前さえいなければ、母さんが家を出て行くことなんてなかったんだ。全て、お前の責任だ。お前が悪いんだ」

 父さんの声は徐々に熱を帯びていく。それとは、裏腹に灰色の世界は、更に色素を薄め冷たくなっていく。

 違うと心の中で何度も叫んだ。何度も。何度も。何度も。

だが、叫べば叫ぶほど否定すればするほどその言葉は、僕に重くのしかかり、心の奥底に忘れられない傷を刻んでいく。

「なにをしてもお前の罪は、一生消えない」

 その言葉だけを残して、父さんと灰色のダイニングは消えた。

 灰色の世界に僕は、一人で椅子に座っていた。どこまでも続く果ての見えない世界。目の前には空席の椅子が一脚だけあった。デザインもなにもないどこにでもあるような無機質でつまらない木製の椅子。僕は、その椅子を無感情にただ見つめていた。

 しばらくすると僕の後ろから、一人分の足音が近づいてきた。その足音の主は、僕の横を通り過ぎると無機質な椅子に腰かけた。

 足音の主は、僕だった。一七歳の僕がそこに居た。

 驚きもなにも思わなかった。ただ、無感情に僕を見つめた。無機質な椅子に座る僕もまるで鏡のように無感情に僕を見つめた。

 やがて、無機質な椅子に座る僕が口を開いた。

「高来智。お前にはなにもできない。新井椎奈が言ったように中途半端な結果しか生まず、菅野美香を救うことで母親への贖罪や懺悔の代わりにしようとしている」

 淡々とした声が、灰色の世界に反響する。

「だが、父さんが言ったようにお前の罪は、何をしても消えない。お前に誰かを救う権利などない」

 無機質な椅子に座る僕は、無機質な目で僕を睨む。

 これは夢だ。新井さんや父さんが実際にあんなこと言っていないことはわかっている。全て僕の頭が見せている幻。記憶を整理する中で改変された夢だ。それらに僕の持っていた彼らに対する後ろめたさや罪悪感が混ざったものだ。だからこそ彼らの感情は、本物の僕自身の感情だった。そして、目の前にいる僕がその感情そのものだった。

 僕は、なにも言い返せず、心の中でひたすらに謝罪をしていた。誰にでもなく、ただただごめんなさいと謝り続けていた。

「またお前は、そうして僕と向き合うことから逃げるのか」

 そう言うと無機質な椅子に座る彼は、椅子から立ち上がり僕の肩を押して椅子を倒した。倒れた椅子は床に着地することなく、穴に落ちたように下に下にと落ちていく。

 その姿を無機質な目をした僕が見下ろしていた。彼の口が動いて、何かを言っているようだったが、僕には聞き取れなかった。

 底のない真っ暗な闇に飲み込まれるように落ちていった。


 耳をつんざくようなチャイムの音で目を覚ました。寝起きの頭に甲高いチャイムの音が割れるように響いた。

 僕の顔は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。心臓の音がうるさく胸が張り裂けそうに痛む。息も乱れて、頭痛も吐き気もする。

 僕は気持ちを少しでも落ち着かせようと、椅子に座ったままお昼に買っておいたペットボトルのお茶を一気に飲み干した。飲み切るとむせて何度も咳をした。

 少しだけ頭痛と吐き気が収まった。冷や汗を制服で拭うと遅れながらも、右手が自由に使えることに気が付いた。寝る前に右手は美香に握られていたはずだ。そのまま眠ったはずだから…。美香は?

 改めて自分の正面を見るとそこに美香の姿はなかった。僕は急いで椅子から立ち上がり、美香の座っていた反対側の席に移動して、床に美香が倒れていないか確認した。そこにも美香の姿はなかった。とりあえず美香の病気が発症して、倒れてしまったわけではなかったと安心して胸をなでおろす。

 そこで、美香の座っていた席にノートの切れ端が落ちていることに気が付いた。たぶん机の上にあったものが、僕が起きた拍子に落ちたのだろう。僕はそれを拾い上げて、中身を確認する。

 先生に呼び出されちゃったから、起こすのも悪いし先に教室に戻ってるね。

 美香の字でそう書いてあった。壁掛けの時計を見ると五時限目が終わった時間になっていた。

僕は崩れるように椅子に座った。

 美香にそばに居てほしかった。それと同じくらいにそばに居なくてよかったという気持ちが芽生えた。

どうしようもなく辛くて寂しくて、情けない気持ちが心を支配した。こんな気持ちを彼女には見せたくなかった。見られたくなかった。

夢の中の無機質な椅子に座る僕の言ったとおりだ。僕に美香を救う権利なんて無い。矛盾だらけで美香の病気を治すと決めたのに結局は何も出来ていない。決意とは裏腹にその言葉は、ただの文字の羅列で空っぽだった。そこに贖罪や懺悔の気持ちが全くなかったとは、もう言えない。

僕は自分の荷物をまとめて理科準備室を後にした。

階段を下っている途中で、誰かが理科準備室のドアを開ける音を聞いたが、聞こえないふりをした。僕は六時限目の授業をサボって家に帰った。

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