第11話

新井さんがファミレスを出て行ってから椅子に根を張ったようにしばらくは、動くことができないでいた。

ジュースが半分ほど残ったグラスと二、三本しか残っていない冷めてしなびたフライドポテト。氷が解け切って、水とコーヒーが層を作っているアイスコーヒー。それらが置かれたテーブルに何もせず座っている僕を見て、テーブルを横切るお客さんは一様に怪訝な顔をしていた。

それを気にせず、僕は新井さんの言葉を反芻していた。

人には、踏み込まれたくない領域があるの。

その言葉が意図することはよくわかっているつもりだった。僕自身にも踏み込まれたくない領域はある。そういった領域には他人は、もちろん自分ですら踏み入ることは滅多にしない。誰だってそれと向き合うのは、怖いからだ。

だから、自分の踏み込まれたくない領域に初めて他人が侵入しようとしていると感じた時、背筋に冷たいものが走って、得体のしれない感情が心を支配した。その余波が今も体に残っている。

美香にとっての踏み込まれたくない領域とは、なんなのだろうか。

先月行った真先輩のお墓参り。今、思いつくのはそこしかなかった。もしそうだとしたら、どうして彼女は僕に踏み込まれたくない領域の一部を見せたのだろうか。

考えていても仕方がない。他人の考えを想像して理解するのは困難なことだ。ましてや話題がセンセーショナルすぎて、本人に聞くことすら憚られる。

頭を振ってどうにもならない考えを外に追い出した。

だらりと椅子に体を沈める。あまり行儀の良い態勢ではないが、ファミレスに居る赤の他人に見られてもなんとも思わないので、少しだけその態勢のままテーブルと目線を合わせてみる。料理を注文するまでは、何もなかったテーブルの上は、お皿やグラス、ストローの袋や紙ナフキンのごみが煩雑に置かれていた。なにも置かれていなかった時を思い出すのが少し難しいくらいだ。僕の人生もこのテーブルのように短い期間で色々と煩雑になってきた。

最小限以下の人間関係に努めていたつもりが、名前も知らなったクラスメイトの秘密を知ったことで、その彼女を学校内で監視することになったり、彼女の親友に敵対視され嫌われたりしている。他人からしたら、些細な変化に過ぎないかもしれないが人と関わることを避け続けた僕にとっては、このテーブルの色々なものがあちらこちらに散らかった状態と言ってもいい。以前の僕なら常になにもテーブルと向き合っていただろうし、仮に散らかっていたとしてもすぐに元のなにもない状態に戻していたと思う。

でも、今は違う。この煩雑でまとまりのない状態も心地よいと思えてきている。まるで、楽しい食事を終えたような。散らかった状態ですら、楽しんだ過程で生まれた結果なら許せると思える。そんな心地のよさだった。いずれそれをきれいにして、なにも無くなったテーブルを見た時に寂しいという感情が心の隅に芽生えるような気さえしていた。

態勢を戻して、椅子に座り直した。テーブルの上を見回して、冷めきってしなびたフライドポテトを口に放り込む。口の中に安いしょっぱさと重くべたついた油の味が広がった。それを氷の解けたアイスコーヒーで一気に流し込んだ。

「まずい…」

 一人呟いて、ため息をこぼした。

 それを見て、タイミングを伺っていたのかファミレスの店員さんがやってきた。

「お客様、お済みのお皿お下げいたしましょうか?」と不審な顔を覗かせつつも笑顔で僕に問いかけた。

「いえ、お会計をお願いします」

「はぁ。そしたら、お会計あちらになります」

 明らかに不自然だったやり取りに違和感を覚えた店員さんは、不審な顔を隠すことはせず僕をレジまで案内してくれた。

 会計を淡々と済まして、店員さんの張り付けたような笑顔と感情のないありがとうございました。を背に受けた僕はファミレスの外に出た。

 僕は、テーブルの上が片付けられる光景を見たくなかった。

 

ファミレスでの会計は、千円を超えていなかったので新井さんが置いていった千円の出番はなかった。この千円は後日、彼女に返すことにして財布にしまっておくことにした。

 しばらく、新井さんと話をするのは、難しいだろう。もしかしたら、卒業まで二度と話すことは無いのかもしれない。そうなりそうだったら、美香に事情を説明してお金を返してもらおう。ただ、それは今すぐではない。少なくとも今は、新井さんと会っていたことを美香には、知られたくないと思った。話がこじれてしまう可能性もあるし、理由を説明するのも面倒だ。

 そんなことを考えているといつの間にか自宅に着いていた。時刻は二十時を回っており、父さんが家に居るかは五分五分だった。

 静かに玄関ドアを開け、たたきを上がる時、奥の部屋の扉から明かりが漏れていることに気が付いた。玄関から廊下を抜けた先にある部屋はLDKになっている。父さんの部屋は、玄関とLDKを繋ぐ廊下の途中にあって、その部屋には明りが付いておらず、父さんがLDKに居るのは間違いなかった。父さんがLDKに居るのは、月に一度あるかないかの頻度だ。食事は基本的に仕事帰りに食べてくるか家で食べる時も自室で食べている。キッチンに用がある時などに来るときはあるが、居ても一分くらいだ。わざわざ自室の電気を消してまで、LDKに行くとは考えられなかった。

 顔を合わせたくないと思いながらも僕は、足を進めた。なぜなら、僕の部屋に入るためには、リビングを必ず経由しなければ、いけないからだ。

リビングに通じる扉を開けて、「ただいま」と形式じみた言葉を口にした。

「あぁ。おかえり」父さんも形式的に返した。

 父さんは、ダイニングテーブルで、アイスコーヒーを飲んでいた。いつもなら仕事か自室に居る時間なのに、わざわざダイニングに居るのは、やはり珍しいことだった。まるで、僕の帰りを待っているような。そんな気がした。

 だから、僕は、逃げるように自分の部屋に入ろうと扉に手を掛けた。

その時、「待ちなさい」と父さんの低く平坦な声が、僕の動きを制した。

 ゆっくりと扉から手を離して、父さんの方へと向き直る。

「なに?」

「こっちに来なさい」

 四人掛けのダイニングテーブル。キッチン側の奥の座席が、昔から父さんの定位置だった。父さんは、そこに座ったまま僕にも椅子に座るよう促した。僕は、黙ってそれに従うことにした。何の話か分からない以上ここで、反抗する理由は、特になかったからだ。ただ、思い当たることは、一つしかない。

学校指定の鞄を部屋の扉のすぐ横に置き、父さんと向かい合う椅子ではなく、斜め向かいの席に座った。正面に座るのは、避けたかったからだ。そこは、お母さんの定位置で、僕が座るべき場所ではなかった。

 久しぶりにしっかりと見据えた父さんの顔は、以前よりも、ぐっと老けて見えた。

「父さんになにか隠していることがあるんじゃないのか?」

 抑揚のない声だった。昔から父さんのこの声が嫌いだった。僕のことを無理やり押さえつけるような感情のないそんな声が、嫌い嫌いで仕方なかった。

「……なにも隠してない」

 微かに声が震えた。父さんの声と違って、感情が表に出てしまった弱々しい声だった。

 僕の答えが嘘だと父さんは、気付いているだろう。だが、何も口にしなかった。お互いに無言のまま時間だけが進んでいく。

 時計の秒針のカチカチという音が、一秒という時間の長さを明確に刻んでいった。

キッチンの蛇口から水が滴り落ちる音、父さんのグラスから聞こえる氷同士のぶつかる音、自分の息をする音でさえもうるさいと思える静寂が、リビングを満たしていた。

そんな静寂を打ち壊したのは、抑揚のない平坦な声だった。

「毎週、病院に通っているそうじゃないか」

 予想通り、病院のことについてだった。

 父さんは、土曜日も仕事のことが多く、あまり家にいない。家に居たとしても僕がどこに出かけていようと関心を頂いたことは、今まで一度もなかった。

それに定期健診のお金に関しては、祖父母からもらった使い道のない数年分のお年玉を使っていたし、病院の教えている連絡先は、僕の携帯番号のみなので、気付かれるわけがないと思っていた。

 僕がなにも話さないことを肯定と受け取った父さんが、続けて口を開く。

「近所の方が、土曜日に病院で必ず智を見ると言っていた。なにかの病気じゃないかと心配なさっていた。どうなんだ?」

 県内一の大学病院には、僕以外にもたくさんの患者さんが、代わる代わるやってくる。その中に僕と同じく、土曜日に何らかの病気で定期的に病院に通う人ももちろんいるだろう。運が悪かったのは、その人が、近所の人で尚且つ、父さんに遠慮なく話しかけることのできる人だったということだ。

 僕は、黙秘した。まるで、取り調べを受けているようなそんな気分だった。

 再びリビングに静寂が満ちる。

 父さんに病気のことを隠していた理由は、特になかった。同じくらいに話す理由もなかったのだが今、はっきりとした。

僕は、恐れていた。その証拠に手足の先が異様に冷たくなる。それなのに手には、じんわりと汗が浮かぶのを感じていた。

父さんは、自分の息子にすら感情を覗かせない人間だ。僕の病気を知ってもなお、何ら感情を見せず、いつもの抑揚のない声で「そうか」と言うに違いない。それは、暗に僕という存在を父さんが、疎ましく思っている証拠になる。僕は、それが怖いのだ。

お母さんがいなくなってしまったのは、自分に原因があるんじゃないのかとずっと考えてきた。そのことを父さんと一度だって、話をしたことはない。でも、わかってしまうのだ。あの日、怒りと悲しみに身を任せて、父さんに一方的に感情ぶつけたあの日。父さんは、僕のことを否定も肯定も慰めもしなかった。ただ、無言で僕の言葉を受け入れるだけだった。

僕と父さんの関係は、あの日から、ずっと凍ったように止まったままだ。永久凍土のように凍え切った家で、お互いに干渉することはなく、何年も暮らしてきた。その間に形成された親子関係の歪みは、解けることを知らない分厚い氷の壁になっていた。

もはや、相手の姿さえも見えない分厚い壁は、僕が真実から逃げてきた産物だ。だから、僕は、それを壊したくなかった。

息が詰まるような数秒だった。いや、数分だったのかもしれない。僕は、なにも言わなかった。何も言えなかった。

「今、話をしたくないなら、それでも良い。話ができるようになったら、話しなさい」

 父さんは、それだけ言うと静かに立ち上がり、自室へと戻っていった。

 僕は、父さんが片付け忘れたコーヒーの入っていたグラスをキッチンに置いてから、自分の部屋に入った。

 部屋に入るとそのままベッドに倒れ込んだ。もう何も考えたくなかった。早く明日になってくれ。そう願って強く目を瞑った。

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