第9話
僕たちの住む駅に足を下ろした。
駅に着くと、美香のお母さんが車で迎えに来ていた。
僕も家まで送って行くと提案されたが、一人になりたい気分だったので、辞退することにした。
なので、僕は、一人で自宅に帰ってきた。
時刻は、二〇時。父さんは、まだ帰って来ていない。
僕は、汗を洗い流すためにシャワーを浴びた。
お風呂から出るとスマホが震えた。メッセージを受信したようだ。
メッセージアプリを起動して、内容を確認する。
<今日は、ありがとう!>
美香からだった。
僕は、既読にだけして、彼女に内容は見たと意思表示をした。返信はしなかった。
僕がスマホを閉じようとした際にもう一度、メッセージを受信した。
今度は、父さんからだった。
<仕事で、帰れなくなった。明日の朝には……>
メッセージの内容をポップアップ通知だけで確認して、本文は未読のままスマホを閉じた。
部屋着に着替えるとごはんも食べずに自室に籠ることにした。
疲れが出たのか、いつもよりも強く眠気を感じたからだ。そのままベッドに身を委ねて、瞼を閉じる。瞼の裏には、今日の出来事が浮かんでは消えてを繰り返す。
知らない町に行ったこと。真先輩のお墓参りをしたこと。遊園地に行ったこと。一日の少しの時間しか見ることのできない景色を見たこと知ったこと。美香の生き方に触れたこと。
睡眠とは、記憶を整理する重要な過程であると睡眠に関する本で読んだことがある。その過程で余計な部分は、省かれ、統合されていく。そして、美化され、思い出となっていく。
僕は、今日の出来事が一言一句、一分一秒も美化されることなく、死ぬまで、覚えていたいそう思いながら、眠りに落ちていった。
これは、夢だ。まぎれもなく夢だ。
父さんが、僕の右手をお母さんが、左手を握っている。幼い僕は、両親に握られた両手をくすぐったく思いながらも喜んでいた。
両親は、僕の歩みに合わせてゆっくりと歩いて、遊園地の出口へと向かっていく。
僕は、少しだけ名残惜しくなって、遊園地を振り返る。観覧車が、夕陽の橙色に染まっていた。藍色の空には、星と月が浮かんでいた。
その景色を見て、幼い僕は、今日が終わってしまうこと明日が来てしまうことを悲しく思っていた。
定期健診に来ていた僕は、病院の待合室でうつらうつらしていた。
美香と遊園地に行った翌日、土曜日の午前。昨晩は、懐かしくも嫌な夢を見て、あまり休むことができなかった。
土曜日の病院は、人が多かった。迷惑にならないよう壁際の椅子に腰をかけ、壁にもたれるようにして、僕は、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
時折、眠気に負けて目を閉じれば、壁に頭をぶつける動作を数回行った後にやっと名前が呼ばれた。
診察室に入ると斉山先生が、椅子に座って待っていた。僕は、後ろ手に引き戸を閉めようとする。しかしドアは、締め切る前に何かに引っ掛かり閉まり切らなかった。振り返えるとドアは、こぶし一つ分ほど開いていた。
「すみません。ドアの立て付けが悪くなっているんですよ」斉山先生は、立ち上がってドを閉めた。
「閉めるのに少しばかり、コツが必要なんですよ。多少の不便はありますけど診察に大きく影響はないので、修理は追々します」
僕は、学校の理科準備室のドアを思い出した。僕の関わるドアは、大概、調子が悪いな。そんなくだらないことを思った。
「どうぞ、座ってください」そう言って、自分の席に戻った斉山先生は、正面の席を勧めた。
「ありがとうございます」自分の手荷物を籠に入れた僕は、勧められるままに椅子に座った。
「なんだか今日は、すごく疲れてそうですね」斉山先生は、カルテを見ながら、言った。
「昨日は、あまり眠れなかったので、そのせいだと思います」
「そうですか。ここ一週間で眠れなかった日は、他にありますか?」
「なかったと思います」
「他に日常生活で変わったことは、ありましたか?」
「いえ。普段と変わりないです」
僕が答えると斉山先生は、カルテにメモを書き込む。日本語で書かれていないので、なんと書いたかは読み取れなかった。
斉山先生は、ペンを置くと真剣な表情で、僕の目をまっすぐと見据えた。
「今、私の方で、君の病気に関する資料を世界各地から集めているところです。ただ、あまりにも珍しいケースなので、正直なところ難航しています。ですが、なんとかして君の病気を治す術を見つけます」
一、患者。一、学生に対して、ここまで言う必要は、果たしてあるのだろうか。人によっては、不信な気持ちにもなるだろう。斉山先生は、素直というか正直すぎるところがあるのだ。だが、僕は、そこをすごく信頼している。
表面的な言葉で濁されるよりも本当のことを言ってもらえる方が安心できる。
「ありがとうございます」
「いえ、医者として当然のことです。それに君の病気は、私が把握している限り、日本では、君だけです。なので、今の言葉、君を勇気づけるのと同時に自分自身への喝でもあるわけです」
そう言って、斉山先生は笑った。子供のような笑顔だった。
ここまで、屈託なく笑う大人を僕は、知らない。少なくとも身近にいる大人は、もっと張り付けたような笑顔を浮かべる。
僕に対しても平等に接して、正直に話をしてくれるそんな斉山先生に聞いてみたいことがあった。
「斉山先生は、眠り姫症候群をどう思いますか?」
眠り姫症候群を患う美香と関わることで、この病気があまりにも特異であることは、理解していた。その病状から治療法に至るまで。そのことを医者として、患者と向き合う斉山先生が、どう考えているのか知りたかった。
「そうですね。きっと高来君は、病理学的な視点のお話を聞きたい訳ではないようですから、私の個人的な考えをお話しさせて頂きますね」
そう前置きをして、椅子から立ち上がった斉山先生は、医学書の詰まった本棚から一冊の本を取り出した。
「この本は、ご存知ですか?」
斉山先生は、「眠り姫」の本を僕に見せる。
僕は、黙って頷く。
「実は、この本の著者は、私の高校時代の同級生です」
これには、思わず驚いて、えっ。という素っ頓狂な声が漏れた。
「と言っても、そこまで接点があったわけじゃないんですよ。彼女が、病気になった時は、別のクラスでしたから」
斉山先生は、昔を懐かしむように続けた。
「彼女が、病気になった際は、学校中、大騒ぎでしたよ。当時は、今ほどメジャーな病気では、なかったですし、インターネットもそこまで発展している時代ではなかったので、様々な噂が飛び交っていました。やれ呪いだのと好き放題でしたね」
僕は、黙って話に耳を傾けていた。確かに情報があまりない時代に眠り姫症候群なんて特異な病気を身近な人が発症したら、オカルト的なものを疑ってしまうのも無理はない。
「少し話が逸れましたね。私は、医者になる前から眠り姫症候群という病気を見てきました。むしろ、それがきっかけで医者になることを選んだのかもしれません。なので、医者として一個人として、言わせてもらいますと眠り姫症候群は、ある意味では、残酷な病気なのかもしれません」
「残酷な病気?」
「ええ。他の病気と違って、間違いなく完治する方法が存在しているのは、幸せなことでしょう。治ったとしても後遺症が残る病気は、ごまんとありますから、後遺症も何も残らないで完治する点も稀有な病気です。ただ、治療法があまりにも特殊すぎるので、私は残酷な病気だと思っています」
斉山先生の声は、いつものように優しく平静な声だったが、そこに一滴の波紋のような淡い感情を感じた。それは、昔の恋心のようなもしくは、小さな嫉妬心のような。
「私は、医者として何人もの眠り姫症候群の患者さんを見てきました。もちろんたくさんの方が病気を完治させて、元気に退院して行きました。でも全員では、なかった。恋人がいるけど完治しなかった人、片思いの末に眠りについてしまった人、様々でした。実際に恋人のキスでは、目覚めませんでしたが、別の男性からのキスで目覚めた患者さんもいらっしゃいました。感情を数値化することはできませんが、この病気は、一対一〇〇の感情でも、一〇〇対一の感情でも、五〇対五〇の感情でも、目覚めることはないと思います。一〇〇対一〇〇に最も近い感情で、目が覚めるのだと考えられています」
「もし、誰かを好きになったことがない。なれない患者さんが居た場合、病気の治療のために一生懸命、誰かを好きになった時、その感情は、一〇〇の恋愛感情に届くのでしょうか。自分が一〇〇の感情を持っていたとしても、相手が持っていないことも往々にしてあります。その時、彼女たちは、そして残される彼らは、何を思うのでしょうか。私にもわかりません。ただ、悲観にくれる彼女、彼らを見てきました。想いあっている異性同士で、キスをするといった単純で明快な治療法なのに、それができなかった。そのことに自分の気持ちはそんなものだったのかと、別に想う誰かが居たのではないかと、そんな半信半疑な気持ちを持ったまま亡くなっていく。または、それを黙って見送らなければならない。人の感情という目に見えないものを病気という形で、可視化させてしまう。完治する治療方法が存在している。だから、私は眠り姫症候群を残酷な病気だと考えています」
斉山先生は、自分の考えを話し終えると「眠り姫」の表紙を優しく撫でた。その仕草は、大切な人に触れるような。そんな優しい仕草だった。
感情を可視化してしまう病。しかもそれを生と死という形で可視化する。
斉山先生の話を聞いて、僕の中で腑に落ちるものがあった。眠り姫症候群という病の本質に触れた気がしたからだ。
「僕もそう思います。」言葉少なげに頷いた。
「あくまで個人的な考えなので、病気の向き合い方は、人それぞれだと思います。事実、眠り姫症候群が完治したことで愛が深まった恋人同士の方が、圧倒的に多いですから」
そう言うと斉山先生は、眠り姫をデスクに置き、カルテを手に取った。
「今日の診察は、以上ですね。薬をお渡しするので、待合室で待っていてください」
「ありがとうございました」
診察室を後にする。入ってきた時と違って、ドアはすんなりと開いた。
会計を終えて、薬をもらった僕は、病院を後にした。
バスに揺られながら、スマホを取り出してメッセージアプリを立ち上げる。
そこに唯一、登録されている女性にメッセージを送る。
<君になんと言われようと思われようと僕は、君の病気を治すことにした>
それだけ送って、スマホを閉じた。
斉山先生の話を聞いて、僕の気持ちは固まっていた。たとえ苦しい結果に、終わろうとも彼女を救ってみせると。
こんなふざけた残酷な病気で彼女が死んでしまうことを僕は、認めたくなかった。
菅野美香に生きていてほしい。その気持ちは、彼女と出会った時から、変わっていないが、より強固なものになっていた。
バスに揺られる三〇分間で彼女のことをたくさん考えて、そして、少しずつその記憶に蓋をしていった。僕は、これから第三者として、彼女と彼女を救ってくれる誰かと接しなければならない。その時にきっと今までの出来事は、決心を鈍らせることになりかねない。
僕が、彼女を好きになるなんて、ありえない。許されないことなのだから。
バスが、自宅付近のバス停に停車する。バスを降りると湿気交じりの暑さに不快感を覚える。
もうすぐ夏だな。嫌いな季節がやってくる。そう思った。
その日、美香からの返信は、一度もなかった。
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