第5話
英語を一通り教え終え、小休憩を挟んで次の数学を教えるための準備をしていた。
スマホを確認すると時間は、一六時半になっていた。普段なら僕も彼女も家路に着いている時間だ。廊下から生徒が数人、帰っていく声が聞こえてくる。
そこでふと気になることがあった。
「そういえば、帰りの時間、大丈夫?」
「お母さんには、一七時に迎えに来てもらえるようにお願いしてあるから大丈夫!」
数学の問題集を机に広げた彼女は、スマホでメッセージを確認しながら言った。
「とりあえず、残り三十分、お願いします」
スマホを机の上に置いて、彼女は、仰々しく頭を下げる。
「じゃあ。時間も無いし始めようか」
そう言って、昼休みの続きを始めようとした時、僕らしかいない教室に声が響いた。
「あれ、美香じゃん!」
声が聞こえた方に僕も彼女も目を向けた。教室の黒板側の入り口に女の子が立っていた。その子が声の主だろう。すごく驚いた顔をしている。
彼女の名前を呼んだ女の子は、教室に入ってきて僕と彼女の方に歩いてくる。
「え、椎奈!どうしたの?」美香は、椅子から立ち上がって、驚きの表情を見せていた。
椎奈と呼ばれた女の子は、僕のことをにらむように見つめ、美香のところへ一直線に向かってきた。
「美香こそどうして、こんな時間までいるの?部活が休みの日は、すぐに帰っちゃうのに」
「今日は、高来君に勉強を教えてもらってたの」
そう言って、美香は僕のことを紹介するように手をこちらに向ける。
「……どうも」と軽く会釈をする。
椎奈と呼ばれた女の子は、黙って会釈を返した。
「紹介するね。この子は、二年四組の新井椎奈。私の中学からの大親友!」
美香は、誇らしげに友人を紹介した。紹介された新井さんは、どこか恥ずかしそうにしていた。
新井さんは、日に焼けていない色白の肌に、背中まで伸ばした黒髪の長髪にキリ長な目をしている。美香とは、対照的な印象を受けた。
キリ長な目でまた僕をにらむように見つめて、「新井です」と言った。
どうして、初対面の女子に、にらまれているのか全く心あたりがなかった。
「こちらは高来智君。私のクラスメイト」
美香は、新井さんが僕をにらんでいることには、気付いていないのか再度、僕のことを紹介した。
新井さんの僕をにらむ目が鋭くなったように感じた。
「さっきも聞いたよ。」
僕から視線を外した新井さんは、優しい目で美香を見つめた。そこには、慈愛のような感情が滲んでいるように見えた。
「そうだっけ。えへへ。椎奈もこんな時間まで学校にいるなんて珍しいね」
美香は、とぼけながら、新井さんと同様に優しい目を向ける。
この二人は、本当に仲が良いのだろう。
「私もクラスの友達とテスト勉強してたの。だけど、友達が帰えちゃったから、私も帰ろうとしていたところなんだけど……」
新井さんは、僕の机に広げられた数学の問題集を見下ろす。
「私も混ざっていい?」
そう言うやいなや、新井さんは、隣の席から椅子を持ってきて座った。
「私は、いいけど……」
美香は、確認を取るように僕を見つめた。
正直、面倒だと思ったが、断る理由も思いつかず、曖昧な頷きを返した。
「ありがとう」
新井さんは、鞄から勉強道具を何も出さずに、美香のノートを確認した。
「美香、ここ間違ってるよ」
「うーん……」
美香は、指摘された問題を見つめて、頭を抱えながら唸っている。数秒、唸ったあと閃いた顔をして、
「あ、ほんとだ。さすが椎奈!頭いいね」
「そんなことないよ」
新井さんは、髪を耳に掛けながら、照れたように答える。
新井さんが勉強を教える姿を僕は、黙って見ていた。僕よりもテキパキと美香に教えていく。美香は、時々、分からないといった顔をしながらも着実に問題を解いていった。僕が教える余地はなさそうだった。
「ねぇ、美香。最近、何かあった?」
新井さんが美香に勉強を教え始めて、数分経ったところで、尋ねた。新井さんは、真剣な目で美香を見ているが、美香は、自分のノートから顔を上げない。
空気が重たくなったように教室に緊張感が走った。
「何かってなに?なんにもないよ」
その声は、普段と変わらなかったが、小さなとげがあるような気がした。それを態度で示すかのように美香はノートを見たまま、新井さんの方を見ようとしない。二人の間に冷たい空気が流れる。美香がペンを走らせる音だけが張り詰めた空気の教室に響く。
「どうして…」
新井さんが話そうとしたタイミングで誰かのスマホの着信音が、張り詰めた空気を切り裂いた。
「ごめん。私だ」
そう言って、美香は鞄からスマホを取り出し、着信に応答する。
「もしもし。うん、わかった。すぐ行く」
多分、母親からの連絡だろう。時計を見るともう一七時になっていた。
「ごめん。お母さんが、学校に着いたみたいだから行くね」
美香は、手早く荷物をまとめた鞄を肩にかけて、教室を出て行こうとした。新井さんの言葉は、聞こえなかったふりをするように、逃げるように教室の扉まで急ぎ足で、向かっていく。
僕も彼女に合わせて荷物を持って追いかけた。
新井さんは、椅子に座ったまま動けないでいた。
「僕もいくよ」
見守ると約束してから、昇降口まで彼女を送って行くのも僕の日課になっていた。二年生の教室は、校舎の二階にあるため階段の途中で眠ってしまったら、危険だからそうしていた。
「今日は、大丈夫」
美香は、足を止めて、僕の方へは振り返らずに言った。
彼女が拒むなら、僕は、それ以上、踏み込むことをしない。
僕が黙っているのを肯定と受け取った美香は、教室に扉に手を掛けて、出て行こうとする。
「待って!」
椅子から立ち上がった新井さんが叫ぶように声を上げる。その声に美香の肩が、ピクリと跳ねた。それでも美香は、振り返らなかった。だが、その背中が次にくる言葉に怯えているのが分かった。
「美香。……また明日」
新井さんは、何かを押し殺すようにそれでも優しい声を掛けた。
新井さんの言葉に美香の背中から怯えの色が消え、肩の力が抜けたように見えた。
「うん!またね、椎奈」
振り返った美香は、とびっきりの笑顔を新井さんに向け、そのまま教室を出て行った。だが、すぐに戻って来て
「高来君もまたね」
それだけ言って、走り去って行った。
廊下から走らない!と先生の声が響いた。
あまりにも早く行ってしまったので、僕は何も言葉を返せなかった。
そして、教室には、沈黙と気まずさが満ちた。知り合いの知り合いしかいない空間に居たたまれなくなる。足早に、僕も帰ろうとした時、「ねぇ」新井さんが声を掛けてきた。それには、敵対心のようなものを感じた。
「一緒に帰らない?」
「え?」
毒気を抜かれたような間抜けな声が出た。理由は、分からないが、なんとなく嫌われているような気がしていたから、予想外の展開で驚いてしまった。
「だから、一緒に帰ろうって」
新井さんは、苛立ち交じりに言って、僕よりも先に教室の扉に立って有無を言わさない態度で僕を睨む。押しが強いところは、美香に似ていると思った。
結局、断ることもできず、一緒に帰ることになった。最近、自分が押しに弱いような気がしてならない。
昇降口に向かうまで、新井さんは、一言も言葉を発さなかった。校門から学校の外に出た時、新井さんが口を開いた。
「美香はね。中学生からテニスを一生懸命やってきたの。辛いこともあったけど…。それでも毎日楽しそうだった。でも、高校に上がってからは、度々、部活を休んでるって、同じクラスのテニス部の友達に聞いたときは、すごく驚いた。中学の時は、学校を休んだことなんてなかった。もちろん部活も。それに今日もだけど美香のお母さんが、学校への送り迎えもしてる」
隣を歩いていた新井さんの足が止まる。二歩ほど歩いたところで気付いた僕は、振り返って、こちらを睨む新井さんの姿を確認する。
新井さんは、一度大きく息を吸い込むと意を決したように口を開いた。
「美香は、私に何かを隠してる。高来君って言ったけ。あなたは何か知ってる?」
そう尋ねてきた新井さんの瞳は、相変わらず僕を睨むように見ているが、不安の色が滲んでいた。
僕は、その事情の全てを知っているが、答えることはできない。美香との約束があるから。
それに美香と新井さんが親友だからこそ、僕の口からではなく、美香本人から聞くべきだと思った。
「知らないよ。そんなに気になるなら、菅野さんに直接、聞けばいいんじゃないかな」
「何度も聞こうとしたけど美香は、はぐらかすばかりで。次第に聞くのも怖くなった。だから、あなたならなにか知ってるんじゃないかって、そう思って……」
新井さんは、訴えかけるような目で僕を見つめた。その両目には、しずくが溜まっていた。
新井さんの必死そうな目が僕には、眩しく見えた。新井さんもまた何かに一生懸命になることができる人なのだと思った。
「どうして僕が知っていると思ったの?ただの……クラスメイトだよ」
クラスメイトという関係性が少し違うような気がして、言いよどんでしまう。クラスメイト言う関係がなんとなく軽薄な気がしてしまった。
「美香と親しそうだったから。それに美香が男の子と話してるとこなんて久々に見た」
そんなことないと思ったけど、確かにクラスで美香が男子と話しているとこを見たことは無かった。話しかけようとしているクラスメイトは何人かいたが、美香は、話しかけられる前にどこかに行ったり、その場にいる女子に話しかけたりしている姿を見たことがあった。その時は偶然の連続だと思っていたが、言われてみれば、あからさまに避けている行動にも思えた。
なるほど。なんとなく新井さんが僕を睨むように見ていた理由が分かった。親友の傍に突如現れた男に警戒心を抱いたのだろう。
一人で勝手に解釈しておく。今後、新井さんと関わることもないだろう。これ以上、関わる人が増えるのは、僕の主義に反することになる。
「そんなに親しい訳じゃないよ」
友達じゃなくてあくまで同胞だから。
「ううん。私から見たら十分、親しい関係だと思うよ。あなたと話している時は、まるで、中学生の時の美香に戻ったように見えたもの」
新井さんは、どこか懐かしむような目をしていた。表情も明るくなったように見えた。
「私は、美香が何か困っているなら、助けになってあげたい。それがおせっかいだとしても美香が悲しむ姿は、もう見たくないから」
それは、静かだけど熱の籠った声だった。何かを決意した人の声だ。
新井さんの言葉に、僕は何も返すことができなかった。ただ、黙って、バス停まで歩き続けた。
バス停に着くと新井さんは、徒歩だからとそこで別れた。
バスに乗って、一番後方の座席に座る。「眠り姫」を読もうと鞄から取り出したが、すぐにしまった。
本を読む気には、なれなかった。
何の気もなしに、窓の外を眺めることにした。
走るバスから見える移り行く景色を意味もなく見る。何の刺激もなく、心は無のまま。
バスが、小学校の前で停車した。停車したバスの窓の向こうに、楽しそうに下校している小学生とその両親の姿が映った。小学生の男の子は、母親と手を繋ぎながら、にこやかに笑っていた。その姿を後ろで歩いている父親が微笑ましそうに見守っている。どこにでもある幸せな家族の光景が、そこにはあった。
僕は、反射的に窓から目を離した。見たくないものを見てしまったかのように目を背ける。そして、目を瞑って、眠ることにした。
真っ暗な世界の中に子供が、一人うずくまって泣いていた。
辺りには、なにもなく誰もいない。その子供だけしかいなかった。
僕は、ゆっくりとその子供に近づいた。ここがどこか知りたかった。子供の前で立ち止まった僕は、見下ろすような形で子供を見た。
僕が近づいたことに気付いたのか、子供は泣きながら、立ち上がった。
「……お母さんがいなくなっちゃった」
子供は顔を伏せながら、そう僕に訴えかけた。
周囲を見回すが、真っ暗でなにも見えない。人の気配もなかった。
子供が僕の手を握ってきた。小さなその手は、震えていた。子供の怯えが握られた手を通して僕にも伝わってくるようだった。
「ねぇ。どうして、お母さんはどこかに行っちゃった?」子供が問いかけてくる。
僕がそんなこと知るわけがない。ここがどこかさえ分からないのに。心に苛立ちを感じる。子供に対して、そんな感情を持つべきではないのに、訳がわからない場所にいるからだろうか感情の昂りをいつもより強く感じた。
僕は、片膝をついて、子供に視線を合わせた。この苛立ちをぶつける訳ではない。ただ、少しでも子供と会話すればこの苛立ちも収まると思った。
視線が合ったことに気づいた子供が頭をあげる。
その顔を見て、僕は驚いて、後方にのけ反って、尻餅をつく。そこには、四歳の僕がいた。
四歳の僕が、一七歳の僕を指差して言う。
「お前のせいでお母さんは、いなくなったんだ」
聞き慣れたバス停の名前で目を覚ました。自宅近くのバス停の名前がバスの中に響き渡る。はっきりしない頭で降車ボタンを押した。程なくして、バスは停車した。頭を押さえながら、乗車賃を払ってバスを降りる。降りるときに運転手が「お兄さん、大丈夫?」と尋ねてきたが、答える余裕はなかった。
頭が締め付けられるように痛んだ。苦しくなって、バス停の簡易的なベンチに座った。
吐き気がこみ上げてきて、思わず口を手で覆う。何度かえづきはしたが吐くことはしなかった。
荒れた呼吸を整えるように深呼吸をする。頭痛と吐き気も少しだけ落ち着いてきた。
最悪の気分だ。
今日は、早く寝よう。そう思って、ベンチから腰を浮かす。おぼろげな足取りで自宅を目指す。先ほど見た夢を思い出して自虐的な笑みを浮かべる。
「お前のせいでお母さんは、いなくなったんだ」
そんなこと改めて言われなくてもよく分かっている。母さんが当時、四歳だった僕の前からいなくなったのは、全て僕のせいだってことくらいは。
薄暗い帰り道が、いつもより寂しく感じた
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